第39話 絵の中にはまだない花
まめこは、机の上へ白い袖を乗せた。
すぐに持ち上げた。
鉛筆の先が、袖口へ触れそうだった。
「マリー。ここ、折って」
「お絵描きですか?」
「うん。ドーナ様に持っていくん」
マリーが袖口をひと折りすると、指が全部出た。まめこは両手を広げ、それから紙の端を押さえた。
窓の外では、菜園の葉が風に揺れていた。朝のうちに見に行った時、玉ねぎの細い葉はまっすぐ立ち、キャベツの苗は、植えた日より少し幅を取っていた。
紙には、先に屋敷を描いてあった。
窓が三つ。
もう一つ描こうとすると、屋根からはみ出した。
まめこは鉛筆を止めた。
「……こっちは、後ろの窓や」
独り言を言って、その下へ線を足した。
花壇は、紙の真ん中に大きく描いた。前に行った時に咲いていた、小さな淡い花。そのそばへ、丸い石も置く。
花びらを描いているうちに、花が屋敷の窓より大きくなった。
まめこは少し離して紙を見た。
「お花、よう見える」
今度は、直さなかった。
*
数日前、メグは実家へ手紙を出していた。
港でまめこが助けられたことと、ゲンゴロウに会ったことを書いた。返事には、まめこの無事を喜ぶ言葉と、ゲンゴロウが今は屋敷の客室に滞在していることが記されていた。
港で会った日は、船で運ばれてきた動物を見るために出かけていたらしい。
それを聞いてから、まめこは何度も尋ねた。
「まだ、おる?」
訪ねる日が決まっても、朝食の時にもう一度聞いた。
「今日も、おる?」
「ええ。お母様のお手紙には、そうありましたわ」
メグが答えると、まめこはパンの最後のひと口を食べた。
「ほな、絵、仕上げる」
そして今、紙の隅には笠の男が増えていた。
横笛を持たせようとして、手から長い棒が伸びた。
まめこは、小さな穴を並べた。
笠の下に口を描く。
笛とは、少し離れていた。
「吹く前やな」
そう決めて、男の横へ黒い猫を描いた。
*
馬車の窓から見える畑は、前に来た時より茶色いところが増えていた。
土を返している人がいた。畝の間には、集めた草を積んだ小さな山がある。
まめこは紙を挟んだ板を膝に置き、白いローブの前を合わせていた。
「ドーナ様、これも見てへんな」
胸の布を、指でつまんだ。
「そうですわね。今度は、暖かいお洋服を見ていただけますわ」
「耳、入るとこも」
フードの上の、二つの膨らみに手を当てる。
メグは厚い上着を着ていた。マリーも、膝の籠を押さえる腕へショールを重ねている。
籠の中で、トロが短く鳴いた。
「お前の服は、そのままやな」
「ニャ」
まめこは籠の隙間へ指を寄せた。
黒い鼻が、ひとつ触れた。
*
門を入ると、庭の木から葉が落ちてきた。
馬車の窓へ一枚、貼りつきかけた。
まめこが顔を近づける前に、風で飛ばされた。
玄関で待っていたドーナは、馬車から下りたまめこを見ると、すぐに微笑んだ。
「まあ。今日は、白いお洋服なのね」
「あったかいで!」
まめこは板をマリーに預け、フードの両側を持った。
「ここ、耳入ってる」
ドーナが少し屈んだ。
「窮屈ではない?」
「うん。中で動くん」
動かしてみると、右の膨らみだけが、ぴくりとした。
左も動かそうとして、まめこは眉を寄せた。
「……こっち、今、休んでる」
「ええ。よく分かりましたわ」
ドーナは笑い、白い布の縁へ目を落とした。
裾には、小さな木の実の刺繍が並んでいた。
「こちらも、あの仕立て屋さんが?」
「アバンとベリーが作ってくれてん。制服の上も着られるで」
「それは嬉しいわね。寒い朝にも安心ね」
まめこは頷いた。
褒めてもらうたびに、まだ見せていないところを思い出した。
「後ろ、尻尾も――」
「続きは、中で拝見しましょう」
メグが言った。
ドーナの肩掛けも、風に揺れていた。
まめこは両手を下ろした。
「あい。ドーナ様も、寒いな」
*
暖炉のある部屋へ入ると、イオルドが椅子から立った。
その向こうに、笠があった。
小机へ伏せて置かれていた。
まめこは、それを先に見つけた。
次に、立ち上がった男を見た。
「ゲンゴロウさん!」
「こんにちは、まめこさん」
今日は、破れていない上着を着ていた。
ゲンゴロウは、まめこの後ろにいるメグへ目を向けた。
「メグさんも、ご一緒でしたか」
「ええ。先日は、ありがとうございました」
ドーナが娘のそばへ寄った。
「この子も、まめこを助けていただいたことを手紙に書いてきましたの。娘のメグですわ。昔、こちらでお会いになったでしょう?」
ゲンゴロウは、メグの顔を改めて見た。
「……あの小さなお嬢様でしたか」
立ち姿から顔へ、もう一度目を戻した。
「すっかり大きくなられて。港では、気づきませんでした」
メグが、小さく首を傾げた。
「以前、お会いしたことがございますの?」
「ええ。このお屋敷で、何度か。あなたが、四つか五つの頃です」
メグは少し考えてから、申し訳なさそうに眉を下げた。
「すみません。私、覚えておりませんわ」
「無理もありません。まだ、小さなお子さんでしたから」
ゲンゴロウは笑い、丁寧に頭を下げた。
まめこは、二人を交互に見た。
まめこは近づき、ゲンゴロウの肩を見上げた。
「もう、痛ない?」
「ええ。メグ様に治していただきましたから」
ゲンゴロウが腕を少し動かして見せた。
それから、男の顔へ目を戻した。
「この前、ありがとう」
「わたし、怪我せえへんかった」
「ええ。それが一番です」
イオルドがそばへ来て、ゲンゴロウに改めて礼を言った。
ドーナも頭を下げた。
まめこはその間、マリーから板を受け取っていた。
「これ、持ってきてん」
*
紙を外すと、ドーナは両手で受け取った。
「新しい絵ね」
「うん。今度は、お花咲いてる」
大きな花の横に、白い三角のようなものが立っていた。
下から二本の足が出ている。
「これ、わたし」
「今日のお洋服なのね」
「そう。耳、上にあるやろ」
フードの膨らみを描いたつもりだったが、紙の中では、屋敷の屋根に似ていた。
ドーナは、紙とまめこを交互に見た。
「暖かそうに描けているわ」
まめこの口元が上がった。
「あと、ゲンゴロウさん」
紙の隅を指した。
笠は顔よりずっと大きかった。笛の穴は、端へ行くほど丸くなっている。
ゲンゴロウが覗き込んだ。
「私も入れていただいたのですね」
「うん。ここ、お庭やから、まだ一緒に行ってへんけど」
「では、あとでご一緒してもよろしいですか」
まめこは顔を上げた。
「ええの?」
「ええ。私も、お花を見たいです」
まめこはドーナを見た。
ドーナが頷くと、絵の中の花へ、もう一度指を置いた。
「ここ、案内する」
*
壁には、前の絵があった。
葉の模様を彫った、濃い色の額縁。
みんなで苗を植えた日の絵だった。
まめこはその下へ行き、ドーナの持つ新しい紙を見た。
「前の、こんな小さい」
苗の葉は、鉛筆の短い線だった。
そのそばに、大きなドーナと、髭の目立つイオルドがいる。
メグはじょうろとつながっていた。
まめこは新しい紙へ手を伸ばした。
「今度、離したで」
新しい絵のじょうろは、メグの足元にあった。
ただ、その大きさはトロと同じだった。
メグが二枚を見比べた。
「ええ。持ち歩かなくてもよくなりましたわね」
「うん」
まめこは満足そうに頷いた。
ドーナが、新しい絵を額縁の隣へそっと並べた。
「あの日は苗を植えて、今度は花を見たのね」
「服も変わった」
「そうね」
まめこは白い袖を見た。
前の絵では、頭の上に耳が出ていた。
今日の絵では、耳は布の中だった。
「寒なったから」
ドーナは頷き、紙を折らないよう、小机へ置いた。
*
お茶をいただいてから、庭へ出た。
室内で外していたフードをかぶり直すと、まめこは両側を指で押した。中の耳が引っ掛からないところまで、布を少し持ち上げる。
ゲンゴロウも笠をかぶった。
まめこは見上げた。
「それも、あったかい?」
「風は、少し入りますね」
「耳、出てるもんな」
笠の下を覗こうとして、マリーに手を引かれた。
「足元も見てくださいね」
玄関の段が、すぐ前にあった。
*
庭の道には、落ち葉が残っていた。
トロが一枚へ前足を伸ばす。
葉は風に押され、足より先へ逃げた。
黒い猫が追いかける横で、まめこは丸い石を探した。
「ここ!」
花壇の縁へ屈む。
ローブの裾を、マリーが少し後ろへ寄せてくれた。
花は、まだあった。
前に見た花の中には、先の茶色くなったものもあった。その横で、新しい小さな花が開いている。
まめこは手を膝へ置いた。
「おんなじ花?」
少し離れていた庭師が、こちらへ来た。
「同じ株ですよ。先に咲いたものは終わって、次の花が開いたんです」
「ずっと、あれが咲いてるんちゃうんや」
「ええ。こちらに、まだ蕾もあります」
庭師の指した先に、固く閉じた小さなものがあった。
まめこは顔を近づけた。
絵には、全部開いた花を描いた。
茶色い先も、蕾もなかった。
「……これも、描いたらよかった」
「また見て、描けばよろしいですわ」
ドーナが言った。
まめこは頷いた。
ゲンゴロウも、少し後ろへ屈んでいた。
「よく見ておられますね」
「前、わたしら植えたん」
「絵の、小さな苗ですね」
「うん。最初は、花なかってん」
まめこは葉を指しかけて、手を止めた。
触る代わりに、白い袖を膝へ戻した。
*
風が通ると、花が一緒に傾いた。
ゲンゴロウの上着の裾も動いた。
まめこはその肩を見てから、小さく尋ねた。
「笛、持ってる?」
「ええ」
腰の袋へ、手が添えられた。
「あの青いの、おったから吹いたん?」
「はい。落ち着いてもらうために」
「今日も、聞かせてくれる?」
ゲンゴロウはまめこを見た。
それから、ドーナとイオルドへ目を向けた。
「少し、お聞きいただいても?」
「ぜひ」
イオルドが答えた。
ゲンゴロウが袋から横笛を取り出すと、まめこは身を乗り出した。
「今日は、どんな曲?」
「では、少し明るい曲にしましょうか」
ゲンゴロウは笛を口元へ運び、静かに息を吹き込んだ。
細い音が、花壇の上へ伸びた。
まめこは口を閉じた。
指が動くところを見た。
笛の音が、ふわりと風に乗った。
港で聞いたものより、軽かった。
まめこの膝で、指が一本動いた。
次の音で、もう一本。
白い袖の刺繍が、手首のそばで揺れた。
*
笛が下りると、庭の向こうで箒の音がした。
ずっと聞こえていたはずなのに、まめこはそこで気づいた。
「……今のも、きれいやった」
「ありがとうございます」
「さっきのとこ、もう一回聞きたい。高くなったとこ」
ゲンゴロウが笛を持ち直した。
「このあたりでしょうか」
短い旋律が流れると、まめこは頷いた。
まめこは笛を見ていた。
「わたしも、鳴らしてみたい」
ゲンゴロウは笛を見て、微笑んだ。
「吹いてみますか?」
「えっ、ええの?」
「ええ。どうぞ」
ゲンゴロウは笛の吹き口を布で拭いてから、まめこへ差し出した。
まめこは両手で受け取った。
「ここに口を当てるん?」
「ええ。まずは、指の届く穴を塞いでみてください」
まめこは小さな指を並べた。
「……届かへん」
「全部でなくても大丈夫ですよ」
まめこは笛を横に構え、思いきり息を吹いた。
「ふーっ!」
音は鳴らなかった。
「……あれ?」
「もう少し、息を細くしてみましょう」
ゲンゴロウが口元で吹く真似をした。
まめこは唇をすぼめ、もう一度息を送った。
ひゅう。
かすれた音が漏れた。
「あっ!」
驚いて笛を離す。
「今、鳴った!」
「ええ。もう一度」
まめこは構え直した。
ひゅう……ぴぃっ!
今度は、はっきり音が出た。
「鳴ったー!」
振り向いた拍子に、笛の先がゲンゴロウの笠へこつんと当たった。
「あっ、ごめん!」
「ははは。大丈夫ですよ」
マリーが口元を押さえて笑っていた。
まめこは笛を見つめた。
「ゲンゴロウさんみたいに吹けるようになるかな?」
「練習すれば、きっと」
「ほな、また教えてな!」
「ええ。喜んで」
まめこは笛を両手で返した。
*
部屋へ戻ると、白いローブを脱いだ。
マリーが掛けてくれる間に、まめこは小机の絵へ寄った。
「鉛筆、貸してもらってええ?」
イオルドが机から一本持ってきた。
まめこは花のそばへ、小さな丸を足した。
蕾だった。
その隣の花びらを、少し濃く塗った。
「こっちは、もう終わるやつ」
ドーナが隣で見ていた。
まめこは最後に、ゲンゴロウの口から笛まで線を伸ばした。
「今、吹いてるとこにした」
鉛筆を置いた。
絵の中では、花壇のすぐ横に笠があった。
さっきまで、その場所に本当のゲンゴロウがいた。
「できた」
ドーナが紙を受け取った。
「こちらも、大切にしますわ」
「前のも、置いといてな」
「もちろんよ」
まめこは壁を見た。
まだ花のない、小さな苗。
そのそばで、じょうろを肩につけたメグが、今日も立っていた。
*
帰りの支度をする時、まめこはローブの袖へ手を入れた。
右手は出た。
左手は、途中で止まった。
「……ん?」
袖が、少し重かった。
マリーが下から支えた。
白い袖口から、黒い鼻が出てきた。
「トロ!」
「ニャ」
まめこは右手で、黒い頭を撫でた。
「そこ、わたしの手ぇ入るとこやで」
トロは目を細めた。
出てくるつもりは、まだなさそうだった。
ドーナが口元へ手を添え、ゲンゴロウも肩を揺らした。
マリーが袖を広げると、ようやく黒い体が滑り出た。
まめこは空になった袖へ手を通した。
指の先が出た。
「……ここだけ、あったかい」
トロは足元で背中を伸ばした。
まめこはその頭を、もう一度撫でた。
「次は、袖やなくて膝にしとき」
今65話まで書けてますが、まだ修正修正で追いつきません。今日はここまで。




