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第33話 帆柱の向こう

 屋根の向こうに、木の棒が見えた。


 一本ではなかった。


 まめこは歩きながら顔を上げ、隣のメグの袖を引いた。


「めぐ。あれ、何?」


 町の北側へ向かう道だった。


 家々の間を抜けてくる風には、潮の匂いが混じっている。前を行く荷車の車輪が石畳の継ぎ目を越えるたび、がたん、と荷台が揺れた。


 メグが足を止めた。


 白い帽子のつばの下から、まめこの指した方を見る。


「……帆柱ですわね」


「船の?」


「ええ」


 屋根の上へ伸びた柱には、横向きの長い棒が何本もついていた。まだ広がっている白い帆が、ゆっくり形を変えている。


 まめこは爪先を上げた。


 船は見えなかった。


「あんな上まであるん?」


 返事を待つ間に、メグの足が動き出した。


 さっきまでより、少し速かった。


「行ってみましょう」


「あ。待って」


 まめこは袖を掴んだまま、歩幅を大きくした。


 後ろで、マリーが買い物籠を持ち直した。


「お嬢様。まめこさんが転びますよ」


 メグは足を緩めた。


 けれど、顔はもう港の方を向いていた。


     *


 道の先が開けたところで、まめこは立ち止まった。


 北の入り江を囲む岸には、倉庫が並んでいた。


 開いた大きな戸の前に荷車が寄せられ、人が行き来している。桟橋に繋がれた小船は、水の揺れに合わせて船首を上下させていた。


 その向こうに、大きな船がいた。


 濃い色の船腹が、入り江をゆっくり進んでくる。


 前の方が高く反り、その先には波の上へ突き出す長い木があった。後ろも高く、窓のある部分が幾段にも重なっている。


 さっき見えた帆柱が、その上に立っていた。


 何本もの綱が斜めに張られ、見上げるほど高いところを、小さな人影が動いている。


「……あれ、全部、船?」


「ガレオン船ですわ」


 メグも立ち止まっていた。


 まめこの隣で、つばを指先で押し上げている。


「大きいなあ」


 まめこは船の前から後ろまで目で追った。


 途中で、首を動かさなければならなかった。


「あそこ、おうちみたいや」


「船尾の方ですわね」


「窓もある」


「ええ……いい船ね」


 メグの声が、少し小さくなった。


 まめこが顔を見上げると、目がきらきらしていた。


 船を見ているのは同じだったが、まめこが口を開けている間に、メグは帆柱から船尾へ、船尾から甲板へと、忙しく目を動かしていた。


「あれはベスチアから来た船だよ」


 そばで声がした。


 倉庫の前にいた男が、肩へ掛けた縄を直している。


「今朝、入り江の外まで来てな。ちょうど入ってくるところだ」


「ベスチア」


 まめこは名前を繰り返した。


 メグが頷く。


「海を渡って来たのですわ」


「ずっと、あれに乗って?」


「そうよ。船員さんも、荷物も」


 まめこはもう一度船を見た。


 甲板に立っている人は、ここまでずっと海の上にいたのだった。


 その一人が、岸へ向かって腕を上げた。


 岸にいた男も、片手を上げて返した。


     *


 帆が畳まれていく。


 高いところにいた船員たちが、布を横棒へ寄せていた。下からも綱を引く人がいる。


 膨らんでいた白い帆は、次第に小さくまとまった。


 船の上から、長い声が飛んできた。


 別の声が、それに応じた。


 まめこには言葉の全部は分からなかったが、声が上がると、必ずどこかで人が動いた。


「あの人、怖ないんかな」


 帆柱の途中を指す。


「慣れていらっしゃるのでしょうね」


「わたし、下見たら、あかんわ」


 まめこは自分の足元を見た。


 石畳だった。


 それでも少し、膝が落ち着かなかった。


 マリーが肩へ手を添えた。


「こちらから見ていましょう。前は、お仕事をする方が通りますから」


 倉庫の脇へ寄ると、三人の前を男たちが走っていった。


 船から、細い縄の先が岸へ投げられた。


 待っていた男が受け取り、たぐり寄せる。あとから、ずっと太い綱が続いてきた。


「おっきい縄や」


 男たちはそれを岸の杭へ回した。


 綱が水の上で伸びる。


 船と岸の間へ吊られた緩衝材が、近づいてくる船腹に押された。


 大きな船が、ゆっくり動きを止めた。


 まだ少し、上下している。


 まめこは船腹を見上げた。


 近くへ来ると、木の板の継ぎ目まで見えた。水に濡れて色の変わったところがあり、その下で小さな波が砕けている。


「めぐ。これ、ほんまに浮いてるんやな」


「ええ」


 メグは頷いた。


 それから、また言った。


「いい船ね……」


「さっきも言うたで」


「何度見ても、いい船ですもの」


     *


 岸と船の間に、渡り板が掛けられた。


 船員が先に渡り、綱の具合を確かめている。


 ほどなくして、荷下ろしが始まった。


 最初に運ばれてきたのは、口を縛った大きな袋だった。


 肩に担いだ男の背中が丸くなり、渡り板が足に合わせて低く鳴った。岸へ下りると、別の男が荷車のそばで受け取る。


 袋の縫い目には、淡い色の粉が少しだけついていた。


「あれ、何入ってるん?」


「小麦粉のようですね」


 マリーが答えた。


「パンになる?」


「はい。お菓子にも」


 まめこは袋を見送った。


 その後ろから、また袋が来た。


 もう一つ。


 さらに、もう一つ。


「いっぱいパンできるな」


 次の荷車には、木箱が積まれた。


 箱の横には文字と印があり、男が板に挟んだ紙を見ながら数を確かめていた。


 倉庫の戸口で、一つの蓋が開けられた。


 中には布が巻かれて入っていた。


 濃い青、茶色、それから、陽に当たると少し光って見える緑。


 端を持ち上げた男が、指の間で厚みを確かめている。


「あの緑、きれいや」


「これからの季節に、よさそうな布ですね」


 マリーも目を向けた。


 まめこは自分の袖をつまんだ。


「あれで服作ったら、きれいやろなあ」


「ええ。店先に並んだら、近くで見てみたいですね」


 布の箱は、蓋を戻されて倉庫へ入った。


 まめこの知っている店の棚にも、こうして船から下りてきたものが並ぶのかもしれなかった。


     *


 鉄の棒を束ねた荷物には、二人の男がついた。


 岸へ下ろす時、金属の触れ合う音がした。


 別の木箱には、藁の間に皿や壺が収められていた。こちらを持つ男たちは、走らなかった。


「そっち、段があるぞ」


「分かってる」


 声を掛け合いながら、箱を荷台へ置く。


 まめこも、置き終わるまでじっと見ていた。


 樽は、縄を掛けられて降りてきた。


 甲板の上から突き出した荷役用の腕の先に、滑車が吊られている。その下で大きな樽が浮き上がり、船の外へゆっくり移った。


 綱を扱う船員の手が動くたび、樽は少しずつ下がった。


「落ちてこん?」


 まめこの声が小さくなった。


「ですから、下へ入らないようにするのですわ」


 メグが答えた。


 まめこは、マリーの隣へ半歩寄った。


 岸に立つ男が樽へ手を添え、揺れを抑える。地面へ着くと縄が外され、樽は二人がかりで転がされた。


 ごろ、ごろ、と低い音がする。


「あれ、お酒だよ」


 先ほどの男が、そばを通りながら教えてくれた。


「こっちの小さいのは、塩漬けの魚だ」


「ここでも魚釣れるのに、よそから持ってくるんや」


「向こうで獲れる魚も、食べたい人がいるからな」


 男は樽を転がす仲間に呼ばれ、そちらへ戻っていった。


 まめこは、樽が倉庫へ入っていくのを見送った。


 メグは、樽が運ばれていく方より、綱が戻っていく方を見ていた。


「あの仕掛けも、いいですわね」


 滑車へ通った綱が、また動き始める。


 メグは船員の手元へ目を凝らした。


 まめこは、その横顔を見た。


「めぐ、あれ欲しいん?」


「重いものを上げ下ろしするのに、便利でしょう?」


「何上げるん?」


「大きなお魚ですとか」


 まめこは樽のあった場所を見た。


「あそこから、お魚出てきたら、びっくりするで」


     *


 小さな袋がいくつも入った籠が通った時、風の匂いが変わった。


 潮とは違う、鼻の奥をくすぐる匂いだった。


 まめこは猫耳を動かした。


 鼻も動いた。


「……へっくし!」


 マリーが籠の中から手拭いを出した。


「はい、どうぞ」


 まめこは受け取り、鼻を押さえた。


「今の、何?」


「香辛料でしょうね」


「食べるやつ?」


「お料理へ、少し入れます」


「……鼻、むずむずする」


「少し離れましょうか」


 まめこは手拭いの上から、もう一度鼻を擦った。


 通り過ぎた袋を、少しだけ恨めしそうに見送る。


 その向こうでは、新しい荷車が空いた場所へ寄せられていた。


 車輪の音。


 袋を置く音。


 紙をめくる音。


 船の上と岸から、絶えず声が飛び交っている。


 カモメがその上を鳴きながら回り、倉庫の屋根へ降りた。


 まめこは手拭いを畳んだ。


「あの船、まだ荷物入ってるんかな」


「荷物ですか?」


「うん。いっぱい出てきたで」


「船の中には、荷物を積む広い場所があるのですわ」


 メグが船腹へ目を向けた。


「見えているところより、下にも」


 まめこは、甲板から水面までを見た。


 そこにも部屋がある。


 中には、まだ見ていない木箱や袋が入っている。


 そう思うと、船はさっきより大きく見えた。


     *


 荷車が一台出ていくのを待って、三人は岸沿いに少し移動した。


 荷下ろしの場所から離れると、船尾がよく見えた。


 高いところに手すりがあり、その向こうを船員が歩いている。


 まめこは、その人と水面を交互に見た。


「あそこから海見たら、遠くまで見えるな」


「ええ。気持ちがよさそうですわ」


 メグが目を細めた。


 風で、帽子のリボンが揺れた。


 しばらくして、首が少し傾いた。


「……でも」


「何?」


「あの高さですと、今の釣り糸では水面まで届きませんわね」


 まめこはメグを見た。


 それから、もう一度手すりを見た。


「あそこから釣るん?」


「釣れたら、楽しそうでしょう?」


「ずっと、お魚のこと考えてたん?」


「船も見ておりましたわ」


 メグは真面目に答えた。


 まめこは、水面へ目を戻した。


 いつもの岩場なら、竿を出せば糸の先が海へ入る。


 けれど、あの手すりからでは、針はまだ途中にぶら下がっていそうだった。


「ほな、長い糸にせなあかんな」


「ええ……」


 メグは、船員が綱をまとめる手元を眺めていた。


「糸巻き、使えないかしら」


「裁縫の?」


「もっと大きなものですけれど」


 荷車が前を通り、船が隠れた。


「めぐ、行こ。マリー待ってるで」


「あ、ごめんなさい」


 メグはまめこの隣へ戻ってきた。


「帰ったら、竿を見てみましょう。みっきーさんにも聞いてみたいわ」


     *


 船尾の窓に、日が当たっていた。


 窓の周りの飾りも、近くで見ると細かかった。


 メグは少し離れ、船全体を眺めた。


「あれだけ荷物を積んでも、海を渡って来られるのね」


 まめこも隣へ立った。


「わたしらも乗れる?」


「乗せていただける船でしたら」


「ベスチアまで?」


「ええ」


 まめこは甲板を見上げた。


 知らない町まで行く人が、あそこへ立つ。


 港の家々が小さくなり、この入り江が後ろへ遠ざかっていく。


 まめこはまだ、そこから先の海をよく知らなかった。


「ほな、ご飯食べたり、寝たりする間も、ずっと船の上なんやな」


「ええ。着くまで、何日も海の上ですわ」


 まめこは船尾の窓を見た。


「朝起きても、海なんや」


 メグが微笑んだ。


「そうですわ」


 まめこは少し黙った。


 船の影になった水面が、岸へ向かって揺れている。


 朝になっても海なら、朝ご飯の前にも釣りができる。


 そう思って口を開こうとした時、メグが先に言った。


「朝早くから、釣れますわね」


 まめこは笑った。


「わたしも、今それ思った」


 マリーが二人を見た。


 それから、また船を見た。


「お嬢様。もしお持ちになるのでしたら、繋いでおく場所もお考えくださいね」


 メグが振り返った。


「まだ、何も言っておりませんわ」


「はい」


 マリーは静かに頷いた。


 まめこはメグの顔を見上げた。


「欲しいん?」


 メグは、すぐには答えなかった。


 風が一度、三人の間を通った。


「……いい船でしょう?」


「それ、また言うた」


     *


 港を離れる時にも、荷下ろしは続いていた。


 空になった荷車が入ってきて、いっぱいになった荷車が出ていく。


 すれ違う車のために道を空けると、まめこのすぐそばを木箱が通った。箱には、ベスチアでつけられたらしい印があった。


 船に乗って来たものが、今度は町の道を進んでいく。


 まめこは、その後ろを少しだけ目で追った。


「あの中にも、服になるやつあるかな」


「あるかもしれませんね」


 マリーが答えた。


「パンの袋も、どっか行ったな」


「町のパン屋さんへ運ばれるものも、あるでしょう」


 まめこは、朝食べたパンを思い出した。


 今朝の分がどこから来たのかは、分からなかった。


 けれど、明日か、その次の日に食べるパンの粉は、さっき自分の前を通った袋に入っているかもしれなかった。


 通りを曲がる前に、まめこは振り返った。


 船の高いところが、倉庫の屋根の向こうにまだ見えていた。


 横で、メグも振り返った。


 もう一度歩き始めても、しばらくすると、また後ろを見る。


「めぐ。前見な、こけるで」


「分かっておりますわ」


 メグは前へ向いた。


 二人の後ろを歩くマリーは、買い物籠の取っ手を持ち直した。


「みっきーさんへのご相談は、明日にしましょう。今日は、お買い物を済ませましょうね」


「あい」


 角を曲がる前に、メグはもう一度だけ振り返った。

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