第二十九話 額縁の中のお庭
学院の休みの日、まめこは朝食を終えると、すぐに椅子から下りた。
まだ、マリーが皿を片づけているところだった。
「マリー。服、着る」
「先に、お顔とお手を洗いましょうね」
まめこは両手を見た。
指の先に、パンの屑がついていた。
「あい」
洗いに行く足音が、廊下の奥へ急いでいった。
メグは飲みかけのお茶を置き、窓の外を見た。門のそばで、迎えの馬車が止まっている。御者が馬の首を撫でながら、マリーの用意した水を飲ませていた。
メグの実家へ行きたいと言い出したのは、まめこだった。
新しい衣装を着るたび、鏡の前へ行く。ステッキを添えてみたり、背中を向けてみたりして、そのうちに、ドーナにも見せたいと言った。
手紙で訪問の日を知らせると、返事と一緒に馬車を寄越してくれることになった。
メグがお茶を飲み終える前に、まめこが戻ってきた。
「洗った!」
両手を広げる。
マリーはその手を見てから、少し屈んだ。
「お口の横も、もう少し」
濡らした布が、頬へ触れた。
*
淡いピンクの衣装に着替えると、まめこは寝床のそばで一度回った。
裾がふわりと広がる。
マリーが、背中のリボンの端を整えた。
「はい。できました」
「杖も」
「馬車へ乗る時は、袋へ入れておきましょう。揺れた拍子に、どこかへぶつけるといけませんから」
まめこは机の袋を持ち上げた。
口を少し開ける。
中に、ガラスの星が見えた。
「着いたら出すで」
「ええ。お屋敷へ入ってからにしましょう」
マリーは普段着を畳み、小さな鞄へ収めた。まめこは袋を両手で抱え、玄関へ向かう。
トロは、すでに籠のそばにいた。
「お前も行くんやで」
「ニャ」
籠の蓋が開くと、黒い猫は自分から中へ入った。
まめこは覗き込んだ。
「今日は早いな」
トロは、底に敷かれた布の上で丸くなった。
*
馬車へ乗ると、まめこは座席の端へ腰を下ろした。
すぐに立った。
後ろを見た。
「リボン、ぺちゃんこなる」
「少し横へ逃がしましょうね」
マリーが大きなリボンを持ち上げ、まめこの体と背もたれの間から出してくれた。
まめこはもう一度座った。
体をひねって確かめる。
「今、ええ?」
「ええ。大丈夫ですよ」
向かいに座ったメグが、まめこの膝へ袋を横たえた。
「こちらも、落ちないように持っていてくださいまし」
「あい」
車輪が動き始めた。
まめこは片手で袋を押さえ、もう片方の手で窓の縁を掴んだ。
家の柵が後ろへ流れていく。菜園の葉の上を朝の日が滑り、道へ出ると、木の影が窓を横切った。
畑には、収穫を終えたところと、まだ葉の茂るところが並んでいた。遠くで荷車へ木箱を積む人がいる。道端の草は先から黄色くなり、その間に、小さな紫の花が残っていた。
「めぐ」
「何ですの?」
「ドーナ様、服できたって知ってる?」
「お手紙には書きましたわ」
「後ろのリボンも?」
「大きなリボンがついている、と」
まめこは頷いた。
しばらく外を見てから、また振り返る。
「でも、見てへんやろ」
「ええ。今日、初めてご覧になりますわね」
まめこの口元が上がった。
膝の袋を、少しだけ抱き寄せる。
「杖、ほんまに魔法使えるって言う」
「ご説明するのはよろしいですけれど、勝手に使ってはいけませんわよ」
「きらーんは?」
「周りにぶつけなければ」
まめこは袋の上へ手を置いた。
指は、持ち手のあるところを探しただけで止まった。
マリーの足元で、籠が小さく鳴った。
トロが寝返りを打ったらしかった。
*
屋敷の門が見えてくると、まめこは窓へ顔を寄せた。
門の内側には、落ち葉を集めた籠が置かれていた。掃いていた使用人が馬車に気づき、箒を脇へ寄せる。
砂利を踏む音が、少し大きくなった。
花壇の向こうに、屋敷の窓が並んでいた。
「着いた」
馬車が止まり、扉が開いた。
まめこは袋を持って立ち上がったが、マリーが先に下りるまで待った。差し出された手を握り、段を一つずつ下りる。
玄関のそばに、ドーナがいた。
「いらっしゃい、まめこ」
「こんにちは!」
まめこは手を離すと、ドーナの前まで進んだ。
そこで止まる。
胸を張った。
ドーナの目が、胸のリボンから裾へ、それから髪飾りへ移った。
「まあ……お手紙で聞いていたお洋服ね」
「うん!」
「よく似合っていること。可愛らしいわ」
まめこの耳が、ぴんと立った。
「後ろもあるで」
その場で、くるりと背を向けた。
大きなリボンの下から、尻尾が出ていた。
ドーナが手を合わせた。
「後ろまで、こんなに素敵なのね」
「尻尾、出せるようになってるん」
見せるつもりで動かすと、尻尾の先がマリーの鞄へ触れた。
まめこは少し横へ寄った。
もう一度、揺らす。
「ほら」
「ええ。ちゃんと見えますわ」
玄関から、イオルドも出てきた。
「ずいぶん楽しそうだね」
まめこはすぐ、正面へ戻った。
「イオルド様にも見せに来たん!」
「それは光栄だ。近くで見せてもらおう」
イオルドが屈むと、まめこは袋を持ち上げた。
「あと、これ」
「まず、中へ入りましょうね」
ドーナが言った。
まめこは袋の口へ掛けた指を止めた。
「あい。中でな」
メグが両親へ挨拶をしている間にも、まめこは玄関の奥を見ていた。
*
広間へ入ると、マリーが杖の袋を開けてくれた。
まめこは持ち手を握り、そっと引き出した。
窓から差す光が、ピンクのガラスへ入る。
「みっきーに作ってもろてん」
ドーナは星を覗いた。
「こちらも、お洋服に合わせてあるのね」
「ほんまに魔法使えるで。暗いとこ見えるん」
「ナイトサイトですわ。魔力を込めてくださったのです」
メグが添えた。
イオルドは、持ち手と星のつなぎ目を見た。
「ミックのところの、お嬢さんだったね」
「うん。銀の線、中にあるねん。外から見えへんけど」
まめこは持ち手を裏返した。
何も見えない面を、得意そうに見せる。
「ガラスも取れへんように、何回もやってくれてん」
「よく聞いてきたのだね」
「みっきー、いっぱい教えてくれた」
まめこは星を胸の前へ戻した。
左手を腰へ当てる。
メグを見る。
メグは周りを一度見回してから、頷いた。
右足が、少し前へ出た。
「魔法少女、まめこ!」
ステッキを、ゆっくり上げる。
「きらーん!」
ドーナが拍手をした。
イオルドも手を叩いた。
籠から出たトロが、まめこの靴のそばへ来た。
「ニャ」
まめこは星を下ろした。
耳の先まで、嬉しそうに動いていた。
*
お茶の支度ができるまで、ドーナが部屋へ案内してくれた。
まめこはステッキを両手で持ち、隣を歩いた。
廊下の花瓶には、濃い赤の花と、細い葉の枝が挿してある。前に来た時より、窓から入る日の筋が長かった。
開いた扉をくぐり、まめこは部屋の奥へ目を向けた。
窓辺に、長椅子がある。
その横に、小さな机と花瓶。
向こうの壁に、額縁が掛かっていた。
まめこの足が止まった。
額縁の中に、黒い猫がいた。
斜めの花壇があった。
髭で顔の半分が隠れた人の隣に、それより背の高い女の人が立っていた。
「……あ」
まめこは、そちらへ歩いた。
額縁の真下まで行く。
顎を上げた。
「これ……わたしの絵?」
ドーナが隣へ来た。
「ええ。お手紙と一緒に送ってくれたでしょう」
まめこは絵を見た。
それから、その周りを見た。
濃い色の木でできた額縁には、細い葉の模様が彫ってあった。絵の周りに白い余白があり、鉛筆で描いた花壇も、みんなの顔も、きれいに見えている。
「……こんなんに、入ってる」
壁のほかの絵を見た。
また、自分の絵へ戻った。
「ここに飾ってくれたん?」
「そうよ。こちらなら、座っている時にもよく見えるもの」
まめこは、入口にいたメグを振り返った。
「めぐ! わたしの絵!」
ステッキを持っていない方の手が、慌てて伸びた。
メグの袖を掴む。
「あそこ! あんなんに入ってる!」
メグは袖を引かれるまま、壁の前へ来た。
「まあ。本当ですわね」
まめこは絵を指した。
「わたし、送ったやつやで」
「ええ。皆で苗を植えた日の絵ですわ」
メグの目が、絵の中の自分へ止まった。
三つ編みが片方だけ太い。
肩には、じょうろの取っ手がつながっていた。
「……こちらも、そのままですわね」
「じょうろやで」
まめこはすぐに言った。
「ここ、穴も描いたやろ」
「ちゃんと伺っておりますわ」
ドーナが微笑んだ。
イオルドも、後ろから絵を見た。
「庭師も、皆もいる。よく覚えていてくれたね」
「マリー、ちっちゃくなってもうてん」
まめこは紙の端を指した。
花壇の向こうに、小さなマリーがいた。
マリーがその後ろへ立つ。
「少し離れて、待っていたところでしたね」
「うん。入るとこ、なくなったから」
言ってから、まめこは口を閉じた。
絵の中の自分の足は、布の下に隠れている。ドーナは大きすぎるし、花壇の線も曲がっていた。
その全部が、立派な額縁に入っていた。
「……もっと、ちゃんと描いたらよかった」
小さく言うと、ドーナがまめこの方を向いた。
「私は、この絵が好きよ」
まめこは見上げた。
「みんながいて、あなたの植えた苗もあるでしょう。あの日が思い出せるわ」
ドーナの指が、絵へ触れないところで止まった。
「この石のそばに植えたのね」
「うん」
「素敵な絵をありがとう、まめこ」
まめこの指が、メグの袖を離した。
ステッキの持ち手へ、両手が戻る。
「……あい」
耳が少し横へ倒れた。
顔は、絵に向いたままだった。
*
お茶が運ばれてきても、まめこはしばらく壁の前にいた。
長椅子から見てみる。
窓のそばからも見る。
どこから見ても、自分の絵が掛かっていた。
「こちらへどうぞ」
マリーに呼ばれると、まめこはようやく椅子へ向かった。
背中のリボンを直してもらい、杖を袋へ収める。袋は、隣の小机へ置いてもらった。
お皿には、薄く切った林檎の焼き菓子が載っていた。表面に、淡い焼き色がついている。
まめこはフォークを取った。
絵を見た。
マリーがカップを寄せた。
まめこはお菓子を一口食べた。
また、絵を見た。
「お菓子は、いかが?」
ドーナが尋ねた。
「おいしい」
答えてから、まめこは皿へ向き直った。
イオルドの口元が緩んでいた。
「絵も、お菓子も、ゆっくり見ていけばいい」
まめこは少し照れて、フォークで林檎の端を押した。
*
メグが菜園と六分儀の話をしている間、まめこはお菓子を食べていた。
今度は、食べ終わってから絵を見るつもりだった。
「航海の勉強は、進んでいるの?」
「少しずつですわ。測ったものを、海図と合わせて確かめるところが、まだ……」
メグは膝へ置いた手を動かし、測る時の角度を示した。
イオルドが頷いた。
ドーナはお茶を一口飲み、カップを戻した。
「勉強も菜園も結構ですけれど、人に会う時間も作りなさいね」
「会っておりますわ。お店の方にも、学院の先生にも」
「そういうお話ではありませんわ」
メグの手が、膝へ戻った。
まめこは最後の一口を切った。
「先日、ご挨拶にいらしたお家に、感じのよいご子息がいらっしゃるの。お見合いと構えなくても、お茶くらい――」
「お母様」
メグが、少し早く言った。
「今日は、まめこのお洋服をお見せしに来ましたの」
「ええ。もう、よく見せていただきましたわ」
まめこは林檎を飲み込んだ。
「おみあいって何?」
メグがこちらを見た。
ドーナが先に答えた。
「将来、結婚するお相手になるかもしれない方と、お会いすることよ」
まめこは、メグを見た。
「めぐ、結婚するん?」
「まだ、何も決まっておりませんわ」
「相手も?」
「相手もです」
「ほな、何で会うん?」
ドーナが微笑んだ。
「会って、お話をして、知っていくのですわ」
まめこは空になった皿を見た。
「釣り好きな人?」
メグが顔を上げた。
ドーナは少し考えた。
「それは、まだ聞いていませんわね」
「めぐ、朝早いで。釣り行く時」
「まめこ」
「お魚おっきかったら、持つのも手伝わなあかんし」
イオルドが、カップを皿へ戻した。
肩が少し揺れていた。
「確かに、先に聞いておいた方がよさそうだ」
メグは父を見た。
「お父様まで」
マリーはお茶を注ぐために立ち、まめこの後ろへ回った。横から見えた口元は、笑っていた。
ドーナがメグへ向き直る。
「今すぐ決めなさいとは、言っておりません。お招きのお話があったことだけ、覚えておいてちょうだい」
「……承知いたしましたわ」
メグはお茶を飲んだ。
まめこは、少し考えてから口を開いた。
「船、乗れる人がええな」
メグはカップを置いた。
「そのお話は、今日はそこまでにしましょう」
*
庭へ出る時には、マリーが普段着へ着替えさせてくれた。
衣装は室内に掛けておき、まめこは上着を羽織った。
ドーナに手を引かれ、花壇まで行く。
前に苗を植えた場所には、小さな花が開いていた。
まめこは丸い石を見つけると、そのそばへ屈んだ。
「ここや」
葉の間から伸びた茎の先に、淡い色の花がある。
絵を描いた時には、まだなかったものだった。
「咲いてる」
「ええ。庭師が毎日、見てくれていますわ」
少し離れたところで、庭師が帽子へ手を添えた。
まめこはそちらへ顔を向けた。
「ありがとう!」
庭師は笑って頷いた。
トロが、まめこの横へ来た。
土へ鼻を寄せる。
「掘ったらあかんで」
まめこが言うと、黒い猫は顔を上げた。
花を嗅ぎ、そのまま石の向こうへ回る。
まめこは手を膝へ置き、花を眺めた。
メグも隣へ屈んだ。
「絵を描いた時から、育ちましたわね」
「うん。今、花も描ける」
「また描いて、お送りしましょうか」
まめこは頷きかけた。
それから、メグを見た。
「次、じょうろ離して描く」
「ええ。ぜひ、そうしてくださいまし」
後ろで、ドーナが笑った。
*
帰る前にもう一度衣装を着ると、ドーナが髪飾りのそばを撫でてくれた。
「また、見せにいらしてね」
「うん」
まめこは杖の袋を受け取り、部屋の入口まで歩いた。
そこで、振り返る。
壁の絵を、もう一度見た。
今、庭で見た花は描かれていない。
その代わり、小さな苗のそばに、みんながいた。
まめこは袋を片腕に抱え直した。
「ドーナ様」
「何かしら?」
「絵、入れてくれて、ありがとう」
額縁の方へ、指を少し向けた。
ドーナは頷いた。
「こちらこそ。大切にしますわ」
まめこは、また少し照れた顔になった。
メグの手を握って、廊下へ出る。
玄関では、イオルドが待っていた。
「気をつけてお帰り。また来なさい」
「あい。今度、咲いたの描くで」
「それは楽しみだ」
まめこは頷いた。
馬車へ向かいながら、屋敷の窓を見上げる。
どの窓が、あの部屋だっただろう。
まめこが探している間に、マリーが馬車の扉を開けてくれた。
*
帰りの馬車でも、リボンは横へ逃がしてもらった。
杖の袋が、膝へ置かれる。
トロの籠から、小さな寝息が聞こえた。
まめこは窓を見ていたが、門を出ると、メグへ顔を向けた。
「めぐ、知ってた?」
「何をですの?」
「絵、あんなんなってるって」
「いいえ。わたくしも、今日初めて見ましたわ」
まめこは頷いた。
両手を広げ、額縁の大きさを作ろうとする。
片手が窓へ近づいたので、少し狭めた。
「こんなんやったな」
「綺麗な額でしたわね」
「葉っぱ、ついてた」
「ええ。お庭の絵に、よく合っておりました」
まめこは両手を袋の上へ戻した。
しばらく黙っていた。
馬車が小さく揺れる。
窓の向こうで、黄色い葉が一枚、枝から離れた。
「……次も、みんな描く」
メグがこちらを見た。
「マリーの場所、先に置いとくねん」
マリーが笑った。
「ありがとうございます」
「あと、花。トロは、わたしの横」
籠の中で、黒い耳が動いた。
まめこは、もう一度窓へ向いた。
どこへ花を描くか考えている顔は、まだ少し嬉しそうだった。
しばらくして、メグが髪へ触れた。
「今日は、よく眠れそうですわね」
「うん。魔法、使わへん」
まめこは袋を撫でた。
それから、不意に顔を上げる。
「めぐ」
「はい?」
「結婚したら、トロも連れてくん?」
メグは、まめこを見た。
マリーは窓の外へ顔を向けた。
その肩が、少し揺れた。
「……まだ、結婚のお話は決まっておりませんわ」
「せやった」
まめこは納得して、膝の袋へ目を戻した。
今度の絵には、今日の服も描こう。
背中のリボンを描くには、後ろを向いた自分も必要だった。
前を向いた自分と、後ろを向いた自分。
二人になってしまう。
まめこは、袋の上で指を二本立てた。
隣のマリーが、その指を見た。
「どうなさいました?」
「……わたし、二人描いてもええかな」
メグとマリーが、同時にこちらを向いた。
まめこは真剣な顔で、背中のリボンを指した。
「これも、ちゃんと見せたいねん」
メグが笑った。
マリーも笑った。
馬車の中で、まめこの尻尾が、リボンの下からゆっくり揺れた。




