第二十八話 明るい夜と眠たい朝
家へ着く頃には、庭の木々の向こうに夕日が沈みかけていた。
菜園の葉は黒く重なり、門から玄関へ続く道には、落ちた木の実がぽつぽつ転がっている。まめこは一つを踏みそうになって足を上げ、右手のステッキも一緒に持ち上げた。
「ただいま!」
扉が開くより先に言った。
中へ入ると、暖炉の匂いがした。マリーが朝に置いておいた薪は、まだ火のついていないまま炉の脇に積まれていた。
まめこは居間の窓へ走りかけた。
「お靴を脱いでからです」
「あい」
戻って、片足ずつ靴を脱ぐ。
ステッキを持ったままでは留め具を外せず、結局、メグに預けることになった。
「返してな」
「取ったりしませんわ」
両足が床へ下りると、すぐに右手を差し出した。
*
居間の窓には、部屋の中が映り始めていた。
まめこは窓の前へ立った。
胸のリボンを直す。星を持ち上げる。左手を腰へ当てる。
「魔法少女、まめこ!」
窓のまめこも、星を上げた。
「きらーん!」
背中のリボンを見たくなって、横へ向く。
肩越しに振り返ろうとすると、猫耳だけが窓へ近づいた。
「めぐ。後ろ、見えへん」
「鏡で見ましょうか」
「見る!」
階段を上がる間も、裾が膝へ触れるたびに下を見た。
メグの部屋にある鏡の前で、まめこはようやく足を止めた。
メグが小さな手鏡を持ち、後ろへ回る。
大きな鏡の中に、もう一つの鏡が映った。
「あった!」
背中に、大きなリボンがあった。
まめこが尻尾を動かすと、その下からピンクの毛が出たり隠れたりした。
「尻尾も見える!」
「ええ。どちらも見えますわ」
まめこは腰を振った。
リボンが揺れた。
もう一度振る。
「そんなに動くと、鏡からはみ出しますわよ」
まめこは止まった。口元だけは、ずっと笑ったままだった。
戸口へ来たマリーが、二人を見て微笑んだ。
「よくお似合いですよ。お色も、まめこ様にぴったりです」
「マリーも、後ろ見て」
「はい。とても可愛らしいリボンです」
まめこは、背中を向けたまま顔だけ振り返った。
「前も」
「前も、もちろん」
今度は正面を向き、ステッキを胸の前へ添えた。
戸口の下から、トロが入ってきた。
「トロ。どう?」
「ニャ」
まめこはしゃがんだ。
膝の上に、ピンクの布がふわりと広がった。トロが、その上へ前足を掛けようとする。
「あかん。爪、ひっかかる」
両手で抱こうとして、右手にステッキがあるのを思い出した。
「めぐ、ちょっと持って」
「今度は取ってもよろしいんですの?」
「今はええ」
トロを抱き上げて、鏡へ向ける。
ピンクの服の前に、黒い猫がいた。
「トロも魔法少女や」
「ニャ」
トロは鏡より、まめこの顎を見ていた。
*
夕食の時には、服を着替えた。
マリーが大きなリボンを外し、椅子の背へ掛ける。まめこは普段着の袖へ腕を通しながら、ずっとそちらを見ていた。
「ご飯のあと、もう一回着てええ?」
「お風呂に入る前まででしたら」
「あい!」
返事だけは、もう着替え終わったように早かった。
食卓には、温かいスープとパン、焼いた魚が並んだ。スープの中には細く切った茸が浮いている。
まめこは一口飲み、窓を見た。
もう庭は見えなかった。
「暗なった」
「そうですわね」
「杖、使える?」
「食事が済んでから、一緒に試しましょう」
まめこはパンを取った。
急いで大きくかじり、口の中がいっぱいになった。
「ゆっくり召し上がってくださいませ」
マリーが水を寄せた。
まめこは頷いて、しばらく何も言えなくなった。
*
もう一度衣装を着ると、まめこは居間へ戻ってきた。
暖炉には火が入り、薪の端で小さな炎が揺れていた。壁に掛けた燭台も灯っている。
その明かりの届かない、階段の下を覗く。
「トロ、おる?」
「ニャ」
暗いところから返事がした。
まめこはメグを振り返った。
「使ってええ?」
「ええ。ここで使ってごらんなさい」
まめこは持ち手の印へ親指を添えた。
店で教わったように、自分へかけるつもりで星を見つめる。
ガラスの奥に、淡い光がともった。
次の瞬間、階段の下にトロが見えた。
前足を揃え、尻尾を体の横へ巻いている。その後ろには、マリーの掃除用の籠まであった。
「おった!」
まめこはしゃがんだ。
「そこ、明るいで」
トロは欠伸をした。
小さな牙も、舌も見えた。
「めぐ! 歯まで見える!」
「よく見えていますわね」
まめこは立ち上がり、窓へ行った。
ガラスへ顔を寄せると、庭の小道が見えた。菜園の柵も、その向こうの木も、昼間とは違う色で浮かんでいた。
「外も見える!」
メグが隣へ来た。
「お部屋から見るだけにしましょうね」
「うん。あそこ、木の実落ちてる」
まめこの指が窓へついた。
昼間踏みそうになった木の実を見つけ、少し離れたところにも見つけた。
「あ。もう一個」
外の枝が揺れた。
枯れ葉が一枚、小道へ落ちた。
まめこはそれが地面へ着くまで、顔を動かさずに見ていた。
*
「明日も、これ着る」
お風呂の支度に来たマリーへ、まめこが言った。
「明日は学院ですよ」
「学院に着ていく」
「学院には制服を着ましょう」
まめこは自分の胸のリボンを見た。
「……上に制服?」
「下にも着ませんわ」
メグが言った。
まめこは口を尖らせた。
「リボンだけ」
「それも、お家へ帰ってからです」
マリーの答えに、尻尾がゆっくり下がった。
けれど、衣装を脱ぐ時には、マリーの手元をちゃんと見ていた。
「それ、ぐしゃってならへん?」
「形を整えて掛けておきますよ」
「杖もここ?」
「杖は袋へ入れて、お部屋へ置きましょう」
ガラスの星が、柔らかい袋へ収まった。
まめこは袋の口を覗き、それからようやく、風呂場へ向かった。
*
寝床へ入る頃には、髪も乾いていた。
マリーが掛け布団を引き上げ、枕の横に出ていた髪を直した。
「明日、起きたら制服ですよ」
「わかってる」
「それでは、おやすみなさいませ」
「おやすみ」
燭台の火が消えた。
マリーが廊下へ出ると、入れ違いにトロが部屋へ入ってきた。
戸口の明かりも、扉が閉じると細くなって、なくなった。
まめこは天井を見た。
梁があった。
木の節もあった。
いつもなら暗くて見えなくなる場所まで、見えた。
首を横へ向ける。
椅子に掛けた制服があった。机の上には、今日使わなかった鉛筆。棚の端に、小さな貝殻が並んでいる。
まめこは起き上がった。
「……めぐ」
少し待つ。
「めぐー」
扉が開いた。
「どうしましたの?」
「まだ明るい」
メグは部屋の中を見てから、寝床へ来た。
「ナイトサイトが、まだ効いているんですわね」
「消して」
「灯りのようには消せませんの。しばらくすれば切れますわ」
まめこは天井を指した。
「あそこ、丸いの三つある」
「木の節ですわね」
「一個、顔みたいや」
メグは暗い天井へ顔を上げた。
「わたくしには、今は見えませんわ」
まめこは少し得意そうになった。
そのあとで、枕へ倒れた。
「でも、寝られへん」
メグが布団を直した。
「目を閉じてごらんなさい。閉じていれば、見えませんわ」
まめこは目を閉じた。
暗くなった。
「ほんまや」
「そのまま、おやすみなさい」
額へ手が触れた。
足音が離れていき、扉が閉じた。
まめこは目を閉じていた。
廊下が静かになった。
もう少し、閉じていた。
寝床の足元で、布団がへこんだ。
片目が開いた。
トロがいた。
前足で布団を二度押し、くるりと回る。丸くなるかと思ったら、もう一度立って、また回った。
まめこの両目が開いた。
「そこ、あかんの?」
「ニャ」
トロはようやく座った。
後ろ足を上げ、耳の後ろを掻く。
まめこは布団から手を出した。
「おいで」
トロは来なかった。
今度は胸の毛を舐め始めた。
暗い部屋で黒い猫が何をしているのか、こんなによく見えるのは初めてだった。
舌が出るたび、まめこの目が動いた。
*
その後、まめこは何度か目を閉じた。
閉じては、薄く開けた。
まだ棚が見えた。
また閉じた。
廊下で床板が鳴ると、耳が動いた。
目も開いた。
扉の下を見て、天井を見て、トロを見た。
寝返りを打つと、今度は机の端に置いた杖の袋が目に入った。
明日、帰ったらまた服を着よう。
そう思うと、胸のリボンをつけた自分が浮かんだ。
枕の上で、口元がゆるんだ。
布団の中で右手を上げる。
「……きらーん」
小さく言った。
トロの耳が動いた。
どのくらい経ったのか、まめこにはわからなかった。
何度目かに目を開けた時、ようやく天井が見えなくなっていた。
「あ。暗なった」
足元で、トロが丸くなっていた。
今度は、その形もよく見えなかった。
まめこは目を閉じた。
まだ、背中の大きなリボンのことを考えていた。
*
「まめこ様。朝ですよ」
肩を揺すられた。
まめこは枕へ顔を押しつけた。
「……まだ」
「朝ご飯ができています」
布団が少し持ち上がった。
まめこは、その端を掴んだ。
「あと、ちょっと」
トロが寝床から飛び下りた。
まめこの耳だけが、そちらへ向いた。
マリーは窓を少し開けた。冷たい秋の空気が入り、庭で鳴く鳥の声が近くなった。
「学院へ遅れてしまいますよ」
まめこは片目を開けた。
明るかった。
「……また魔法?」
「朝のお日様です」
*
食卓で、まめこはパンを持っていた。
持ったまま、動かなかった。
メグが顔を覗き込んだ。
「昨夜、眠れませんでしたの?」
「トロが……」
「トロが?」
「毛、舐めててん」
食卓の下で、トロが前足を舐めていた。
まめこはそれを見下ろした。
「まだ舐めてる」
「夜中、ずっと見ていたんですの?」
まめこは答える代わりに、欠伸をした。
パンを持っていない手で口を押さえたが、途中から指まで力が抜けた。
マリーがスープの皿を寄せる。
「少しでも召し上がってくださいませ」
まめこは頷いた。
匙を取り、スープを掬った。
口へ運ぶ前に、また目が細くなった。
「まめこ」
メグの声で、肩が跳ねた。
「起きてる!」
匙のスープが、少しだけ皿へ戻った。
*
東門まで歩く間、まめこはメグの手を握っていた。
道端の草には朝露が残り、靴の先が触れるたび、小さな雫が落ちた。
いつもなら拾いたがる木の実にも、その日は目を向けなかった。
門へ近づくと、ルカが手を振った。
「まめこ、おはよう!」
「おはよ……」
声の最後が、欠伸になった。
「眠いの?」
「ちょっと」
まめこは目を擦った。
メグが、その手をそっと下ろした。
「今日は、帰ったら早く休みましょうね」
「服……」
「着替える元気があったら、ですわ」
まめこは返事をしようとして、もう一度欠伸をした。
*
教室には、朝の日が斜めに入っていた。
窓の外で枝が揺れるたび、机の上の光も揺れた。
まめこは鉛筆を持ち、ローザ先生が板へ書く文字を写していた。
一つ書いた。
次の文字を見た。
鉛筆が紙についたまま、止まった。
まぶたが下がった。
頭が、こくりと落ちる。
慌てて顔を上げた。
板の文字が、さっきより増えていた。
まめこは目を丸くし、鉛筆を動かした。
行の途中で、また止まった。
今度は左手を頬へ当てた。
肘が机へつく。
頬が手のひらへ沈んだ。
ローザ先生の声が、少し遠くなった。
暖かい日が、制服の袖へ当たっていた。
*
ルカが隣を見ると、まめこの左手が頬から外れかけていた。
指の間へ押しつけられた頬が、むにっと盛り上がっている。
口は半分開いていた。
右手の鉛筆が、ころりと転がった。
まめこは起きなかった。
左肘が滑った。
頭が下がり、とうとう机へ伏せた。
片方の猫耳が、腕に押されて横へ倒れた。
「まめこ」
ルカが小さく呼んだ。
返事はなかった。
開いた口の端に、透明な雫ができた。
雫は少し膨らんで、机へついた。
まめこの頬の下へ、じわりと小さな跡が広がった。
ルカの肩が揺れた。
後ろの席で、誰かが息を漏らした。
「よだれ……」
その囁きに、もう一人が振り返った。
くすくすと笑う声が、机の間を渡った。
まめこの尻尾は椅子の横に垂れ、先だけが床へついていた。
「……きら……」
口が動いた。
ルカが顔を近づけた。
「え?」
「……ーん……」
また、くすっと声がした。
ローザ先生が振り返った。
教室を見回し、まめこの机で目を止める。
「まめこさん」
まめこは寝ていた。
ローザ先生が机の横へ来た。
「まめこさん。起きてください」
肩へ手が触れた。
まめこの顔が、勢いよく上がった。
「あい!」
頬に、袖の皺がついていた。
口の端から細いよだれが伸び、切れて顎へついた。
教室で、笑い声が弾けた。
まめこは先生を見た。
みんなを見た。
机を見た。
濡れたところに気づき、両手で口を押さえた。
「……あ」
「ハンカチはありますか」
まめこは頷いた。
制服のポケットから引っ張り出し、まず口を拭いた。それから机を拭こうとして、開いた帳面の端まで少し濡れているのを見つけた。
耳が、両方とも下がった。
「昨日は、遅くまで起きていたのですか」
「……夜、明るかってん」
ローザ先生が少し首を傾げた。
「灯りをつけていたのですか?」
「ナイトサイト」
後ろの席で、また笑い声がした。
ローザ先生はそちらを一度見た。
声が静かになった。
「今夜は早く寝ましょう。顔を洗ってきてください」
「あい……」
まめこは椅子から下りた。
戸口へ行く途中、ルカが小さく手を振った。
「おはよう、まめこ」
「朝、言うたやん」
また笑い声が起こった。
まめこは赤い顔のまま、廊下へ出た。
*
冷たい水で顔を洗うと、少しだけ目が開いた。
頬についた皺は、まだ残っていた。
教室へ戻ると、ルカが鉛筆を机の上へ戻してくれていた。
「落ちそうだったから」
「ありがと」
まめこは席へ座った。
濡れた帳面の隅を、指で少し起こす。
「何の夢見てたんだ?」
ルカが小さく聞いた。
「覚えてへん」
「きらーん、って言ってたよ」
まめこの耳が立った。
「言うてへん」
「言ってた」
後ろからも、小さな声がした。
「聞こえた」
まめこはハンカチを握った。
しばらくして、ルカの方へ顔を寄せる。
「……服、できてん」
「どんなの?」
「ピンクでな。後ろ、でっかいリボン」
眠たそうだった目が、少し光った。
「杖もあるねん。ほんまに魔法、使える」
「それでナイトサイト?」
まめこは頷いた。
「トロ、よう見えた」
そこまで言うと、また欠伸が出た。
ルカは笑いかけて、今度は口を押さえた。
*
昼食のパンを食べても、午後になっても、まめこはどこかぼんやりしていた。
呼ばれてから顔を向けるまで、少し間が空いた。
片付ける時には、自分の鉛筆を探していた。
鉛筆は、右手にあった。
ルカに教えられると、まめこは黙ってそれを見た。
「……あった」
帰りの道で迎えに来たメグを見つけると、まめこは手を握った。
「今日は、どうでしたの?」
まめこは少し黙った。
「寝てもうた」
「授業中に?」
「……よだれも出た」
メグの口元が動いた。
まめこはすぐに見上げた。
「めぐも笑うん?」
「想像してしまいましたの」
「みんな笑ってん」
まめこは唇を尖らせた。
メグが、握った手へ少し力を込めた。
「今夜は、ぐっすり眠りましょうね」
「うん」
少し歩いてから、まめこは付け足した。
「でも、服は着る」
「お風呂の前まで、でしたわね」
「うん。杖は、きらーんだけ」
メグは微笑んだ。
夕方の道へ、二人の影が長く伸びていた。
家へ帰ると、トロが玄関で待っていた。
まめこはしゃがみ、黒い頭を一度撫でた。
「今日は見いひんからな」
「ニャ」
トロは座ったまま、前足を舐めた。
まめこはそれを見ていた。
見てから、はっと顔を上げた。
「マリー! 服!」
奥から、マリーの返事がした。
まめこは立ち上がった。
小さな欠伸を一つして、それから、衣装の待っている部屋へ向かった。




