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第三話 東門の朝

 まめこが寝床を抜け出すと、トロが空いた場所へ移った。


「そこ、あたしのとこやで」


 黒猫は目を閉じたまま、尻尾の先だけを動かした。


 廊下には、焼いたパンの匂いが漂っている。今日は畑へ出る前に、学院へ行く支度をしなければならない。まめこは椅子に掛けてあった紺の制服を手に取り、昨夜マリーが繕ってくれた袖に腕を通した。


 食卓には、メグが先に座っていた。生成りの外套を椅子の背に掛け、パンの皿の脇に置いた薄い本を、指先で開いている。オレンジがかったピンクの髪を細いリボンでまとめ、眠そうな青い目を本の上に落としていた。


「ごはんのときに勉強してるん?」


「今日はサヴィル先生に提出する魔法筆記がありますの。昨夜、最後の行だけ書き直しましたから」


「見せて」


 まめこが横からのぞき込むと、メグは本から顔を上げた。


「そうね。先に朝食をいただきましょう。あとで一緒に見ます?」


「先に読んでたん、メグやん」


 台所からマリーがスープを運んできた。髪をきちんと後ろで束ね、白いエプロンの裾を揺らしながら、穏やかな笑顔を浮かべている。


「お嬢様、まめこさんの言うとおりですよ。まずは温かいうちに召し上がってください」


「ええ。つい、気になってしまって。お食事のあとにしますわ」


 まめこは笑って席についた。トロも入ってきたが、食卓には上がらず、マリーの足元に座った。朝食を済ませ、まめこが鞄に帳面をしまっている間に、メグは外套を羽織り、魔法書を抱えた。


「行ってきます」


「行ってまいりますわ」


「はい。お二人とも、気をつけて」


 マリーは戸口で二人を見送った。トロは門までついてきたが、そこから先へは出ない。まめこが振り返ると、黒い尻尾が門柱の陰へ消えた。


「昨日の歌、メグも一緒に歌わへん?」


「ええ。覚えているかしら」


「昨日あんなに歌ったやん」


 まめこが歌い始めると、メグも声を重ねた。


 道が木立を抜けると、朝の街が見えてきた。荷車が石畳を鳴らし、開いた窓からは、洗った布を干す人の声が聞こえる。まめこが少し早足になると、メグは歩みを緩めた。二人の足音が並んだ。


「まめこー!」


 向こうから手を振ったのはルカだった。赤茶色の髪を寝癖のまま跳ねさせ、そばかすの浮いた顔で笑っている。背負った鞄が跳ねるほど勢いよく走ってきて、二人の前で止まった。


「遅れるかと思った。途中で変な形の石を見つけてさ」


「また道草したん?」


「ちゃんと持ってきた。ほら」


 差し出された石は、少しだけ魚に似ていた。


「……魚や」とまめこ。


「だろぅ?」とルカ。


「そうですかしら」とメグ。


 ルカは石を大事そうにしまった。メグは、まめこの頭に軽く手を置く。


「ここでお別れですわ。帰りはお友達と、寄り道せずに帰ってくださいまし」


「ルカにも言うて」


「ルカも、まめこと一緒に帰ってくださいね」


「うん。今日は石、もう拾ったし!」


 メグは笑って、ライセィムへ続く道へ曲がった。白い外套の裾が人の間に見えなくなるまで、まめこは立っていた。


「行こ」とルカが言う。


「うん」


 二人で東門へ向かう。門の手前には、小さな花が石壁を伝う場所があった。その脇で、カエルさんが行き交う人に挨拶している。丸い頭に大きな黒い目。緑がかった皮膚には、頭から背中の途中まで短い棘が並んでいる。


「おはよう、ぷに」


「カエルさん、おはよう!」


 まめこが手を振ると、カエルさんは細い前脚をちょっとだけ持ち上げた。ルカも挨拶する。市長がこんなところにいるのは珍しくない。街の人が困っていれば、その場で話を聞いてしまうのだ。


「歌の授業があるねん」


「それは楽しみだぷに。次会ったら、どんな授業だったか教えてほしいぷに」


「うん!」

挿絵(By みてみん)


 門をくぐった先に、ムーンベル学院の石造りの玄関が見えた。まめこが振り返ると、カエルさんはもう、荷車を引いた人の話を聞いている。ルカが「今度こそ遅れる」と言って走り出し、まめこも追いかけた。


 教室では、エルナが窓際の席から手を振った。長い黒髪を二つの三つ編みにして、白い頬を朝の光に照らしている。ニコルは机に小さな木片を並べている。


「それ、何作ってるん?」とまめこが聞く。


「鞄の留め具。昨日、片方だけ外れたんだ」


「授業が始まる前に片づけようね」


 後ろからローザ先生の声がした。銀縁の眼鏡の奥で、先生の茶色い目がやさしく細められている。ニコルが急いで木片を集め、ルカは魚の形の石を鞄へ戻す。


「今日は音楽の授業がありますね?」


「うん。みんなと歌をうたうねん」


 午前の授業が終わり、音楽の時間になった。フィオナ先生は机を少し端へ寄せ、子どもたちの真ん中に立つ。赤い髪を肩のあたりで切りそろえ、胸元には小さな銀の音符飾りをつけていた。


「今日はみんなで歌を歌います」


 まめこは手を挙げた。


「昨日、メグと歌を作ってん。歌ってもええ?」

「ええ。前へ出ておいで」


 椅子を引いて立ち上がり、先生の隣へ行く。皆がこちらを向くと、まめこは少し照れくさくなった。


 朝、メグと歌ったところを思い出し、歌い始めた。いつもより声が小さくなった。途中で音を外し、思わず先生を見る。先生はうなずいて、続きを待っていた。


 まめこは息を吸い直し、最後まで歌った。


 ルカが手をたたいた。エルナやニコルも続き、まめこはほっとして笑った。


「昨日作ったばっかりなの?」

 エルナが聞いた。

「うん。メグに楽器、弾いてもろてん」

「いいな。わたしも聴きたい」

「今の歌に合わせて弾いてくれるんやで」


 話しているうちに、もう少し大きな声で歌えばよかったと思った。


「聞かせてくれてありがとう。席に戻っていいですよ」


 まめこが戻ると、ルカが顔を寄せた。


「俺、歌なんか作れないよ」

「あたしも、初めてやで」


「では、今度は皆で歌いましょう。歌の本を出してください」


 まめこは鞄から本を取り出した。隣でルカが頁をめくっている。開くところを教えてもらい、まめこも同じ頁を探した。


 帰り道、まめこは東門でカエルさんを見つけた。ルカと一緒に駆け寄る。


「カエルさん、また会ったな! 朝からここにいたん?」


「そうだぷに。朝からここで、みんなに挨拶しているぷに」


「ずっと朝からおるん? あたしらが来る前から?」


「そうだぷに。日の出の少しあとから、ここにいるぷに」


「カエルさん! 暇なんやな!」


「暇じゃないぷに! 仕事ぷに!」


「ここでみんなと喋るんが?」


「そうぷに。門に立ってると、町の人がいろんな話をしてくれるぷに」


「それも市長のお仕事なん?」


「大事な仕事ぷに。困ってることがあっても、市長のところまで来る人ばっかりじゃないぷに」


「へぇー……」


 朝からずっとここに立っているのには、ちゃんと理由があるらしい。


「あ、そうや! カエルさん!」


「なんだぷに?」


「あたし、授業で歌ったで!」


「おお、どうだったぷに?」


「ちょっと間違えたけど、みんな拍手してくれてん」


「それはうれしいぷに。帰りに教えてくれて、ありがとうぷに」


 カエルさんは目を細め、いつもより少し長くまめこの話を聞いてくれた。ルカも横から、「次はもっと大勢で歌おう」と言う。


 まめこはうなずき、ルカと家へ続く道を歩き出した。歩きながら、みんなの拍手や笑い声を何度も思い出していた。


 同じころ、ライセィムではメグが魔法筆記の本を閉じていた。


「最後の行は丁寧に書けているな」とサヴィル先生。


「昨夜、書き直しましたの」


「ならば、最初の行からその丁寧さで書くことだ」


 メグは最初の行を見直した。後半よりも、字の間が詰まっている。


「ええ。次は、初めから気をつけますわ」


 先生は頷いた。


「急ぐと字が先に走る。詠唱も同じだよ」


「はい。唱える時も、急がないようにいたします」


 昼を過ぎ、メグはイリス先生の実技も終えてライセィムを出た。まめこの授業は、もう終わっているころだ。朝の約束どおり寄り道せずに帰れば、家に着いているはずだった。


 街を離れ、家へ続く木立に入る。メグは釣りのことを考えていた。昨日は糸の具合を見ただけで、夕食の魚を一尾も持ち帰れなかった。今日は帰ってから、少しだけ水辺へ行こうか。


 枝が鳴った。


 道の先、低い木の枝にモルバットがしがみついていた。小猿ほどの体を茶色い毛が覆い、両腕にはコウモリのような皮膜の翼がある。尖った耳の下から、短い牙がのぞいていた。メグが足を止めると、モルバットはこちらを向き、枝をつかむ爪に力を込めた。メグは抱えていた本を脇に寄せる。


 モルバットが飛び出した。枝の隙間を抜け、メグの目前に迫る。


「Granza Zarca」


 ファイアボールの術式に応じて、手の先に火が集まる。羽ばたきに合わせて、影が上下する。メグは一歩横へ動き、相手が開けた道の真ん中に出た瞬間、火を放った。


 火の玉が胸に当たり、羽音が途切れる。モルバットは道へ落ちた。胸の毛が焦げ、片方の翼が土の上に広がっている。枝をつかんでいた細い指は、もう動かなかった。


「ふぅ」


 メグは、木の葉に火が移っていないことを確かめると、自分のスカートにも目を落とした。裾を軽く払ってみる。土も焦げ跡もついていない。


 それから、モルバットが飛び出した木と、道に落ちた場所を見直す。この道は、まめこやルカも毎日通る。


 鞄についた土を払い、メグは家とは反対の東門へ引き返した。門の詰め所にいたガードへ、林の道でモルバットに襲われたこと、倒した場所と死骸が残っていることを伝える。


「子どもたちの帰り道でもありますの。ほかにもいないか、見ていただけます?」


「分かった。現場を確かめる。知らせてくれてありがとう」


 ガードはもう一人を呼び、道の様子を聞きながら地図に印をつけた。メグは、二人が林へ向かうのを見届けてから、ようやく家路についた。


 家では、まめこがマリーの前で歌を繰り返していた。トロは椅子の下で丸くなっている。


「歌い終わったら、みんな拍手してくれてん」


「フィオナ先生も聞いてくださったんですね」


「うん。エルナはメグの楽器も聴きたいって。ルカは歌なんか作れへんって言うてた」


「まあ。それは素敵ですわね」


「メグにも聞かせるで」


 門の開く音がして、まめこは戸口へ走った。


「メグ! 今日な、学院であたしの歌、うたったで!」


「まあ。皆さんの前で?」


「うん。最後まで歌ったで」


「嬉しいですわ。皆さんにも聞いていただけたのね」


 メグが笑う。まめこは急いで歌い始めようとしたが、マリーが台所から顔を出した。


「お嬢様、先に手を洗ってくださいね」


「ええ。まめこ、手を洗ってから、ゆっくり聞かせてくださる?」


 まめこはメグのあとをついて洗い場へ行った。


 二人とも話したいことを抱えたまま、まずは並んで手を洗った。

めぐ「モルバットもかえるさんも雑魚なの」

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