第二十六話 リボンと屋根の上
セイジズカットの窓に、白い襟の上着が飾られていた。
その足元には、小さな籠に入った木の実。赤い葉を添えた飾りが、窓越しの日を受けている。
まめこは扉の前で、メグの手を引いた。
「ここやな」
「ええ。採寸にも来たでしょう?」
「今日、服を持って帰れるんやな」
「ええ。仕上がったと、お知らせを頂きましたもの」
まめこは窓から中を覗こうとして、背伸びをした。
奥から人影が近づいてくる。
扉が開いた。
「まめこちゃん!」
ベリーだった。
今日は制服ではなく、柔らかな色の上着を着ていた。長い耳が、扉の上の鈴より高いところで揺れている。
「待ってたよ。さあ、入って入って!」
「ベリーも来てたん?」
「もちろん。最初に着るところ、見たいもの」
まめこが店へ入ると、靴の横をトロがすり抜けた。マリーも続き、メグは扉を押さえたまま、通りへ顔を向けた。
壁際に、チェリーが立っていた。
腕を組み、店の中を見ている。
「チェリーも、お入りになりません?」
「いや。ここで待ってる」
チェリーは胸元から、細い葉巻を取り出した。
「受け取るだけだろ?」
「着てもらって、最後に確認するの!」
店の奥からベリーの声がした。
「はいはい」
チェリーが手を上げた。
メグは小さく笑い、扉を閉めた。
*
アバンは、大きな包みの前に立っていた。
いつもの前掛けをしていたが、今日はそこに糸くずがついていなかった。作業台も片づけられ、針山は手の届かない棚へ移してある。
「こんにちは、まめこちゃん」
「こんにちは!」
まめこは挨拶をしてから、台を見た。
布を掛けた包みから、白いものが少し覗いている。
「あれ?」
「うん。出来たよ」
アバンが布を外した。
淡いピンクの衣装が現れた。
丸みのある袖は白く、襟元にも白い布が添えてある。胸には少し濃いピンクのリボン。裾には細く白い縁取りが走り、重なった布の間に柔らかな影ができていた。
まめこの両手が、胸の前でくっついた。
「わあ……」
アバンは衣装を持ち上げ、後ろも見せた。
腰の少し上に、大きなリボンがあった。
両側へふっくらと広がり、その下から垂れた二本の端には、小さな刺繍が入っている。尻尾を出すところは、そのさらに下だった。
「後ろにもある!」
「これ、何度も結び直したんだよ」
ベリーが、まめこの横から覗いた。
「大きいけど、重くならないようにしてくれたの」
「着てええ?」
まめこはもう、マリーを見ていた。
「ええ。こちらでお着替えしましょうね」
奥の衝立へ向かいながら、まめこは何度も振り返った。
アバンが衣装をマリーへ渡した。
ベリーも衝立の方へついてくる。
「着られたら呼んでね。袖と裾を、最後に確かめるから」
アバンは作業台の前へ戻った。
トロもついてきた。
「トロは、こちらでお待ちになってくださいませ」
マリーに言われ、黒猫は衝立の端で座った。
*
店の外では、葉巻の先から細い煙が上がっていた。
チェリーは、人の流れから少し離れた壁際に立っていた。
向かいの店では、林檎を並べる女が籠を傾けている。荷車を引いた男が通り、その後ろを、パンの包みを抱えた娘が歩いていった。
店の中から、まめこの声がした。
「尻尾、出た!」
続いて、ベリーの笑い声。
チェリーは煙を吐き、窓へ目を向けた。
衝立があって、中の様子は見えなかった。
もう一度葉巻を口へ運びかけたとき、路地の奥で女の声が上がった。
「動かないで! そこから動いちゃ駄目!」
チェリーの耳が向いた。
続いて、子供の泣き声が聞こえた。
*
「もう、ええ?」
衝立の向こうから、まめこが尋ねた。
「はい。お待たせいたしました」
マリーが答えた。
最初に出てきたのは、白い靴の先だった。
それから、淡いピンクの裾。
まめこが、両手でスカートの脇を少し持ち上げて出てきた。
髪には小さなリボンが留めてある。猫耳はその上で、いつもどおり自由に動いていた。
メグが、口元へ手を当てた。
「まあ……とても似合っていますわ」
「ほんま?」
「ええ。こっちへいらっしゃい。よく見せて」
まめこは二歩進んだ。
裾がふわりと揺れた。
それを見て、もう一歩進んだ。
「揺れる」
「回ってみてもいいよ。ゆっくりね」
アバンが言った。
まめこは、その場でくるりと回った。
スカートが広がり、背中のリボンが遅れて揺れた。尻尾も一緒に弧を描く。
ベリーが両手を合わせた。
「可愛い!」
アバンは頷いた。
一度では足りず、もう二度頷いた。
まめこは止まり、二人の顔を見た。それから、メグを見た。
みんな笑っていた。
「もう一回、回ってええ?」
「目が回らない程度にしてくださいね」
マリーが言った。
*
路地に入ると、三人の大人が上を見ていた。
一人は女で、何度も同じ名を呼んでいる。もう一人は店の前掛けをした男。壁には梯子が掛けてあったが、梯子の先から屋根の端までは、まだ少し距離があった。
その屋根の、さらに隣。
煙突へしがみついている男の子がいた。
足元の瓦は斜めに傾いている。膝をついたまま、下を見ようとしては顔を戻していた。
「何があった」
チェリーが尋ねると、前掛けの男が振り返った。
「猫を追って上ったんです。こっちの物置から。それで、向こうまで行っちまって……」
「助けようとしたんだって、この子は言うんですけど」
女が声を震わせた。
足元で、茶色い猫が毛づくろいをしていた。
チェリーは猫を見た。
屋根を見た。
「猫は先に帰ってきたのか」
「はい……」
男が梯子を押さえ直した。
「これで上がれればいいんですが、短くて。もっと長いのを借りに行かせたところです」
チェリーは葉巻の火を始末し、物置の横へ回った。
屋根の高さを見上げ、男の子までの距離を確かめた。
「おい、坊主」
男の子が、泣き顔を少しだけ向けた。
「そこにいろ。迎えに行く」
「動いたら、落ちるぅ……」
「だから、動くなって言ってんだ」
声を少し落とした。
「こっち見なくていい。煙突、持ってろ」
*
店の奥の鏡は、まめこの頭から靴まで映った。
まめこはその前で、しばらく黙っていた。
右手を上げる。
鏡の子も、手を上げた。
胸のリボンへ触る。
鏡の子も触った。
まめこは笑った。
「わたしや」
「そうだよ」
ベリーが隣でしゃがんだ。
「後ろも見ようか」
小さな鏡を持ち、角度を変える。
まめこは肩越しに見ようとして、体ごと後ろを向いた。
「あれ」
大きな鏡には、正面が映らなくなった。
「お顔はこっち。首だけ、少しね」
マリーが肩へ手を添えた。
二つの鏡の間に、背中のリボンが映った。
「見えた!」
まめこの尻尾が上がった。
リボンの下を通り、先がぴんと曲がる。
「トロ、見て! ここにもリボン!」
「ニャ」
トロは鏡の前へ来た。
まめこの靴を一周してから、見上げる。
まめこは手を腰へ当て、もう片方を斜め上へ伸ばした。
「きらーん!」
アバンが、思わず一歩前へ出た。
ベリーも立ち上がった。
二人は顔を見合わせた。
「袖、ちゃんと上がるね」
「うん。ここ、仮縫いの時より少し広げたんだ」
話しながらも、二人の目はすぐまめこへ戻った。
「まめこちゃん、もう一回!」
「あい!」
*
チェリーは屋根の下で足を止め、膝を軽く曲げた。
次の瞬間、地面を蹴った。
斑模様の体が、一気に屋根の高さまで跳び上がる。
母親が息を呑んだ時には、もうチェリーの足が瓦へ着いていた。
膝を柔らかく曲げて受け止め、そのまま煙突の方へ歩き出す。
男の子は、煙突に頬をくっつけていた。
その隣へ、影が来た。
「おい」
男の子が顔を上げた。
目の前に、斑模様のある顔があった。
丸い耳。鋭い目。口元から、少しだけ見える牙。
男の子は泣くのを止めた。
「……食べる?」
チェリーの眉が動いた。
「食わねえよ。迎えに来たんだ」
下で、前掛けの男が顔を背けた。
肩だけが少し揺れていた。
チェリーは片膝をつき、男の子の足元を確かめた。
靴は片方、脱げかけていた。
踵へ指を掛け、履かせ直す。
「怪我してねえか」
男の子が頷きかけた。
「どっちだ」
「してない……」
「よし。こっちへ腕回せ」
煙突を抱いていた手が、なかなか離れなかった。
チェリーは急かさず、片腕を男の子の背へ回した。
「掴まえた。もう落ちねえから」
指が一本ずつ、煙突から離れた。
小さな腕が、チェリーの首へ回った。
「そんなに締めるな。こっちが苦しい」
少しだけ緩んだ。
*
「これ着て、お買い物してええ?」
まめこは鏡の前から尋ねた。
「ええ。今日はそのまま帰りましょうか」
メグが答えた。
「あい!」
「帰りに裾を汚さないよう、気をつけてくださいね」
マリーは脱いだ服を畳み、包みに入れた。
まめこは、胸のリボンを見下ろした。
「お墓にも、これで行く」
マリーの手が止まった。
メグは、まめこの顔を見た。
「そうですわね。今度のお墓参りで、お見せしましょう」
「後ろも見せる」
まめこは半分だけ回った。
アバンが、リボンの端をそっと整えた。
「……うん。後ろも、見てもらってね」
「学院にも着ていく!」
「学院へは、制服ですわ」
メグの返事は早かった。
「ええー」
「お休みの日に、たくさん着ればよろしいでしょう?」
まめこは裾をつまんだ。
少し考えた。
「帰ったら、脱がんでもええ?」
「夕食の時には、大きな布を膝へ掛けましょうね」
マリーが言うと、まめこは満足して頷いた。
*
チェリーは男の子を胸へしっかり抱き寄せ、屋根の端へ進んだ。
下に人がいないのを確かめる。
「ちょっと跳ぶぞ。掴まってろ」
男の子の腕が、また首へぎゅっと回った。
チェリーは屋根を蹴り、子供を抱いたまま、一っ飛びに地面へ降りた。
足が着くと同時に深く膝を曲げる。抱えた男の子の体が大きく揺れないよう、腕で支えた。
「もう着いたぞ」
男の子が、おそるおそる顔を上げた。
母親が駆け寄ってきた。
伸ばされた腕へ、男の子を渡す。
母親は抱きしめ、背中を撫で、顔を確かめた。
「本当に、ありがとうございます……!」
「怪我はねえってよ。膝は汚れてる」
男の子は母親の肩越しに、チェリーを見た。
さっきまで泣いていた目が、今は大きく開いている。
「すごかった」
「そうかよ」
「もう一回!」
「二度と上るな」
母親が、慌てて男の子の頭を下げさせた。
チェリーは物置へ顔を向けた。
「あそこに積んである箱、どけとけ。足場になってる」
「すぐ片づけます」
前掛けの男が頷いた。
茶色い猫は、まだ同じところにいた。
チェリーが見下ろすと、猫も顔を上げた。
「お前は、自分で帰れるだろうが」
猫はあくびをした。
*
セイジズカットへ戻ると、窓の奥でピンクの裾が揺れた。
チェリーは扉を開けた。
鈴が鳴った。
「おい。まだか?」
「チェリーちゃん、見て!」
ベリーが振り返った。
その前で、まめこが胸を張っていた。
「できた!」
チェリーはまめこを見た。
胸のリボンを見て、裾を見て、少し横に出ている背中のリボンも見た。
「おう。似合ってんじゃねえか」
まめこの耳が、ぴんと立った。
「後ろ、でっかいで」
くるりと背を向ける。
「ほんとだな」
「尻尾も出る」
「見えてるよ」
ベリーがチェリーへ近づいた。
「どこ行ってたの? さっき外を見たら、いなかったから」
「そこの屋根から、ガキ下ろしてきた」
「屋根?」
「猫を助けに上って、自分が下りられなくなったんだと。猫は先に帰ってきてた」
ベリーの耳が傾いた。
「あらまあ。怪我は?」
「ねえよ」
「よかった」
ベリーはチェリーの袖へついた白い粉を見つけ、指で払った。
「煙突、触った?」
「ガキが抱きついてたんだよ」
マリーが小さな布を持ってきた。
チェリーは礼を言い、袖を拭いた。
まめこは、背中のリボンを気にしながら寄ってきた。
「屋根、怖なかった?」
「別に」
「落ちへん?」
「落ちねえように上るんだ。お前は真似すんなよ」
まめこは頷いた。
トロを見た。
「トロも上ったらあかんで」
「ニャ」
*
アバンは、髪飾りの残りを小さな箱へ収めていた。
「こっちは、もしリボンが傷んだ時に。替えを入れておきました」
「まあ、ありがとうございます」
マリーが受け取った。
メグは作業台へ近づいた。
「本当に、丁寧に作ってくださったんですのね」
「いえ。その……着てもらえて、よかったです」
アバンはまめこを見た。
鏡の前へ戻っていた。
今度は片足を前へ出し、裾の形を確かめている。
「アバン、ありがと!」
鏡越しに目が合うと、まめこが手を振った。
アバンも手を振り返した。
ベリーが、その横へ並んだ。
「ねえ。次、冬用も似合うと思わない?」
アバンの手が止まった。
「冬用……」
「耳まで入る、大きなフード。白い布で、暖かいやつ」
アバンは作業台の端から、紙を一枚引き寄せた。
「耳のところ、押さえないように……」
鉛筆を持つ。
丸い形を描きかけて、止めた。
「フードの上も、猫耳の形にしたら?」
ベリーが紙へ顔を寄せた。
「それよ!」
チェリーは、袖を拭いていた布を握ったまま、二人を見た。
アバンが線を足した。
「中に余裕を作って。表は白で、端は……」
「赤が可愛いわね。模様は、葉っぱとか小さな実とか」
「うん。ここに、少しだけ」
まめこが鏡から離れた。
「なに描いてるん?」
「冬の服だよ。耳も寒くないの」
「耳、入る?」
「すっぽり」
まめこは自分の耳へ手を当てた。
「トロの耳も?」
アバンの鉛筆が止まった。
ベリーがトロを見た。
トロは、作業台の下で座っていた。
「お揃い……」
ベリーが呟いた。
アバンが紙の隅に、小さな丸を描き始めた。
「おい」
チェリーが言った。
二人が顔を上げる。
「受け取りに来たんだろ?」
「うん。もう受け取ったよ」
ベリーが答えた。
「じゃあ、帰るぞ」
「待って。今、次の服の話してるの」
チェリーは紙を見た。
猫耳のついたフード。その横に、もっと小さなフード。
アバンはもう、別の鉛筆を探していた。
「……次?」
「もうちょっとだけ!」
ベリーが笑った。
メグは口元を押さえ、マリーはまめこの包みを持ち直した。
チェリーは、二人の間に置かれた紙をもう一度見た。
それから、店の扉を開けた。
通りへ出ると、さっきの男の子が母親に手を引かれて歩いていた。
チェリーを見つけ、空いている手を大きく振る。
チェリーも、片手を上げた。
親子の姿が角を曲がってから、壁へ背を預けた。
店の中から、ベリーの声がする。
「留め具も、可愛いのにしましょうよ」
「じゃあ、みっきーさんにも相談して……」
チェリーは空を見上げた。
煙突の上を、薄い雲が流れていた。
「……一人下ろしてきても、まだ終わってねえのかよ」
扉の向こうで、まめこが笑った。
チェリーは新しい葉巻を取り出し、指の間で一度回した。
今度こそ、しばらく動かなくてよさそうだった。




