第二十五話 市長の長い昼休み
池の上を、黄色い葉が一枚流れていた。
朝の風に押され、丸い睡蓮の葉へ近づいていく。端に触れると、少し向きを変え、今度は石の縁に沿って漂い始めた。
カエルさんは、それを眺めながらパンをかじった。
ムーンベルの街の中心から、少し外れたところにある家だった。
二階建ての石造りで、通りに面した鉄の門には、磨かれた真鍮の取っ手がついている。門から玄関へ続く道の両側には低い植え込みがあり、その奥へ回ると、小さな池のある庭に出た。
池のほとりには、背もたれの広い椅子と丸い卓が置かれていた。
卓の上には、焼いたパン、半熟の卵、薄く切った梨。それから、湯気の立つお茶があった。
カエルさんは卵へ匙を入れた。
柔らかい黄身が流れる。
「よい朝ぷに」
塩を少し振り、パンの先で黄身をすくった。
塀の向こうで、荷車の車輪が鳴った。遠くからは、店の戸を開ける音も聞こえる。
庭の隅の木では、小鳥が枝を渡っていた。
カエルさんはお茶を飲み、椅子の背へ体を預けた。
もう少し、ここにいたかった。
けれど、今日は朝に東門へ行くことになっていた。
卓の端に置いてある手帳を開く。
東門。
市庁舎で会議。
午後には、商人たちとの面談が二件。
その下にも、細かい文字が並んでいた。
カエルさんは手帳を閉じた。
「……朝から読むものではないぷに」
梨をもう一切れ食べてから、ようやく椅子を降りた。
*
東へ向かう通りには、朝の支度をする人たちが出ていた。
パン屋の窓から、焼けた粉の匂いが流れてくる。向かいの店では、まだ眠そうな若者が木の板を一枚ずつ外し、壁へ立て掛けていた。
箒で掃かれた枯れ葉が、道の端に集まっている。
「おはよう、市長さん」
野菜を並べていた店主が顔を上げた。
「おはようぷに。今朝の売れ行きはどうぷに」
「まだ店を開けたところですよ」
「それはそうぷに」
カエルさんは頷き、籠に入った茸を見た。
大きな傘のものと、細い軸のものが、別々に盛られている。
「よい茸ぷに」
「今朝入ったんです。お昼にいかがです?」
「覚えておくぷに」
通りの先から、馬の蹄の音が近づいてきた。
カエルさんは道を譲った。荷車には、布で覆われた木箱が積まれていた。
そのあとを歩き、東門へ着くころには、門の前にも人が増えていた。
街へ入る荷車。
空の籠を持ち、外へ出ていく男。
街道から戻ったばかりらしい、土のついた靴の旅人。
石の門の陰は、まだひんやりしていた。
門番がカエルさんへ向き直った。
「おはようございます、市長」
「おはようぷに。昨夜は何もなかったぷに?」
「はい。夜明け前に、農園からの荷車が三台。ほかに異常はありません」
カエルさんは、脇の机に置かれていた記録を覗いた。
「街道のぬかるみは、まだ残っているぷに?」
「門から少し先の低いところです。昨日も車輪を取られたそうで」
「今日の会議で話すぷに。荷車が止まると、後ろも止まるぷに」
「お願いいたします」
門の外へ顔を向けると、朝日に照らされた道が見えた。両脇の草には露が残り、遠くの木立だけが、薄く白んでいる。
そこへ、小さな馬車が近づいてきた。
止まると、まずマリーが降りた。
続いて、制服姿のまめこが顔を出した。
「カエルさん!」
踏み台へ足を下ろし、マリーに手を添えてもらって地面へ降りる。
「おはようございます!」
「おはようぷに。今日も学院ぷに?」
「うん!」
まめこの背中では、鞄が少し斜めになっていた。マリーが肩紐を直す間も、まめこは市長を見ていた。
「カエルさんも、お仕事?」
「もちろんぷに。朝から、街の安全を確かめているぷに」
カエルさんは胸を張った。
門番も、隣で姿勢を正した。
「そのあと、市庁舎で大切な会議ぷに」
「いっぱい喋るん?」
「いっぱい考えるぷに」
まめこは、少し感心した顔になった。
「ほんなら、寝たらあかんな」
門番が記録の方へ顔を伏せた。
マリーがまめこの肩へ手を置く。
「まめこ様。そろそろ参りましょう」
「あい。カエルさん、頑張ってな!」
「まめこちゃんも、しっかり勉強するぷに」
まめこは手を振り、マリーと通りへ入っていった。
小さな尻尾が、制服の後ろで左右に動いている。
カエルさんも手を下ろした。
門番は、まだ記録を見ていた。
「……寝ないぷに」
「はい。何も申し上げておりません」
*
市庁舎までは、家から歩いて十分ほどだった。
今朝は東門へ回ったので、いつもより長く歩いた。
玄関の石段を上がると、開け放たれた戸の内側で、職員が書類を抱えていた。
「おはようございます、市長。会議室へどうぞ」
「まだ、お茶を飲んでいないぷに」
「会議室にご用意しております」
「よく気がつくぷに」
カエルさんは機嫌よく階段を上がった。
長い卓には、もう数人が着いていた。
窓際の席には、ガードの制服を着たチェリーがいる。背筋を伸ばし、手元の報告書へ目を通していた。
顔が上がった。
「おはようございます、市長」
「お、おはようぷに」
カエルさんは、自分の席へ座った。
お茶の香りがした。
ちゃんと、お茶だった。
職員が書類を配り、会議が始まった。
収穫祭で使った広場の片付け。
傷んだ柵の修繕。
残っている借り物の返却。
話が一つ終わるたびに、次の紙がめくられた。
カエルさんも自分の紙をめくった。
次の紙にも、字がたくさんあった。
「東門の外の道ですが」
職員が言ったところで、カエルさんは顔を上げた。
「低いところぷに?」
「はい。雨のあと、車輪が沈むとの申し出が――」
「今朝、門でも聞いたぷに。砂利だけ足しても、また水がたまるぷに。先に、横へ流れる溝を見てもらうぷに」
職員が筆を動かした。
「では、排水の確認も含めて、見積もりを」
「そこは急ぐぷに。収穫物を積んだ荷車が通るぷに」
チェリーが頷いた。
「工事の間は、門の手前で車列を整理いたします。日程が決まりましたら、お知らせください」
「頼むぷに」
そのあとには、祭の間の警備について報告があった。
迷子。
落とし物。
酒に酔って揉めた者。
それから、ひったくり。
カエルさんはお茶を飲んだ。
チェリーは報告書を卓へ置いた。
「人の多い広場では、巡回の組み方を見直します。次の催しまでに案をまとめます」
「大切ぷに。人が集まるときほど、皆が気をつけるぷに」
チェリーの目が、カエルさんへ向いた。
「市長にも、お願いいたします」
杯が、口の手前で止まった。
「……もちろんぷに」
カエルさんは静かに杯を置いた。
会議は、そのあともしばらく続いた。
ようやく最後の紙に署名をすると、窓の外で鐘が鳴った。
カエルさんは耳を澄ませた。
昼だった。
「よい会議だったぷに」
椅子から降りる足が、朝より軽かった。
*
お昼は、市庁舎の近くの食堂へ入った。
厨房からは、肉を焼く音がしていた。
壁には今日の料理を書いた板が掛かり、窓の下には、食事を待つ人たちが並んでいる。
カエルさんが席へ着くと、店の女将が水を持ってきた。
「今日は何にします?」
「茸のあるものぷに」
「鶏肉と茸の煮込みがありますよ。パンをつけましょうか」
「つけるぷに。大きいのを頼むぷに」
運ばれてきた皿は、深い縁の内側まで湯気を上げていた。
鶏肉の間に、薄茶色の茸がたっぷり入っている。玉葱は柔らかく煮えて、匙を入れるとすぐにほどけた。
カエルさんは一口食べた。
目を細める。
「うまいぷに」
パンをちぎり、煮汁へ浸した。
朝に見た茸を思い出した。
買って帰れば、夕食にも食べられる。
そう考えながら、次の一口を運んだ。
隣の卓では、二人の男が祭の話をしていた。
「あの赤い兜のやつ、子供に囲まれてたな」
「うちのも、あばレッドの真似ばかりしてるよ」
カエルさんは、パンを噛むのを少し遅くした。
「ひったくりのときも、来たんだろ?」
「ああ。市長もいたってな」
カエルさんは水を飲んだ。
「そうなのか。市長、何してたんだ?」
女将が、卓の間を通った。
「市長さん、おかわりはいかが?」
「いただくぷに!」
少し大きな声が出た。
隣の二人が振り返った。
カエルさんは皿を持ち上げ、女将へ渡した。
おかわりも、おいしかった。
*
食堂を出ると、日差しが朝より暖かくなっていた。
軒下の影は短くなり、石畳の上には、行き交う人たちの足が明るく見えた。
カエルさんは腹へ手を当てた。
満足だった。
市庁舎へ戻れば、午後の仕事が待っている。
広場の時計で時刻を確かめてから、手帳を開く。
最初の面談までは、まだ少しあった。
「少し歩くぷに。食後には、よいことぷに」
市庁舎とは反対の角へ足を向けた。
ちょうど、その向こうから女性が歩いてきた。
籠を腕へ掛けた、すらりとした人だった。濃い緑の服に、薄い色の肩掛けを合わせている。
風が来ると、肩掛けの端がふわりと浮いた。
女性は片手で押さえ、顔に掛かった髪を耳へよけた。
カエルさんの足が止まった。
「……むっふー」
女性が会釈した。
「こんにちは、市長さん」
「こんにちはぷに。よいお天気ぷに」
「ええ。洗濯物がよく乾きそうですね」
女性は笑って通り過ぎた。
カエルさんの顔も、ゆっくりそちらへ動いた。
籠の縁から、長いパンが一本出ていた。
肩掛けが、また風に揺れる。
「むっふー」
「市長さん」
すぐ横から声がした。
振り向くと、布屋の主人が軒先に立っていた。
「この前お願いした、通りの灯りの件なんですが」
「おお。覚えているぷに」
カエルさんは、女性の消えた角から目を戻した。
「店じまいのあと、あそこの角が暗くなるぷに?」
「そうです。荷物を持ったお客さんが、段差で転びかけましてね」
主人が、向かいの路地を示した。
カエルさんは一緒にそちらへ行った。
日中でも、家の間には深い影が落ちている。舗装の端がわずかに盛り上がり、その先に浅い段差があった。
「ここぷに」
「ええ」
「灯りと、この段差、両方見てもらうぷに」
手帳を出して書きつけた。
主人は何度も頭を下げた。
カエルさんは頷き、また通りへ戻った。
今度は、市庁舎へ向かうつもりだった。
けれど、少し先の広場に、日向のベンチが見えた。
*
広場の噴水は、細い水を上げていた。
飛沫が光り、石の鉢へ落ちるたびに、小さな波が広がった。
ベンチには、誰も座っていなかった。
背もたれの向こうには木が一本あり、黄色くなり始めた葉の間から、まだ緑の葉も見える。
カエルさんは座った。
「少しだけぷに」
手帳を膝へ載せた。
広場を見渡す。
噴水の近くでは、小さな男の子が落ち葉を拾っていた。母親が買い物の袋を持ち直し、早くおいでと呼んでいる。
反対の通りでは、花屋が鉢を外へ並べていた。
紫の花。
白い花。
赤みのある、小さな花。
店の奥から女性が出てきて、しゃがみ、鉢の向きを直した。
カエルさんは、そちらを見た。
「……むっふー」
花屋の女性が顔を上げた。
カエルさんは、噴水を見た。
水が流れていた。
ずっと流れていた。
お腹が暖かかった。
背中にも日が当たっていた。
手帳の角が、膝から少し下がった。
カエルさんは指で押し戻した。
「街の様子を……見ているぷに……」
噴水の音が、さっきより遠くなった。
*
「市長は、どちらですか?」
市庁舎の窓口で、ベリーが尋ねた。
腕には報告書を抱えていた。
職員は窓口の奥を見て、それから壁の時計を見た。
「お昼へ出られたまま、まだ……」
待合の椅子には、商人が二人座っていた。
一人は帳面を膝に載せ、もう一人は包みを足元へ置いている。
ベリーの耳が、ゆっくり上がった。
「面談、もう始まる時間だよね」
「はい。お探ししようと思っていたところです」
「どっちへ行ったの?」
「食堂を出られたあと、広場の方へ……」
ベリーは窓へ顔を向けた。
ここからでは、広場は見えなかった。
「見てくるね」
報告書を預け、外へ出た。
石段を降り、角を曲がる。
広場へ着くと、花屋の女性がすぐに気づいた。
ベリーを見て、ベンチを指さす。
ベリーは頷いた。
そこには、よく知っている丸い背中があった。
カエルさんは座ったまま、頭を少し後ろへ傾けていた。
手帳は、足の横に落ちている。
ベリーが拾った。
開いた頁には、午後の予定と、さっき書いたらしい通りの灯りのことがあった。
閉じて、カエルさんの隣へ座る。
「市長」
返事はなかった。
「市長。面談の方が来てるよ」
「……むっふー……」
ベリーはカエルさんの顔を見た。
口元が、緩んでいた。
「楽しそうだね」
耳を少し傾けた。
それから、顔を近づけた。
「チェリーちゃんも来るよ」
カエルさんの目が開いた。
「仕事ぷに!」
ベンチから降りようとして、足が一度空を蹴った。
ベリーが腕を支えた。
「うん。お仕事だよ」
カエルさんは立ち、ベリーを見て、広場を見た。
噴水は、まだ同じように流れていた。
「プニは、街の様子を確かめていたぷに」
「目を閉じて?」
「耳でも確かめられるぷに」
ベリーの長い耳が、ぴんと伸びた。
「そうなんだ。じゃあ、わたしが呼んだのも聞こえた?」
カエルさんは口を開けた。
一度閉じた。
「……戻るぷに」
ベリーは手帳を渡した。
市庁舎へ向かう足は、今朝の東門へ向かう足より、ずっと速かった。
*
玄関には、チェリーが立っていた。
カエルさんは石段の下で止まった。
ベリーはその隣を通り、先に上がった。
「いたよ。広場で寝てた」
「寝ていないぷに!」
チェリーはカエルさんを見下ろした。
「皆様、お待ちです。市長室へどうぞ」
制服姿で、声も落ち着いていた。
それが、かえって気になった。
カエルさんは石段を上がった。
チェリーの横を通るとき、声が低くなった。
「今朝、子供に何て言われたんだよ」
カエルさんの足が止まった。
「……なぜ知っているぷに」
「門の報告も聞くんでな」
ベリーが振り返った。
「何て言われたの?」
「寝たらあかん、だとよ」
ベリーの肩が揺れた。
カエルさんは、二人の間を抜けて階段へ向かった。
今度は、止まらなかった。
*
午後の市長室では、紙をめくる音が続いた。
商人の話を聞き、帳面の数字を確かめる。
別の商人が持ってきた品を見て、祭の後に残った荷の扱いについて話す。
一件目が終わると、二件目。
それが終わると、職員が署名の要る書類を持ってきた。
カエルさんは筆を持った。
窓の外で、風に葉が舞っていた。
ちらりと目を向ける。
職員が次の紙を差し出した。
「こちらもお願いいたします」
「分かっているぷに」
署名をした。
そのあとで、手帳を開いた。
「通りの灯りと、段差も見てもらうぷに。布屋の向かいの路地ぷに」
職員が顔を上げた。
「新しいご要望ですか?」
「昼に確かめたぷに。暗くなると、危ないぷに」
「では、明日、担当を向かわせます」
カエルさんは頷いた。
市長らしい仕事が、一つ増えた。
書類も、一枚増えた。
*
家へ戻るころには、通りの端から夕方の影が伸びていた。
カエルさんは、朝に立ち寄った野菜の店で茸を買った。
紙の包みを抱え、門を開ける。
庭へ回ると、池は朝より暗い色になっていた。
水面には、また葉が浮かんでいる。
朝に見たものかどうかは、分からなかった。
家に入ると、カエルさんは上着を脱ぎ、椅子の背へ掛けた。
手を洗ってから、台所で紙の包みを開く。
茸は、まだ土と落ち葉の匂いがした。
軸の先を切り落とし、大きなものは食べやすい大きさに裂いた。小さなものは、そのまま皿へ寄せておく。
鍋を火に掛け、バターを落とした。
溶けたところへ茸を入れると、ぱちぱちと音がした。
木の匙で返すたびに、香りが立ってくる。
「これは、よいぷに」
塩を少し振り、ひとつ味を見た。
熱かった。
口を開けて息を逃がし、それでも、もうひとつ取ろうとして手を止める。
「皿に載せる分がなくなるぷに」
戸棚からパンを出し、厚く切った。
茸を皿へ移したあとの鍋で、切り口を軽く焼く。残ったバターが染み込み、縁がきつね色になった。
庭の丸い卓へ、皿とパンを運んだ。
最後に温かいお茶を置いて、椅子へ上がる。
夕方の風が、袖口を少し冷やした。
けれど、皿からは湯気が上がっていた。
「いただくぷに」
茸をひと口食べた。
傘の柔らかいものと、軸に歯応えのあるものがあった。昼の煮込みとは違って、噛むと茸の汁がじわりと広がる。
パンもかじった。
焼けた端が、さくりと鳴った。
カエルさんは、ゆっくり頷いた。
門の向こうを、荷車が一台通っていった。
車輪の音が遠ざかると、庭には葉の擦れる音が残った。
池の水面に、小さな輪ができた。
カエルさんは匙を置き、しばらく眺めた。
輪は広がり、睡蓮の葉の下へ消えた。
「今日も、よく働いたぷに」
東門へ行った。
会議もした。
街の段差も見た。
面談も、書類も、全部終わらせた。
少し眠ったことは、数に入れなかった。
皿に残った茸をパンへ載せ、大きく口を開けた。
今度は、ちょうどよい熱さだった。
*
食べ終わった皿を片づけてから、カエルさんはお茶をもう一杯淹れた。
庭へ戻るころには、池の向こうの植え込みが、ひと続きの暗い影になっていた。
窓から漏れる灯りが、卓の端を照らしている。
カエルさんは両手で杯を持ち、椅子の背へ深く体を預けた。
朝、あの野菜の店で茸を見ておいてよかった。
明日は、何が並ぶだろう。
そう考えながら、お茶をひと口飲んだ。
手帳は、上着のポケットに入ったままだった。
カエルさんは足を楽なところへ置き直した。
「よい夜ぷに」
池の上で、黄色い葉が一枚、ゆっくりと流れていた。




