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第二十四話 波打ち際の大物

 朝の庭で、まめこは釣り竿を抱えていた。


 先を上へ向けると、軒に当たりそうになる。少し下げると、今度は足元へやってきたトロが立ち止まった。


「ごめん。こっち通って」


 竿を横へずらす。


 トロはその下をくぐらず、まめこの後ろを回った。


 セイジズカットでの採寸は、もう済んでいた。腕を広げたり、じっと立ったりしている間にも、まめこは作業台に置かれたピンクの布を何度も見た。


 後日には仮縫いの服も着せてもらった。背中のリボンはまだついていなかったけれど、裾が少し広がるだけで、鏡の前から離れがたかった。


 みっきーの店へも、ステッキの絵を持っていった。


 ガラスの星を作ってもらうお願いも済んでいる。衣装は裁縫屋、ステッキは細工屋。それぞれの出来上がりを待つ時間は、まめこには長かった。


 だから、門の方で車輪の音がすると、まめこはつい顔を上げた。


 今朝通ったのは、野菜を積んだ荷車だった。


「まだやな」


「出来上がったら、知らせてくださいますわ」


 メグが玄関から出てきた。


 片手に自分の釣り竿を持ち、肩には鞄を掛けている。


「今日は、お魚を待ちましょう」


「大きいの釣るで」


 まめこは竿を持ち直した。


 マリーが戸を閉め、布を掛けた籠を腕へ通した。


「では、私もお夕食を楽しみにしておりますね」


「あい!」


 トロが先に門へ向かった。


     *

挿絵(By みてみん)


 海へ下る道の脇では、背の高い草が穂を揺らしていた。


 その根元に、小さな紫の花がいくつも咲いている。まめこが覗き込むと、丸い蜂が一匹、花の奥へ頭を入れていた。


 木立の間を歩いているうちは、乾いた葉の匂いがした。


 足元で茶色い葉が砕ける。頭の上でも、風が来るたびに葉が擦れ合った。


 坂を曲がると、急に空が広くなった。


 草の向こうに、青い海が見えた。


「見えた!」


 まめこは数歩走り、釣り竿が揺れるのに気づいて歩き直した。


 海から来る風は、庭の風より冷たかった。髪の間を抜け、猫耳の内側をくすぐる。まめこは片方の耳を動かしてから、鼻で大きく息を吸った。


「海の匂いや」


 坂の下には、白っぽい砂浜が湾に沿って続いていた。


 乾いた砂には細かな貝殻が混じり、波の届くところだけ、色が濃くなっている。海藻や小枝が寄せられた筋の向こうで、薄い波が砂を覆い、また引いていった。


 引き波に運ばれる小石が、さらさらと鳴った。


 浜の端には岩が重なっている。濡れた下の方は黒く、陽の当たる上の方は灰色だった。その間にたまった水が、小さな空を映していた。


 沖では、帆が一つ動いていた。


 まめこは目を細めた。


「あの船、どこ行くん?」


「港へ戻るところかもしれませんわね」


 メグが答えた。


 白い帆の下の船体は、波に隠れたり、また見えたりした。


 まめこが見ている間に、カモメが一羽、船よりずっと近いところを横切った。羽を広げたまま風に乗り、浜の上で一度だけ鳴く。


 トロの顔も、同じ方へ動いた。


「遠いで。届かへん」


 トロはまめこを見ずに、もう一羽を目で追った。


     *


 マリーは波の届かない草地のそばに敷物を広げた。


 籠を置き、端へ平たい石を載せる。風にめくれかけていた布が、そこで落ち着いた。


 メグは釣り竿を寝かせ、鞄から木の箱を取り出した。


 蓋が開くと、まめこはすぐに隣へ寄った。


「六分儀!」


 金属の縁に、細い光が走っていた。


「少し、待っていてくださいませ。先に、わたくしが練習しますわ」


 メグは箱から六分儀を取り出した。鞄から小さな手帳も出し、敷物の上へ開いておく。


 乾いた砂の上に立つと、湾の向こうへ顔を向けた。


 六分儀を覗き、指先で少しずつ動かす。しばらくして下ろしたが、すぐには手帳へ書かなかった。


「……もう一度」


 足の位置を確かめて、また覗く。


 まめこは隣から、メグの顔を見上げた。


「何見てるん?」


「あの岬の、高い木ですわ。白い小屋と重ねているのですけれど」


 メグの指が止まった。


「あら。行きすぎました」


 ほんの少し戻し、今度は六分儀の傾きを直す。


 まめこも海の向こうを見た。木も小屋も動いていないのに、メグはなかなか顔を離さなかった。


 ようやく下ろすと、細かな目盛りへ目を寄せ、手帳へ数字を書いた。


 もう一度測ってから、書いた数字と見比べる。


「違うん?」


「少し。持つ向きが、ずれてしまったのかしら」


 メグは手帳を膝に置き、持ち手を握り直した。


 今度は、肘を少し体へ寄せた。鏡の中をゆっくり動かし、止めてからも、しばらく確かめている。


 読み取った数字を、先ほどの横へ書き足した。


「今度は、近くなりましたわ」


「できた?」


「まだ、同じように測れるとは限りませんわね。船の上でも使えるように、練習しませんと」


 メグは手帳の二つの数字を、指でなぞった。


 まめこは六分儀を覗き込もうと、背伸びした。


「わたしも、木、動かしてみたい」


 メグが顔を上げた。


「では、一緒にやってみましょう。わたくしが今、練習していたところまでですけれど」


 まめこは両手で受け取った。持ち上げると、手首に重さが掛かる。


「海の上で使うんやんな」


「ええ。でも、まずは足元が動かないところで、慣れておきましょう」


 メグは、乾いた砂の上へまめこを連れていった。


 正面には湾の向こうの岬が見えた。低い崖の上に木が並び、その端から、一本だけ背の高い木が突き出している。


 少し離れた海辺には、白い小屋もあった。


「あの木と、白い小屋が見えます?」


「見える」


「今日は、あの二つを使ってみましょう」


 メグが持つ向きを示した。


 まめこは顔へ近づけ、覗いた。


「……暗い」


「指が掛かっていますわ」


 指をずらす。


 急に明るくなった。


「出た!」


「そのまま。まず、小屋を見つけて」


 まめこは体ごと横を向いた。


 小屋が見えたと思うと、下へ逃げた。追い掛けると、今度は海ばかりになる。


「小屋、どっか行った」


「腕を少し下げてみてください」


 メグの手が、まめこの肘の下へ添えられた。


 白い屋根が戻ってきた。


「おった」


 まめこは息を止めた。


 メグが横から、鏡に映る景色を動かすところを教える。まめこは言われたところへ指を置き、少しずつ動かした。


 木が、白い小屋へ近づいてきた。


「木、歩いてる」


「鏡の中でだけですわよ」


 あと少しだった。


 まめこは指へ力を入れた。


 木は小屋を通り越した。


「あっ」


「少し戻して」


 戻しすぎた。


 まめこは口を尖らせた。


「ここにおってほしいねんけど」


 風で髪が顔へ掛かった。


 払おうとして片手を離しかけると、メグが六分儀を支え、髪を耳の後ろへよけてくれた。


「ゆっくりで大丈夫です」


 まめこはもう一度覗いた。


 今度は、指の先だけを動かした。


 木の幹が、小屋の端へ重なった。


「……くっついた」


「ええ。その位置ですわ」


 まめこは顔を離し、実際の岬を見た。


 木と小屋は、離れたままだった。


 また覗く。


 こちらでは、くっついている。


「ほんまは、あんな離れてるのにな」


 今度は面白くなった。


 メグに目盛りの場所を教えてもらい、細かな線へ顔を近づける。


「いっぱいある」


「そこを読みますの。今日は、合わせられたところまでにしましょうか」


「もう一回する」


 まめこは岬へ向き直った。


 二度目には、小屋を見つけるまでが少し早かった。


 木を近づけている途中で、カモメが視界を横切った。


「鳥入った!」


 顔を上げると、カモメはもう頭の上だった。


 まめこは笑ってしまい、六分儀を持つ手まで揺れた。


     *


 釣りをするのは、砂浜の端にある低い岩場だった。


 平たい足場から、湾の水が深くなっている方へ竿を出せる。メグは先に立って岩の表面を確かめ、まめこには乾いたところを教えた。


「濡れている方へは行かないでくださいね」


「あい」


 まめこは岩の色の境目を見てから、足を置いた。


 すぐ下で、波が岩の隙間へ入ってきた。


 ごぽ、と低い音がする。


 白い泡がほどけ、透けた水の底に、茶色い海藻が見えた。長い葉が一斉に横へ倒れ、波が引くと、ゆっくり起き上がる。


「あそこ、お魚おりそう」


「隠れるところが、たくさんありますものね」


 メグが餌の入った容器を開けた。


 まめこはそばへ屈んだ。


 針につけるところを見て、それから自分でもやってみる。うまく持てずに餌を落としそうになり、慌てて容器の上へ手を戻した。


 ようやくついた針は、メグに確かめてもらった。


「では、下ろしてみましょう」


 まめこは竿を前へ出した。


 糸の先が水へ入る。


 浮きが一度沈み、また顔を出した。


 赤い先が、波に合わせて動いている。


 まめこも、そのたびに少し前へ傾いた。


「それは波ですわ」


「今のも?」


「今のも」


 もう一度、浮きが下がった。


 まめこはメグを見た。


 メグは海を見ていた。


 まめこも海へ戻った。


     *


 待っていると、波の音がよく聞こえた。


 遠くでは、広く崩れる波が、ざあ、と鳴る。


 近くでは岩に水が当たり、ぱしゃ、と短く弾ける。


 その間に、草地で籠を開ける音や、マリーが布を畳む音も聞こえた。


 トロは敷物の端に座っていた。前足を揃え、海へ向けた耳だけを時々動かしている。


「トロ、まだやで」


「ニャ」


 まめこの尻尾の先が、岩の上を掃いた。


 足の横にあった小さな貝殻が、こつ、と動く。


 まめこは尻尾を反対側へ回した。


 しばらくして、隣のメグの竿が曲がった。


「来ましたわ」


「え!」


 まめこが顔を向けた時には、糸が水の上を斜めに走っていた。


 銀色の魚が、波の下で一度光る。


 メグは魚を近くまで寄せ、網ですくった。


 網の中で、尾が忙しく跳ねた。


「お魚や!」


 まめこは自分の竿を持ったまま、背伸びした。


 トロが立った。


 魚が入った桶のそばへ行き、縁から覗き込む。


「まだ食べられませんよ」


 マリーが桶を少し自分の方へ寄せた。


 トロも、同じ分だけ近づいた。


「トロ。あんたも待つねん」


 まめこはそう言って、また浮きを見た。


 赤い先が動いている。


 今度は、じっと見ていた。


     *


 それは、メグが二匹目の魚を桶へ移したあとだった。


 まめこの浮きが沈んだ。


 竿を上げると、手の中へずしりと重さが来た。


「メグ!」


 両手で握った。


「重い!」


 竿の先が曲がっている。


 まめこは足を踏ん張った。


「大きいの来た!」


 メグがすぐ横へ寄った。


「慌てないで。強く引きすぎないように」


「持ってる!」


「ええ。そのまま、ゆっくり」


 まめこは少しずつ竿を上げた。


 重いものが、海の底からついてくる。


 一度、ぐっと引かれた。


「引っ張った!」


 メグは、糸の入っているところを見た。


「波も来ていますから。足を動かさずに」


 まめこは頷いた。


 顔が真剣になっていた。


 桶の魚より、大きいかもしれない。


 マリーも岩場の手前まで来た。


 トロはその後ろから覗いている。


 水の中に、黒っぽいものが見えた。


「見えた!」


 まめこの声が高くなった。


 長い海藻が先に浮いた。


 その下から、丸い先が出てきた。


 メグの網が伸びる。


 すくい上げられたものから、水が流れた。


 くるぶしよりもずっと上まである、茶色い革のブーツだった。


 片っぽだけだった。


 履き口から海藻が垂れ、横に開いた穴から、もう一筋、水が落ちた。


 まめこは竿を持ったまま、動かなかった。


 マリーが口へ手を当てた。


 メグは網を岩の上へ置いた。


「……靴ですわね」


「うん」


 まめこは頷いた。


 ブーツの先を見た。


 海も見た。


「お魚、靴はいてたん?」


 マリーの肩が揺れた。


 メグも、口元を押さえた。


「これは、お魚の靴ではありませんわ」


「ほんなら、足のおっきい人のや」


「そうですわね」


 まめこは自分の靴へ目を落とした。


 釣れたブーツは、ずいぶん大きかった。


 トロが近づいてきた。


 鼻を伸ばす。


 すぐに首を引き、顔をそむけた。


「あんたも、お魚や思ったん?」


 トロは前足を上げて、鼻の横を擦った。


 マリーがとうとう笑った。


 まめこも笑い出した。


 竿の先まで揺れるので、メグが受け取ってくれた。


「大きいのやったのに!」


「大きいのは、釣れましたわ」


 網の中で、ブーツが横へ倒れた。


 最後に残っていた水が、履き口からこぼれた。

挿絵(By みてみん)


     *


 ブーツは海へ戻さず、しばらく岩の上で水を切った。


 メグが針を外し、マリーが持ってきていた袋へ入れる。


「持って帰るん?」


「捨てるところへ、持っていきましょう」


 メグが答えた。


 まめこは、袋の口から見えているつま先を見た。


「これ、マリーのお夕食にはならへんな」


「こちらは、煮ても焼いても困りますね」


 マリーが言った。


 まめこはもう一度笑った。


 そのあと、少し場所を変えて糸を下ろした。


 餌は新しくつけ直した。


 海の色が、朝より明るくなっていた。岩の下まで届く光の中を、小さな魚が数匹、まとまって横切った。


 まめこは、今度こそと思って待った。


 風が来ると、浮きの周りに細かな波が立つ。


 止むと、赤い先がはっきり見えた。


 そこへ、小さな動きが来た。


 波とは違って、二度続けて沈む。


「……メグ」


「ええ」


 メグが隣へ来た。


 まめこは竿を上げた。


 今度の重さは、手の中でぴくぴくと動いた。


「動いてる!」


 水から小さな魚が顔を出した。


 茶色い背中に、薄い縞がある。尾を振ると、雫がまめこの袖へ飛んだ。


「お魚!」


 メグに手伝ってもらい、岩の上へ寄せた。


 まめこはしゃがんで見た。


 口が動いていた。


 ちゃんと魚だった。


「靴はいてへん」


「こちらは、そうですわね」


 メグが針を外した。


 小さな魚は、濡らした手の上で尾を振った。


「この子は、まだ小さいですから。戻してあげましょうか」


 まめこは魚を見て、頷いた。


「もっと大きなってからな」


 メグが水際へ屈む。


 手が水に入ると、魚はするりと抜け、海藻の陰へ消えた。


 まめこは乾いた岩の上から見送った。


 もう、どこにいるか分からなかった。


     *


 お昼は、敷物の上で食べた。


 マリーが籠から出してくれたパンには、薄く切った肉と、炒めた茸が挟んであった。


 まめこは両手で持ってかじった。


 茸が端から出てきて、慌てて指で押し戻す。


 口の中がいっぱいになっている間も、沖の船を見ていた。


 朝の船はもう見えなかった。代わりに、茶色い帆の小船が、湾の入口をゆっくり進んでいる。


 マリーが温かいお茶を注いでくれた。


 カップを持つと、冷えていた指に温もりが戻った。


 トロには、マリーが用意してきたご飯があった。


 食べ終わると、敷物の陽の当たるところへ丸くなる。


 まめこはその背中へ、指を一本だけ置いた。


「わたし、お魚も釣ったで」


 トロの耳が動いた。


「ちっちゃいから帰したけど」


 返事はなかった。


 まめこはパンの残りを食べた。


 足を伸ばすと、靴の先に砂がついていた。


 向こうには、袋に入った大きなブーツもあった。


「次、もう片っぽ釣れたらどうしよ」


 メグがお茶を飲む手を止めた。


 マリーが笑った。


「お魚にしてくださいませ」


「わたしも、そのつもりやったんやで」


     *


 午後には、まめこも持って帰れる魚を一匹釣った。


 メグの魚と並べると小さかったが、桶へ入ったところを何度も確かめた。


 トロにも見せた。


 今度は、顔をそむけなかった。


 帰る前に、まめこはもう一度、六分儀を持たせてもらった。


 白い小屋を見つけ、鏡の中の木を近づける。


 午前中より早く重なった。


「できた」


「ええ。上手になりましたわ」


 まめこはにっと笑った。


 六分儀を箱へ戻す時には、釣り竿を振り上げた時より、ずっと静かに手を動かした。


 浜には、来た時より長い影ができていた。


 岩の上で乾いていた塩が、白く残っている。砂のくぼみにたまった水には、細い雲が映っていた。


 海に向かって立つまめこの足跡へ、波が届いた。


 つま先の形から崩れ、踵もなくなる。


 次の波が引いたあとには、滑らかな砂が残った。


「わたしの足、消えた」


 まめこは後ろを振り返った。


 浜の上の方には、まだ足跡が続いていた。


 その横に、小さなトロの跡もあった。


「こっちは、まだあるな」


 トロはもう草地に上がっていた。


 まめこは竿を抱え直し、メグとマリーの間へ戻った。


 坂を上る途中で、桶の魚が一度跳ねた。


 まめこは振り返って、笑った。


 その晩、マリーが焼いてくれた魚には、こんがりとした皮がついていた。


 まめこの釣った一匹も、皿に載っている。


「これ、わたしの」


「ええ。骨に気をつけてくださいね」


 メグが言った。


 まめこは頷き、身を少しずつ分けた。


 一口食べてから、また皿を見た。


「おいしい」


 窓の外で、庭の木が揺れていた。


 衣装が出来上がったという知らせは、今日はまだ来なかった。


 けれど、まめこには食卓で話すことがたくさんあった。


 鏡の中で歩いた木のこと。小さな魚を帰したこと。


 それから、今日いちばん重かった大物のこと。


「あれ、ほんまにおっきいと思ってん」


 まめこが両手で大きさを示すと、マリーはまた笑った。


 椅子の下にいたトロが顔を上げた。


 まめこはそちらを覗き込んだ。


「次は靴とちゃうで」


「ニャ」


 今度は、短い返事があった。

挿絵(By みてみん)

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