第二十一話 うさぎの鼻とおにぎり
まめこが目を開けた時、窓の向こうはまだ薄い青だった。
足元にトロがいる。
布団を少し持ち上げると、黒い耳が一つ動いた。
「今日やで」
返事はなかった。
まめこは寝台から降りた。床が冷たくて、足の指を丸める。窓へ寄って、空を見上げた。
雨は降っていない。
階下から、何かの焼ける匂いがした。
*
「おはようございます。早いですね」
台所で、マリーが振り返った。
まめこは戸口へ立ったまま、卓の上を見た。
黄色い卵焼きが、皿に並んでいる。隣には焼いたソーセージ。その向こうに、三角のおにぎりがあった。
「もうできてる」
「今、冷ましているところです」
兎の弁当箱は開けて置いてあった。
まめこは椅子へよじ登り、箱と皿を交互に見た。
「入れるの、見ててええ?」
「着替えて、お顔を洗ってからですよ」
「待っててな」
「お弁当は逃げませんから、階段はゆっくり」
まめこは椅子から降りた。
階段の途中でトロとすれ違った。トロはまめこの足へ鼻を寄せ、それから台所へ向かっていった。
「あんた、先に見るんずるい」
黒い尻尾が、角の向こうへ消えた。
着替えて戻ると、マリーがおにぎりを箱へ収めていた。
小さな三角が三つ。二つは白いままで、一つには海苔が巻いてある。
まめこは椅子へ座り直した。
「塩のやつ、二つや」
「約束しましたものね」
卵焼きが隣へ入る。ソーセージとジャガイモがその横へ並び、人参と緑の野菜が隙間へ収まった。
最後に、茸のバター炒め。
「入った」
まめこは箱の縁へ顔を寄せた。
昨日、頭の中で何度も並べたものが、全部入っている。
「蓋する前に、もう一回見る」
「はい。どうぞ」
兎の蓋を横へ置いて、じっと見た。
卵焼きを一つだけ食べたら、蓋が閉まりやすくなるかもしれない。
「味見したらあかん?」
マリーは朝食の皿を、まめこの前へ置いた。
そこにも、卵焼きが一切れ載っていた。
「こちらをどうぞ」
「あい」
ちょうど口へ入れたところで、メグが来た。
「おはようございます。今日は起こす必要がありませんでしたのね」
「もう起きたで」
「見れば分かりますわ」
まめこは卵焼きを飲み込んでから、窓を指した。
「晴れてる」
「ええ。よかったですわね」
メグが隣へ腰を下ろした。
マリーは弁当箱の蓋を閉じ、黄色い布の真ん中へ置いた。
「結びますか?」
「やる」
まめこはパンを皿へ戻し、手を拭いた。
布の端を引き寄せる。昨日より少し膨らんでいて、結び目を作るのに手間取った。
マリーが箱を押さえてくれた。
最後の端を引くと、白い花の模様が結び目のそばへ集まった。
「できたで」
持ち上げようとして、途中でやめた。
昨日の空箱より、重かった。
*
学院の教室では、いつもより鞄が丸くなっていた。
机へ置く音も、どすん、とする。
「何持ってきた?」
隣の子が聞いた。
「お弁当」
「僕も」
「うさぎの箱やで」
まめこは鞄を開けかけた。
ローザ先生が教室へ入ってきたので、手を止める。
「おはようございます。皆さん、忘れ物はありませんか?」
まめこは鞄の上から、弁当箱の角を触った。
水筒は横。敷物も入っている。
手を拭く布は、取り出しやすいところにした。
名前を呼ばれて返事をする間にも、廊下から隣の組の声が聞こえてきた。
十五人が教室を出て、もう十五人と一緒になった。
玄関へ行く途中で列が曲がり、先頭が見えなくなる。
まめこは前の子の鞄を追いかけた。
外には小さな馬車が何台も止まっていた。
荷台には向かい合わせの腰掛けが取り付けてある。まめこが乗る馬車には、六人が座ることになった。
御者が後ろの板を下ろしてくれる。
踏み台を一段ずつ上がると、腰掛けには畳んだ毛布が敷かれていた。
「鞄は膝に載せてくださいね」
先生に言われ、まめこは両手で抱えた。
横に座った子の鞄とぶつかったので、少し身体をずらす。
「近いな」
「揺れたら、またぶつかるよ」
向かいの子が笑った。
車輪が動き出すと、本当にぶつかった。
「ほら」
まめこも笑った。
*
石畳の道では、鞄が膝の上で細かく跳ねた。
いつも乗る馬車より、車輪の音がよく聞こえる。
通りのパン屋から、焼けた匂いが流れてきた。店の前で箒を動かしていた人が、馬車の列へ手を振る。
まめこは片手を上げた。
すぐに鞄を抱え直す。
「お弁当、ひっくり返る」
「まだ食べないよね?」
「食べへんよ」
向かいの子は、鞄の紐をぎゅっと握っていた。
「お腹すいた」
「朝食べた?」
「食べた」
「わたしも」
まめこは水筒を見た。
お昼までは、まだずいぶんありそうだった。
馬車は家並みの間を進み、木の多い道へ入った。
道端には、茶色くなった葉が溜まっている。車輪の通ったあと、一枚がくるりと転がった。
「まめこ、歌ってよ」
向かいの子が言った。
「何の?」
「何でもいい」
まめこは少し考えて、鞄を抱えたまま歌い始めた。
「赤いずきんで、森の道ー♪
おばあちゃんちへ、とことことー♪」
車輪が石を踏んで、声が一つ跳ねた。
「パンをひとつと、りんごをふたつー♪
くまぽん出てきて、こんにちはー♪」
「狼じゃないの?」
「森のくまぽんやねん」
隣の子が笑った。
「こんにちはー♪」
まめこがまた歌うと、向かいの子も同じところを歌った。隣の子は歌詞を知らないので、そこだけ一緒に歌う。
御者の肩が、声に合わせて小さく揺れた。
先の馬車で誰かが声を上げた。
「見えた!」
まめこは背筋を伸ばした。
門の向こうに、木の柵と建物の屋根が見えた。
もっとよく見たくて腰が浮いた時、横の子がまめこの袖を引いた。
「座っとかないと」
「あい」
まめこは腰を戻した。
門が近づくまで、鞄を抱えて待った。
*
馬車から降りて並び直すだけで、しばらくかかった。
水筒の紐が引っかかった子がいる。帽子を座席へ忘れた子もいた。
まめこは自分の鞄を背負い、尻尾を外へ出した。
門のところで、動物園の人が迎えてくれた。
「今日は、皆さんに近くで見てもらえる動物もいます。餌は勝手にあげないでくださいね」
まめこは鞄の中を思い浮かべた。
人参が入っている。
でも、あれは自分のお弁当だった。
「触る時も、係の人の話を聞いてからです」
ローザ先生が言った。
皆が返事をすると、近くの鳥小屋から声がした。
「オハヨウ!」
列の真ん中で、子供たちが一斉に振り返った。
太い枝に、緑のオウムが止まっていた。
赤い嘴が動く。
「オハヨウ!」
「おはよう」
まめこが返すと、オウムは首を傾けた。
隣の子も声をかける。
「こんにちは!」
「オハヨウ!」
皆が笑った。
まめこは網の手前へしゃがんだ。
「まめこやで」
オウムが片足を上げた。
「オハヨウ!」
「それはもう聞いた」
後ろでローザ先生まで笑っていた。
*
兎の囲いには、白い兎と茶色い兎がいた。
白と茶色が混ざったものもいる。
まめこは柵の前で、指を一本ずつ曲げた。
五匹まで数えたところで、茶色い兎が小屋へ入った。
別の茶色い兎が、その裏から出てきた。
「今の、さっきの?」
隣の子が首を振った。
「分からない」
まめこは指を開いて、最初から数え直した。
今度は二匹が重なった。
「メグ、数えてって言うてたのに」
係の人が囲いの中へ入り、低い腰掛けを並べた。
何人かずつ入ってよいことになったので、まめこは順番を待った。
先に入った子の膝へ、兎が載せられる。
長い耳が、ゆっくり動いた。
まめこは両手を自分の膝へ置いた。
まだ何も載っていないのに、足を動かさないようにした。
ようやく呼ばれると、鞄を先生へ預けて囲いへ入った。
「ここへ座ってね」
腰掛けに座ると、膝へ厚い布を広げてもらった。
「兎が急に動いても、立ち上がらないで。私を呼んでください」
「あい」
白い兎が、まめこの膝へ来た。
思っていたより、ずっしりしていた。
トロとは違う。脚を曲げたまま、丸くなっている。
「背中を、そっと撫でてみて」
まめこは手を下ろした。
指が毛へ触れる。
一度撫でて、もう一度。
「ふわふわや」
兎の鼻が動いていた。
まめこは自分の鼻にも力を入れてみた。上手く動かなかった。
「何してるの?」
隣の腰掛けの子が聞いた。
「これ」
まめこは兎の鼻を指した。
隣の子も、鼻の周りを動かそうとした。
二人とも変な顔になって、笑いかけたところで、まめこの膝の兎が向きを変えた。
まめこは息を止めた。
前足が布の端へ掛かる。
「動いた」
「大丈夫。抱き上げなくていいですよ」
係の人がそばへ来た。
まめこが手を止めていると、兎はまた膝の上へ収まった。
鼻だけは、ずっと動いていた。
*
囲いを出て手を洗ったあとも、まめこは自分の手のひらを見ていた。
指の間へ水を流して、布で拭く。
「もっと触りたかった?」
ローザ先生が聞いた。
「うん。でも、次の子おった」
「また後で、見に来られるといいですね」
まめこは頷いて、鞄を背負った。
隣の組が兎の囲いへ入っている間に、こちらの組は孔雀を見に行った。
柵の向こうでは、長い尾を引いた鳥がゆっくり歩いていた。
まめこはしゃがんだ。
孔雀が足を止めた。
長い尾が持ち上がり、扇のように大きく広がっていく。
まめこは立ち上がった。
「わあ……」
広がった羽には、目のような丸い模様がいくつも並んでいた。
「いっぱい目ぇある」
「模様ですよ」
「分かってる。こっちの目ぇは二つや」
孔雀が顔を向けた。
まめこも、そちらを見た。
まめこが見入っていると、孔雀はゆっくり尾を閉じた。
長い羽がまた地面の近くへ下りて、孔雀は草をつつき始めた。
「もういっぺん広げてくれへんかな」
まめこは柵に手をかけて待った。
隣で誰かのお腹が鳴った。
孔雀より先に、全員がそちらを見た。
*
熊は丸太へ顎を載せていた。
まめこが柵の外から覗いても、片耳を動かしただけだった。
「くまぽん、寝てる」
「まめこが歌ったから?」
「まだここでは歌ってへん」
次の囲いでは、ライオンが歩いていた。たてがみが肩まで覆っている。まめこは隣の子と顔を見合わせ、さっきの熊より少し柵から離れた。
ライオンがあくびをした。
大きな牙が二本、はっきり見えた。
「……お腹すいた」
まめこが言うと、先生が広場の方を指した。
*
お昼の広場には、木陰がいくつもあった。
まめこは地面へ敷物を広げた。
端が丸まったので、鞄を置いて押さえる。
隣の子の敷物と少し重なった。
「ここ、一緒でええ?」
「いいよ」
黄色い包みを取り出して、膝の前へ置く。
結び目は、朝より固くなっていた。
片方を引く。ほどけない。
反対の短い端を引いたら、するりと緩んだ。
「うさぎ」
隣の子が弁当箱の蓋を見た。
「かわいいね」
「うん。お気に入りやねん」
まめこは蓋を外した。
卵焼きが見えた。
ソーセージも、茸も、朝に見た場所へちゃんと収まっている。
白いおにぎりの一つだけ、少し傾いていた。
まめこは指で真っ直ぐにした。
「それ、何?」
向かいに座った子が聞いた。
「おにぎり。お米やで」
「手で食べるの?」
「うん」
その子の箱には、丸いパンに肉と野菜を挟んだものが入っていた。
隣の子は、切ったパンとチーズ。それから、小さな梨。
普段の学院のお昼とは違う皿が、敷物の上に並んだ。
ローザ先生が皆の用意を確かめ、声をかけた。
「では、いただきましょう」
「いただきます」
まめこは、塩のおにぎりを持った。
三角の上からかじる。
頬の内側へ、お米がくっついた。
もう一口食べて、卵焼きにフォークを刺す。
甘かった。
「おいしい?」
隣の子に聞かれ、口を動かしたまま頷いた。
飲み込んでから、もう一度頷く。
「おいしい」
次はジャガイモを食べた。
朝の台所と同じ匂いが、箱から少しだけした。
マリーは、今ごろ何を食べているだろう。
メグの皿にも、卵焼きがあるかもしれない。
まめこはおにぎりをもう一口かじった。
「これ、お母さんが教えたやつやねん」
向かいの子が顔を上げた。
「お母さんが作ったの?」
「今日はマリー。マリーに教えたん」
「三角にするのも?」
「たぶん」
まめこは残ったおにぎりを見た。
かじったあとの形は、もう三角ではなかった。
「食べたら丸なるけど」
向かいの子が笑った。
まめこも笑って、残りを口へ入れた。
塩の二つ目は、最後に取っておこうと思った。
けれど、ソーセージを食べたら、また欲しくなった。
少しだけかじった。
少しのつもりが、半分になった。
*
午後は、木の枝へ登る猿を見た。
まめこが見上げている間に、猿は枝を二本渡った。片手でぶら下がり、空いた手で何かをつまんでいる。
「落ちへんの?」
聞いた途端、猿は隣の枝へ跳んだ。
「わ!」
皆の声が重なった。
「まめこ、こっちにもいるよ!」
呼ばれて、まめこは柵に沿って歩いた。向こうの猿は小さかった。大きな猿の背中へしがみついている。
まめこが笑った、その少し後ろ。
飼料小屋の角から、赤い頭蓋骨の兜が半分だけ出ていた。
「まめこちゃん……」
兜の中で、小さな声がした。
名前が分かった。
黄土色のローブを着た青年は、また小屋の陰へ引っ込んだ。マントの端が壁へ擦れる。
ムーンベルの裁縫屋の息子、アバンだった。
メグと同じ学年でライセィムへ通っていた彼は、今は家の店で針を持っている。注文の服を仕立てるのも好きだが、可愛い衣装を考える時には、食事を忘れることがあった。
ベリーに頼まれた、あの兎の衣装も彼が仕立てたものだった。
今日は動物を見に来ただけのはずだった。
それが、ピンクの髪に猫耳のある小さな学院生を見つけてから、頭の中で新しい服が出来上がりつつある。
襟には白い縁取り。裾には小さな花。尻尾のところは、きちんと開けておかなくては。
「ウフフ……」
着てもらいたい。
でも、何と言って声をかければいいのだろう。
アバンがもう一度そっと顔を出すと、学院生の列は次の囲いへ向かっていた。
慌てて追いかけようとして、マントが小屋の出っ張りに引っかかった。
*
ラマが、長い首を柵の外へ伸ばしていた。
係の人がそばへ行くと、その袖へ鼻を寄せる。
「この子たちは、人や荷物を乗せて歩くこともあります」
「これも?」
まめこは隣の囲いを指した。
ラマとは違う、鳥に似た動物がいた。大きな脚で地面を踏み、こちらへ首を向けている。
「メスタードです。乗ってみたい人は、こちらへ並んでください」
まめこの手が上がった。
続けて何本も上がったので、先生が順番を決めた。
乗るのは一人ずつ。係の人が引き綱を持ち、囲いの前の道を短く往復する。
先に乗った子が戻ってくると、まめこは鞄を先生へ預けた。
踏み台へ上がり、鞍へ座らせてもらう。
足が地面から遠くなった。
「両手で、ここの持ち手を握ってね」
「あい」
メスタードが一歩動いた。
馬車とは違う揺れ方だった。まめこの身体が、ゆっくり左右へ動く。
「高いなあ」
皆の顔が下にある。
まめこが笑いかけた時、道の先で荷車から金属の桶が落ちた。
大きな音を立てて転がった。
メスタードの首が跳ね上がる。
係の人が綱を引くより早く、大きな脚が地面を蹴った。
「止まって!」
綱が手から滑り、係の人がよろめいた。
まめこは持ち手へしがみついた。
身体が後ろへ引っ張られる。
「まめこ!」
先生の声がした。
出口の門が、真正面に見えた。
地面も柵も、今まで見たことのない速さで後ろへ飛んでいく。
「待って、待ってえ!」
門の手前で、メスタードが急に向きを変えた。
まめこの腰が鞍から浮いた。
片手が離れる。
もう片方の指も滑った。
地面へ落ちると思った瞬間、黄土色のものが目の前へ飛び込んできた。
「おっと!」
身体を、両腕で受け止められた。
赤い兜がすぐそばにあった。
「大丈夫かい? まめこちゃん」
まめこは兜を見上げた。
「……! なんで、わたしの名前知ってるん?」
「えっ!」
兜が少し後ろへ傾いた。
「ぼ、ボク……じゃない! オレの名は!」
そこで、走ってきたローザ先生がまめこへ手を伸ばした。
青年は先生へまめこを渡すと、二人の前へ立った。
メスタードが、広場の端で向きを変えていた。
「え! えっと! 誠実戦士! あばレッド!!」
黄土色のマントを払って、片腕を斜めに上げる。
駆け寄ってきた学院生たちは、ぴたりと足を止めた。
誰も何も言わなかった。
あばレッドは、上げた腕を少しだけ高くした。
「……きらーん」
「わあ!」
最初に手を叩いたのは、まめこだった。
隣の子も叩いた。後ろの子が背伸びをする。赤い兜を見上げる目が、次々に輝いた。
「かっこいい!」
あばレッドの胸が、ぐっと張られた。
「皆、先生と一緒に下がって!」
ローザ先生はまめこの手を握り、子どもたちを丈夫な柵の内側へ連れていった。別の先生が入り口へ立ち、係の人が門を閉じる。
そのすぐ外へ、メスタードが突っ込んできた。
*
「さあ! 相手はオレだ!」
あばレッドが両腕を広げた。
メスタードが、ローブの袖へ噛みついた。
「いたっ! あ、そこは引っ張らないで!」
引き抜こうとすると、首を振られた。
あばレッドの足が、地面の上をずるずる滑る。
「負けるなー!」
柵の内側から声が飛んだ。
「だ、大丈夫! これくらい!」
袖が離れた。
よろめいたあばレッドへ、今度は胸からぶつかってくる。
がん、と硬い音がした。
「うわっ!」
背中から倒れた。赤い兜が地面へ当たる。
まめこは柵へ近づきかけ、先生の手に止められた。
「ここにいてください」
「あばレッド……」
黄土色のローブの裾がめくれ、その下に金属の鎧が見えた。
あばレッドは肘をつき、すぐに上半身を起こした。兜も鎧も、作っておいてよかった。身体よりも、新しいローブの袖の方が心配だった。
けれど、立とうとしたところへ、メスタードの頭が来た。
「ちょっ、待っ――」
また転がった。
子どもたちが息を呑む。
その拍子に、腰の袋から赤いリンゴが一つ飛び出した。
地面へ落ちて、ころころ転がる。
メスタードの脚が止まった。
首が下がる。
リンゴをくわえた。
「……あれ?」
あばレッドは座ったまま、動物の嘴を見ていた。
しゃく、と音がした。
もう一度、しゃく、とした。
係の人が横から近づき、地面へ垂れていた引き綱を拾った。別の人が囲いの扉を開ける。
さっきまで暴れていたメスタードは、リンゴを食べながら、おとなしく引かれていった。
あばレッドの、おやつだった。
兜の中から、短く息が漏れた。
「……よし」
片膝を立て、立ち上がる。
マントの土を払い、子どもたちへ向き直った。
「見たか! これが、誠実戦士あばレッドだ!」
柵の向こうで、拍手が起こった。
「リンゴでやっつけた!」
「すごい!」
「あばレッドー!」
まめこも両手を叩いた。
あばレッドは、少し曲がった兜を直してから、また腕を上げた。
「きらーん!」
今度は、皆が一緒に言った。
*
まめこの手も膝も、どこも痛くなかった。
先生に何度か聞かれて、腕を曲げたり、足を動かしたりした。係の人も顔を覗き込み、怖い思いをさせてしまったと謝った。
まめこは先生の袖を持ったまま、赤い兜の方を見た。
「あばレッドは? 痛ない?」
「えっ。ボ……オレか? 平気さ!」
あばレッドが胸を叩くと、鎧がこつんと鳴った。
「ありがとうございました」
ローザ先生が頭を下げた。
「まめこを受け止めてくださらなかったら……」
「い、いえ! そんな!」
急に背筋が伸びた。
まめこが、そのローブの裾を見た。土がついて、端が少しほつれている。
「服、破れたで」
「ああ。これなら、ボクがすぐ直せ――」
兜が止まった。
「……オレにかかれば、すぐ直る!」
「ありがとうな、あばレッド」
まめこが笑った。
アバンは、兜をかぶっていてよかったと思った。
頬が熱い。
モデルになってほしいと頼むなら、今だった。
「あの、まめこちゃん。今度――」
「あばレッド! もう一回、きらーんして!」
後ろから声がした。
気づくと、子どもたちがこちらを見ていた。
アバンは咳払いを一つした。
「では、最後に!」
足を開いて、腕を上げる。
「きらーん!」
「きらーん!」
皆の声が重なった。
係の人に休憩所へ案内される前に、あばレッドは肩越しに手を振った。
「じゃあな! あばヨ!」
「あばヨー!」
まめこも手を振った。
赤い兜が建物の角へ消えても、まだ何人かが手を振っていた。
*
帰りの馬車へ乗る時、まめこは先生と手を繋いでいた。
腰掛けへ座り、鞄を膝へ載せる。
いつもどおり両手で抱えると、先生がようやく小さく笑った。
「帰りは、ここでゆっくりしましょうね」
「あい」
車輪が動き出した。
向かいの子が腕を上げようとして、先生に座ったままにするよう言われた。
「きらーん」
今度は小さな声で言う。
まめこも、座ったまま真似をした。
「きらーん」
馬の足音を聞いているうちに、まめこは鞄を指で叩き始めた。
「せーいじつせんしー、あばレッドー♪」
向かいの子が顔を上げた。
「あかいかぶとで、やってくるー♪」
「それ、あばレッドの歌?」
「あい」
まめこはまた鞄を叩いた。
「かまれてもー、ころんでもー♪
まめこをまもるぞ、あばレッドー♪」
「僕も守ってほしい」
「ほな、みんなにする」
もう一度、初めから歌った。
「せーいじつせんしー、あばレッドー♪
あかいかぶとで、やってくるー♪
かまれてもー、ころんでもー♪
みんなをまもるぞ、あばレッドー♪」
「きらーん!」
隣の子が叫んだ。
まめこは笑いながら、そこも歌へつけ足した。
次に歌った時には、三人が一緒だった。
その次には、向かいの腰掛けの子たちも声を合わせた。
最後の「きらーん!」が、前の馬車まで届いた。
「何の歌ー?」
「あばレッドー!」
返事が飛んで、また歌が始まる。
ローザ先生は、膝の上で揃えた手を見た。それから、まめこが笑っているのを見て、歌の拍子に指を動かした。
門へ向かって走っていった小さな背中を思い出すと、まだ胸が冷たくなる。
隣にいるまめこは、次の一節を考えていた。
「りんごはひとつー、おいしいぞー♪」
歌いながら、首を傾ける。
「……これは、メスタードの歌になってもうた」
馬車の中で、皆が笑った。
学院では、迎えに来たマリーへ先生が声をかけた。まめこはその隣で、鞄の紐を握って待っていた。
話を聞いたマリーがしゃがみ、まめこの肩をそっと抱いた。
*
「ただいま!」
家の戸を開けると、トロが玄関にいた。
まめこは鞄を下ろし、その前へしゃがんだ。
「うさぎ触ったで」
手を差し出すと、トロは鼻を寄せた。
一度嗅いで、まめこの指へ頬を擦りつけた。
「あんたも、ふわふわやな」
「ニャ」
一緒に帰ってきたマリーが、鞄を置いてそばへ来た。
「ひと息ついたら、手を洗いましょうね。今日は、楽しかったですか?」
「あい! あばレッドおった!」
「あばレッド?」
「誠実戦士やで! メスタードから落ちそうになった時、助けてくれてん」
「まあ。その方が、先生のおっしゃっていた……」
マリーがまめこの前へしゃがんだ。
帰りに先生から聞いた時には、肝が冷えた。マリーはまめこの頬へ手を添え、もう一度顔を確かめた。
「怖かったでしょう」
「落ちる思うた。でも、あばレッドが抱っこしてくれてん」
「……そうですか」
マリーの指が、髪をそっと撫でた。
まめこはその手へ少し頬を寄せてから、鞄を引き寄せた。
黄色い包みを取り出す。
「全部食べたで」
卓へ置いて、結び目をほどく。
兎の蓋を外すと、隅にお米が一粒残っていた。
「あ」
指で取って、口へ入れた。
「これで全部」
「きれいに食べましたね」
まめこは空の箱を、マリーへ渡した。
「おにぎり、また入れてな」
「次のお出かけの時に?」
「お出かけせえへん日も」
「ええ。作りましょう」
帰宅していたメグが、居間から顔を出した。マリーはそばへ寄り、先生から聞いた出来事を声を落として伝えた。
メグは途中でまめこの方を見た。話が終わると、すぐに歩み寄ってきた。
まめこの前で膝を折り、両手を取る。
「どこも痛くありませんのね?」
「あい。先生にも言うたで」
「ええ。聞きましたわ」
手を包んだまま、メグはしばらくまめこを見た。
まめこは、その手の上へ自分の手を重ねた。
「メグ。歌できた」
「歌?」
「せーいじつせんしー、あばレッドー♪」
最初の一節で、メグの眉が少し上がった。
まめこが最後まで歌うと、台所のマリーも振り返った。
「きらーん!」
声を上げたあと、まめこは二人の顔を交互に見た。
「みんなも歌ったで」
「……その方には、お礼をお伝えしなくてはいけませんわね」
「赤い兜やで。服は茶色っぽいやつ」
「赤い兜に、茶色い服ですのね」
「あばヨって言うて帰った」
メグは一度、目を伏せた。口元が少しだけ緩む。
まめこが覗き込むと、また顔を上げた。
「兎は何匹いましたの?」
まめこは指を折りかけた。
「いっぱい」
「数えてくださるお約束でしたわよ」
「動くねん」
メグは少し考えて、それから頷いた。
「それでは、仕方ありませんわね」
「一匹は膝に載ったで。白いやつ」
まめこは椅子へ座り、両手で膝の幅を示した。
「これくらい。鼻、ずっとこうなってた」
顔へ力を入れた。
メグが目を丸くしたので、まめこはやめた。
「わたしはできへん」
「今ので十分、伝わりましたわ」
椅子の下から、トロが跳び乗ってきた。
まめこの膝を踏んで、くるりと回る。
座る場所を決めると、手の下へ頭を入れた。
まめこは背中を撫でた。
「今日は順番待たんでええで」
トロが目を細めた。
まめこはもう一度、その黒い背中を撫でた。
めぐ 「続きもあるんですが、今日はこのくらいで勘弁しといてやんよ。」




