第十九話 手のひらをひらいて
まめこが右手を差し出したので、メグは、その上へ林檎を一切れ載せた。
「そっちと違うねん」
「あら。もう食べませんの?」
「食べるけど」
まめこは林檎を左手へ持ち替えた。
朝食の皿は、ほとんど片付いていた。窓から入る風で、卓の端に置いた紙が少しずつ動いている。メグは杯をその上へ置いてから、もう一度まめこの手を見た。
「どこか、痛いところが?」
「ううん。メグ、わたしにもヒール、教えてほしい」
メグの手が止まった。
まめこは林檎をかじってから、続きを言った。
「転んだ時とか、指切った時とか。わたしも治せたらええなって」
「自分の怪我を?」
「それも。他の人のも」
膝の横へ、黒い頭が持ち上がった。
「トロもな」
「ニャ」
トロはまめこの手へ鼻を寄せた。林檎の匂いを確かめると、すぐに顔を引っ込める。
「あんた、今は怪我してへんやろ」
メグは小さく笑った。
「いいですわ。今日は午後に、一緒に練習しましょう」
「今日?」
「ええ。ただし、いきなり誰かの傷を治すところまでは、進めませんわよ」
「マナ、分からへんから?」
「まずは、そこからですわね」
まめこは自分の手のひらを見た。
前にメグの実技の紙を見せてもらった時も、腕の中を何度かなぞった。けれど、何かが流れている感じはしなかった。
指を曲げ、伸ばしてみる。
「午後までに、出てきたらええな」
「無理に探さなくて大丈夫ですわ。いつもどおり過ごしていてくださいまし」
マリーが、メグの弁当を持ってきた。
「では、午後は庭の椅子を出しておきますね」
「お願いしますわ。実技のあとですから、わたくしも少し休みながら」
「メグも練習?」
「今日は、召喚ですの」
まめこが顔を上げた。
「何呼ぶん?」
「それは、成功してからのお楽しみですわ」
「わたし、おらへんのに」
「……帰ってから、お話しします」
トロが椅子の下へ戻った。
まめこは残りの林檎を食べながら、庭に大きな熊が座っているところを想像した。
*
ライセィムの実技場には、朝のうちから乾いた土の匂いがした。
メグは鞄を壁際へ置き、記録の紙を広げた。隣ではアミが髪を結び直している。横へ寄せた茶色の髪が、肩の上で揺れた。
「今日は召喚だったね」
「ええ。前の時は、最後までまとまりませんでしたの」
「わたしも最初、何も出てこないまま、座り込んじゃった」
アミはそう言って、自分の水筒を卓へ載せた。中には、花びらを挟んだ小さな紙が入っている。
「また染料の材料ですの?」
「うん。昨日見つけた花。煮出したらどんな色になるか試したくて」
「実技の記録より熱心ですわね」
「両方ちゃんと書いてるよ」
アミは笑って紙をしまった。
まずは身体の中のマナを確かめ、使い慣れた魔法で手を慣らす。メグは指定された位置へ立ち、奥の石の的へ手を向けた。
「Granza Zarca」
練ったマナが、手の先で火球になる。
赤い火が的へ飛び、丸い印の中で弾けた。炎はすぐに収まり、表に黒い焦げ跡が残る。
次の火球も、同じ位置へ届いた。
メグが線の外へ下がると、アミが隣の的へ向かった。
唱えた言葉は同じだった。
火球の大きさも、ひどく違うようには見えない。
けれど、命中した音は重かった。石の表が小さく剥がれ、足元の砂へ落ちる。残った跡は、煤を払っただけでは消えそうになかった。
メグは自分の的と、アミの的を見比べた。
「……わたくしの方が、火は広がりましたのに」
「散ってしまった分もありますね」
サヴィル先生が、二つの的の間へ立った。
「同じファイアボールでも、使う人によって威力は違います。火を大きく見せようとして、マナを余計に使えばよいわけではありません」
先生はメグの的へ目を向けた。
「術を成立させる技術と、その力を十分に引き出す力は、別に磨く必要があります。術の威力を見極める授業で学んでいることも、ここに関わってきますよ」
「的には当たっていても、まだ足りないのですわね」
「ええ。今日は命中しています。次は、術の力をどれだけ引き出せているかも確かめましょう」
メグは頷いた。
記録の紙へ戻り、今日の焦げ跡を小さく描く。その横へ、火が広がった、と書いてから、アミの手の動きを思い返した。
アミは、もう次の練習の準備をしていた。
メグも筆を置き、試薬の袋を確かめた。
「火が広がっただけじゃ、面白くないだろ」
背後からレイナが覗き込んだ。先ほどの的を見て、口の端を上げる。
「俺なら、石が割れるくらいにしてみたいけどな」
「割ったら先生に叱られますわよ」
「だから的があるんじゃないか」
「壊していい的ではありませんわ」
アミが口を挟むと、レイナは肩をすくめた。
「分かってるって。……でも、さっきの音はよかったな」
「音で決めないでよ」
アミは呆れた顔で、欠けた石の粉を少し眺めた。
「それより、あの焦げ跡。灰を混ぜたら染料の色が変わるかな」
「お前も大概だな」
レイナが笑った。
*
召喚のための区画は、的から離れた場所にあった。
ほかの生徒は線の外で待ち、先生だけが少し近くに立つ。
メグは、何もない土の上へ目を落とした。
胸の奥に意識を向ける。
身体の中にあるマナを感じ取り、ゆっくり巡らせる。
召喚は、使い慣れたファイアボールより上位の魔法で、多くのマナが要る。必要な量を練り上げるうちに、肩に力が入り、指の付け根までこわばってきた。
そこで慌てると、前と同じになる。
メグは呼吸を整え、詠唱を始めた。
召喚の力の言葉を、一語ずつ唱えた。
目の前の空気が淡く光った。
地面のすぐ上に、何かの輪郭が浮かぶ。
メグは手を動かしかけた。
光が揺れた。
形になりかけていたものがほどけ、土の上には、また何もなくなった。
指先に残った張りだけが、遅れて消えた。
「……失敗しましたわ」
「最後に、手を直そうとしましたね」
先生が言った。
「形が見えてから、そちらへ気を取られました」
「出てきたように見えて……」
「確かめたい気持ちは分かります。ですが、まだ術の途中です」
メグは頷き、手を下ろした。
休んでから、もう一度試す。
今度は何も形にならなかった。集めたマナが、詠唱の終わりでばらばらに散った感覚がした。
背中に汗が浮いていた。
線の外へ戻ると、レイナが椅子を寄せてくれた。
「ほら、座っとけ。倒れたら次の術も撃てないぞ」
「ありがとうございます。まだ、もう一度くらいは……」
「その一度の分、先に戻しとけって」
メグは椅子へ座った。
手を膝へ置くと、普段より指が重い。胸の奥へ意識を向けても、朝のように満ちている感じはなかった。
失敗したのだから、何も呼べてはいない。
それでも、使ったマナは戻ってこなかった。
レイナは隣へ腰掛け、水筒の蓋を開けた。
「あれが使える先輩、もっといると思っていましたわ」
メグが言うと、レイナは区画の方を見た。
「まだ一握りだって。練習に入る前の課題も多いしな」
「先輩は、もっと難しい術を練習していらっしゃるでしょう?」
「俺も何とか形になるくらいだよ。失敗した日は、帰ってからも眠いしな」
少し離れた卓で、アミが自分の記録へ大きく線を引いていた。
「今日は眠くならないようにしたいな」
アミの声に、レイナが顔を向けた。
「それ、昨日も言ってたぞ」
アミは記録の紙から顔を上げ、苦笑した。
「昨日は、だめだったから。花の色を調べようと思ってたのに、机で寝ちゃった」
メグは笑い、水をひと口飲んだ。
休憩の間、実技場の窓から風が入った。紙の角が持ち上がり、レイナが近くの文鎮を載せる。
メグは目を閉じた。
急いで戻そうとするのをやめ、呼吸に合わせて、身体の内側が落ち着くのを待った。
その時、召喚区画の向こうから朗々とした声が響いた。
「深淵に眠りし獣よ、我が呼び声に応え――!」
「ソータ先輩、召喚の前口上は術式に入ってませんよ」
レイナが声を掛けると、ソータは胸を張った。
「心得ている! これは我が魂を奮い立たせるための儀式だ!」
「じゃあ俺も。深淵より来たれ、最強の――」
「レイナ先輩まで!」
メグが思わず振り向いた。
その横で、金髪の縦ロールが揺れる。
「おーっほっほっほ! それほどの召喚なら、わたくしも負けていられませんわ!」
「パールさんまで張り合わないでくださいまし!」
「メグさんこそ、今度こそ成功なさるといいですわね?」
パールは余裕たっぷりに笑ったが、メグの顔色を見ると、少し声を落とした。
「……無理はなさらないことですわよ」
「ええ。ありがとうございます」
素直に礼を言われ、パールは一瞬言葉に詰まった。
「べ、別に心配などしておりませんわ!」
アミは足元の草を摘みかけて、先生の視線に気づき、慌てて手を引っ込めた。
「みなさん、始めるのは正規の詠唱からですよ」
サヴィル先生の一言で、実技場にようやく静けさが戻った。
次に線へ立った時は、さっきより手が軽かった。
身体の中のマナを確かめ、腕や指先まで巡らせる。肩の力を抜いてから、召喚に必要な量を練った。
光が集まっても、そちらを覗き込まない。
詠唱の終わりまで、手を向けたまま待った。
土の上へ、薄茶色の足が下りた。
長い耳が立つ。
一匹の兎が、メグの前にいた。
鼻を動かしてから、前足を揃えて座った。
「……出ましたわ」
声にすると、ようやく息が抜けた。
隣の区画にいた生徒がこちらを振り返った。線の外から、アミが小さく手を振る。
「やりましたわね、メグさん!」
パールが一歩踏み出し、すぐに咳払いした。
「こほん。まあ、わたくしならもっと立派な獣を呼びますけれど!」
「兎だと、敵を噛み砕くのは難しそうだな」
ソータが真剣な顔で呟く。
「先輩、何と戦わせるつもりですか」
レイナは笑いながらも、兎の小さな前足を見た。
「でも、もっと大きいのを呼べたら面白そうだな。迫力あるやつ」
「まずは、ちゃんと呼べることが大切ですわ」
メグが答えると、パールは兎の前にしゃがみこんだ。
「……耳は、なかなか可愛らしいですわね」
兎が鼻をひくつかせる。
「まあ!」
パールが笑顔になったところへ、アミが覗き込んだ。
「その子、草を食べるかな。あそこの葉、さっきから気になってて」
「アミ先輩、また植物ですの?」
「だって、葉の裏がちょっと紫色なんだよ。染め物に使えそうでしょ?」
レイナが吹き出した。
「召喚獣より草かよ!」
先生は兎を確かめ、メグへ頷いた。
「今は、最後まで保てましたね」
メグも頷こうとした。
けれど、その前に大きく息を吐いた。膝が頼りなくなり、立つ位置を少し直す。
「先生。次は、休んでからにしますわ」
「ええ。今日は十分休んで、それから記録を書きましょう」
メグはもう一度、兎を見た。
兎は土を嗅いでいた。
あれほど苦労して呼んだのに、こちらの顔は少しも見てくれなかった。
*
「うさぎやったん?」
午後の庭で、まめこは椅子から身を乗り出した。
「ええ。薄茶色の、小さな兎ですわ」
「ベリーみたいな?」
「もっと小さな、普通の兎です」
「耳、長かった?」
「長かったですわよ」
「見たかったなあ」
まめこは、メグの足元を見た。
そこには兎の代わりに、トロがいた。椅子の脚へ身体を寄せ、尻尾の先だけを動かしている。
「もう帰ったん?」
「召喚した生き物は、ずっとここにいるわけではありませんの」
「また呼んで」
メグは困ったように笑った。
「今日は、お休みさせてくださいまし」
「まだ、マナないん?」
「だいぶ戻りましたけれど、すっかり疲れてしまいましたわ。何度も続けるのは、まだ難しいですの」
「ほな、うさぎは今度でええで」
まめこは椅子へ座り直した。
菜園の端には、抜いた草を入れる籠が置いてあった。マリーは花壇の枯れた花を摘み、時々こちらを見ている。
木陰は涼しかった。
メグは机に魔法の本を置いたが、まだ開かなかった。
「では、両手を膝の上へ」
まめこは言われたとおりにした。
「ぎゅっと握らず、楽にしていてくださいまし」
指をひらく。
何かを出すと思うと、つい手を握りたくなる。開いたままでは、全部こぼれてしまいそうだった。
「これでええの?」
「ええ。肩も下ろして」
メグは自分の肩を少し動かした。
まめこも真似をする。
「まず、自分の身体の中へ、気持ちを向けてみましょう。わたくしの時は、胸の奥や、お腹の辺りから探しましたわ」
「お腹?」
「ええ。ただし、同じように感じるとは限りませんのよ」
まめこは目を閉じた。
お腹の中へ気持ちを向ける。
しばらくすると、昼に食べたパンを思い出した。
その次に、卵を思い出した。
「……お昼ご飯しか分からへん」
メグが、口元へ手を添えた。
「少し、場所を変えてみましょうか」
「胸の方?」
「そうですわね」
今度は胸へ気持ちを向けた。
息を吸うと、そこが膨らむ。
吐くと、戻る。
それを何度か繰り返していると、庭の音がよく聞こえた。葉が擦れ、マリーの籠へ何かが落ちる。トロが椅子の下で身体を舐めていた。
まめこは片目を開けた。
「トロ、めっちゃ音するで」
「気になる?」
「ちょっと」
メグが椅子の下を覗いた。
トロは後ろ足を上げたまま、こちらを見た。
「トロ。少しだけ、静かにしてくださる?」
「ん」
足が下りた。
トロは立ち上がり、まめこの膝へ跳び乗った。
「場所変えただけやん」
黒い身体が、開いていた両手の間へ収まる。
トロはそこで丸くなった。
「……まあ、そこでも大丈夫ですわ」
「重いで」
「嫌なら、下ろしてもいいですわよ」
まめこは少し考え、トロの背中へ手を載せた。
「ここでええわ」
毛の下は温かかった。
ゆっくり上下する背中に手を置いていると、自分の息も少し遅くなった。
メグは、しばらく何も言わなかった。
まめこも、何かを探そうとするのを少し休んだ。
*
マリーが飲み物を持ってきた頃、まめこはまだヒールを使えなかった。
手から光が出ることもなかった。
それでも、前にメグが唱えていたヒールの力の言葉を、今日はゆっくり教えてもらえた。
「Arie Fiana」
メグが、ゆっくり唱えた。
「アリエ、フィアナ」
まめこも繰り返す。
「マナを感じられたら、次は身体の中を巡らせる練習ですわ。それから、魔法に使う分を練りますの」
メグは、開いた手のひらを見せた。
「用意ができてから唱えて、治したいところへ向けます。今日は、最初の練習だけですわ」
「言うたら治るんと違うんやな」
「ええ。今は、言葉を覚えたところです」
まめこは頷いた。
机の本を開くと、メグはヒールのページを見せてくれた。小さな文字が幾つも並んでいる。
「これ、全部読むん?」
「いずれは。今日は、ここまでにしましょう」
「メグ、これ全部覚えてる?」
「忘れて、読み直すところもありますわ」
メグは鞄から、今日の記録を取り出した。
失敗したところには、短い文が幾つも書いてあった。最後の欄には、兎の耳らしいものが添えられている。
「耳、描いたん?」
「ほかを描く元気が、ありませんでしたの」
「顔も描いたげよか」
「では、こちらの空いたところへ」
まめこは鉛筆を借りた。
耳の下へ丸い顔を足し、目を二つ描く。鼻を描く場所が狭くなったので、口と一緒に、下の方へ押し込んだ。
何だか、頬の大きな兎になった。
「こんなんやった?」
「もう少し、細い顔でしたわね」
「ほな、よう食べたあとや」
マリーが杯を置きながら笑った。
「召喚されて、まずお食事をしたのでしょうか」
「草、あったん?」
「実技場には、ほとんどありませんわ」
「かわいそうに」
まめこは兎の口の横へ、草を一本描き足した。
メグは紙を持ち上げて、少し遠くから見た。
「今度の記録は、ずいぶん賑やかになりましたわね」
「失敗したとこ、隠してへんで」
「ええ。ちゃんと読めます」
トロがまめこの膝で伸びをした。
前足が机の縁へ届きそうになり、まめこは杯を少し遠ざけた。
「あんたも、今日ずっと休んでたな」
「ニャ」
「わたし、明日も練習するで」
メグは本を閉じた。
「では、明日も少しずつ」
「メグは、またうさぎ?」
「次は、同じところで失敗しないようにしたいですわね」
まめこは記録の兎へ目を落とした。
「草、用意しとこか」
「呼べるかどうか、まだ分かりませんわよ」
「余ったら、庭に置いといたらええやん」
メグは笑いながら、紙を鞄へ戻した。
まめこはトロの背中を撫でた。
マナはまだ、よく分からなかった。
けれど、力を込めていた指は、いつの間にか楽にひらいていた。
庭の端で、マリーが椅子を一つ寄せた。
お茶が冷めるまで、三人とも、もう少しそこに座っていることにした。
アイリス「出番まだクマー?」




