第十六話 花を置く場所
花を二つに分けると、片方だけ少し大きくなった。
まめこは卓の上に並べた束を見比べ、白い花を一本抜いた。小さい方へ足すと、今度はそちらが長く飛び出した。
「こっち、背え高いな」
「茎の下を揃えてみてください」
マリーが、花の先を押さえないように持ち直してくれた。
庭の隅で咲いていた秋の花だった。白いものと、薄い紫のもの。朝のうちに切った茎を、濡らした布で包んである。
まめこはそれぞれに紐を巻いた。一つ目はうまく結べたが、二つ目は輪を引いた途端にほどけた。
「また逃げた」
「こちらを、もう少し長く残しましょうか」
マリーの指を見ながら、もう一度結ぶ。
今度は、手を離してもほどけなかった。
窓際で待っていたメグが、花を覗いた。
「用意はできました?」
「あい。二人の分」
メグは頷き、卓の端に置いていた帽子を取った。
今日は、父と母のお墓へ行く。
ユタとはなこ、という名前を、まめこは知っていた。父は農園で働いていたこと。母は剣を使う人だったこと。二人とも、もう生きてはいないこと。
メグが、これまでに話してくれた。
けれど、父の声も、母の顔も、自分では思い出せなかった。
お父さん、と口にしても、誰かが振り向くところは浮かばない。お母さん、と呼んだことがあるはずなのに、そのときの自分の声も分からなかった。
まめこは二つの花束を持ち上げた。
「お墓で、何言うたらええん?」
「最近のことなど、いかがかしら」
「茄子のこと?」
「ええ。キノコのことでも、学校のことでも」
まめこは少し考えた。
「どろぼうのことも?」
メグの手が、帽子の縁で止まった。
「……最後まで、お話ししてくださいね。ちゃんと戻ってきたところまで」
「うさぎの人が、返してくれたん」
「それだけですと、少し分かりにくいですわね」
マリーが花を籠へ収めた。揺れても傷まないよう、両脇へ布を詰める。
その下には、掃除に使う布と、小さな手桶も入っていた。
トロは玄関に座っていた。
まめこが近づくと、顔を上げる。
「トロも行こな」
「ニャ」
外へ出る前に、まめこは鞄の口を確かめた。
巾着は家へ置いていく。それでも留め具を一度引っ張り、外れないのを見てから、メグの隣へ並んだ。
*
墓地へ向かう道には、陽がよく当たっていた。
石塀の手前で、マリーが籠を持ち替える。まめこはメグの手を握り、門の向こうを見た。
思っていたより、木が多かった。
枝の間から光が差し、並んだ石の上に葉の影が動いている。道の脇では、一人の老人が落ち葉を掃いていた。少し先に、水を入れた桶を運ぶ女の人も見えた。
門の近くに立っていたガードが、メグへ会釈した。
「お参りですか」
「ええ。昼のうちに戻りますわ」
「奥へ行かれる際も、道から外れないように。何かありましたら、お呼びください」
まめこはその腰の剣を見た。
ガードは視線に気づき、少し膝を曲げた。
「一緒の方から、離れないでね」
「あい」
握った手を、少し持ち上げて見せた。
墓地へは、暗くなってから来てはいけない。
それも、前に教えてもらっていた。昼間は人が来て、手入れやお参りをしているが、夜は危ないのだという。
まめこは門の内側へ入った。
砂利が靴の下で鳴る。
トロはマリーの足元を歩き、道の端に積もった葉へ鼻を寄せた。葉がかさりと動くと、片耳だけそちらへ向ける。
「虫おるん?」
トロは答えず、また歩き出した。
通りの荷車の音が遠くなった。代わりに、箒の擦れる音と、木の上で鳴く鳥の声が聞こえた。
メグは分かれ道で足を止めず、右へ曲がった。
「場所、覚えてるんやな」
「ええ」
短く答えてから、歩幅を少し小さくした。
「こちらですわ」
並んだ二つの墓石の前で、メグが立ち止まった。
まめこも、隣で足を揃えた。
*
石に、名前が刻まれていた。
まめこは一つ目の文字を目で追った。
「ユタ」
次の石を見る。
「はなこ」
「ええ」
メグが、そばへしゃがんだ。
「お父様と、お母様ですわ」
まめこは二つの名前をもう一度読んだ。
学校の机に書いてある友達の名前とは、違っていた。名前はあるのに、その持ち主はここで返事をしない。
墓石の下に、細い草が生えていた。
マリーが籠を置き、手桶を持って水場へ向かった。メグは石の前に落ちていた葉を拾った。
まめこもしゃがみ、草へ手を伸ばす。
「これ、抜いてええ?」
「ええ。指を切らないように」
根元をつまんで引くと、途中で切れた。
短い葉だけが、手に残った。
「あかん。残った」
メグが隣の草を持った。
「もう少し下を持って、ゆっくり」
まめこは土の近くへ指を入れた。今度は、細い根が一緒に出てきた。
「取れたで」
「ええ。そちらへ集めましょう」
取った草と落ち葉を、小さくまとめた。
マリーが水を持って戻ると、三人で布を濡らした。まめこには、よく絞った小さい布が渡された。
文字のあるところを拭いてみる。
溝に布が引っかかり、まめこは手を止めた。指先でそっと押さえて動かすと、石の色が少し濃くなった。
ユタ、という名前を拭き終えてから、はなこ、の方へ移る。
メグは石の上の方を拭いていた。普段の菜園の手入れと似ていたが、今日は、作業の合間にもあまり話さなかった。
まめこは布を桶へ戻した。
「メグ、よく来るん?」
「折を見て。しばらく空いてしまうことも、ありますけれど」
「わたし、おらん時も?」
「ええ」
メグは布を絞った。
落ちた水が、桶の表で小さく跳ねた。
「あなたのことを、お話ししに」
まめこは、籠の花を見た。
茄子も、キノコも、もう知っているかもしれなかった。
*
マリーが二つの花束を出した。
まめこは大きい方を取ってから、もう一つと見比べた。
「どっち、お父さんのにしよ」
「お好きな方で、よろしいと思いますよ」
白い花が多い方を、ユタの墓前へ置いた。
紫の花が少し多い方は、はなこの前へ。
紐の輪が下へ入ってしまったので、そっと持ち上げて直した。花の先が石に押されないよう、少し手前へ引く。
トロはその横へ座った。
黒い尻尾を足に巻き、二つの石の方を向いていた。
メグが帽子を取った。
まめこも背筋を伸ばし、手を膝の前で重ねた。メグとマリーが静かに目を閉じるので、自分もそうしてみた。
風が頬へ当たった。
耳の先が、少し動いた。
何を考えたらいいのか分からず、まめこは目を開けた。
二人はまだ、目を閉じていた。
待っていると、メグが顔を上げた。
「お話ししてみます?」
まめこは石の名前を見た。
「……こんにちは」
自分の声が、いつもより小さかった。
「まめこです」
そこまで言って、メグを見た。
「知ってるかな」
「きっと」
メグは、まめこの隣にしゃがんだまま答えた。
まめこは石へ向き直った。
「学校、行ってるで。歌も習ってるん。長いとこ、前より歌えるようになった」
鳥が一声鳴いた。
「まだ、途中で息なくなる時あるけど」
指を組み直した。
「あと、茄子売った。わたしだけちゃうで。メグの畑のやつ。マリーも一緒に持っていったん」
言いながら、話す順番を考えた。
茄子のあとにキノコがあった。そのあと、お金を取られた。
「キノコも売ったで。知らんキノコは採ったらあかんねん。マリーが知ってるのだけ」
マリーは少し離れたところで、空になった籠を整えていた。
「お金、どろぼうに取られたけど、返ってきた」
メグの袖が、隣で少し動いた。
「チェリーとベリーが、捕まえてくれたん。めっちゃ速かったんやって。わたし、走ってるとこは見てへんけど」
まめこは自分の鞄へ触れた。
「次から、お金しまってから外へ出る」
それを言うと、話が一つ終わった気がした。
墓石の前の紫の花が、風で揺れた。
「お屋敷も行ったで。お部屋、いっぱいあった。絵、描いて送ったん」
まめこは少し顔を傾けた。
「お父さんとお母さんにも、絵、描いたらええかな」
「ええ」
メグが花を見た。
「今度、見せて差し上げましょう」
「雨で濡れるで」
「その日は、持って帰ってもよろしいのではなくて?」
「そっか。見せるだけな」
まめこは頷いた。
それから、少し黙った。
もっと話せることがある気がしたが、うまく続かなかった。石の文字を見ても、話を聞いてくれている顔は浮かばない。
まめこは指の先についた土を見た。
「……思い出せへんの、言うた方がええ?」
メグはすぐには答えなかった。
まめこの手へ目を落としてから、顔を見た。
「言いたければ」
「怒らへんかな」
「怒りませんわ」
今度は、間を置かなかった。
まめこは二つの墓石へ顔を向けた。
「顔、まだ分からへんねん」
声が、少し詰まった。
泣きたいのとは違った。次の言葉を、どこから出せばいいか迷った。
「でも、名前は覚えたで。ユタと、はなこ」
自分の言った名前を、石の上で確かめた。
「今日、花、持ってきた。こっちの紐は、わたし一人で結んだん」
白い花の束を指した。
「こっちは、ちょっと手伝ってもろた」
紫の方にも指を向ける。
メグは隣で聞いていた。
途中で言葉を足さず、まめこがもう一度手を膝へ戻すまで、待ってくれた。
*
メグも、墓前へ向き直った。
「ユタさん。はなこさん」
帽子を持つ指に、少し力が入った。
「まめこは、毎朝よく起きて、学校へ通っていますわ。帰ってくると、教室であったことを聞かせてくれます」
まめこは横顔を見た。
「菜園へ出ると、わたくしより先に実を見つけることもありますの。数える方は、まだ少し……」
「葉っぱで隠れるからやで」
「ええ。そうでしたわね」
メグの口元が、少し緩んだ。
「マリーも、よく見てくれています。父と母も、次に会える日を楽しみにしていますわ」
そこで一度、言葉が途切れた。
メグは墓石の名前を見ていた。
まめこは、膝の上で空いている方の手へ、自分の手を重ねた。
メグがこちらを向いた。
「わたし、ちゃんとご飯食べてるで」
石に向かって言い足す。
「おかわりもする」
「それは、よく存じていますわ」
「お父さんら、知らんかもしれへんやん」
「……そうですわね」
メグが手を返し、まめこの指をそっと握った。
マリーも花の前へ膝をついた。
「はなこさんに教えていただいたご飯、今も炊いています。まめこは、いつもおかわりしてくれるんですよ」
まめこはマリーを見た。
「マリーのご飯、お母さんに教えてもろたん?」
「ええ。お米の炊き方も、おにぎりの握り方も」
マリーはまめこへ微笑んでから、はなこの墓石へ目を戻した。
「これからも、大事にお世話いたします」
頭を下げると、群青色の髪が肩から滑った。
トロが立ち上がり、まめこの膝へ額を寄せた。
「トロもおるで」
黒い背中を撫でる。
「ニャ」
短い声が、墓石の前で聞こえた。
*
帰り支度をする前に、まめこは花の位置をもう一度直した。
白い方だけ、少し横へずれていた。
マリーが手桶の水を片づけに行き、メグは道の脇で待っていた。トロが靴のそばへ戻ってくる。
まめこは立ち上がった。
「また来るで」
今度は、最初より声が出た。
「次、絵、持ってくる。何描くか、まだ決めてへんけど」
返事はなかった。
それでも、言い終わるまでそこに立っていた。
メグの方へ戻ると、手が差し出された。
まめこはその手を取った。
門へ向かう途中で、箒を持った老人が道を空けてくれた。来たときには散っていた葉が、木の根元へ集められている。
まめこはその横を通り、石塀の外の明るい道を見た。
「メグ」
「はい」
「わたしが、今のおうち来た時のこと、また聞いてええ?」
握っていた手が、ほんの少し動いた。
「ええ。何が知りたいのかしら」
「メグが見つけてくれたあと。どうやって、あそこに住むことになったん?」
メグは歩きながら、まめこの顔を見た。
門の外では、荷車の車輪が道の石を鳴らしていた。
「……少し長いお話になりますわ」
「長くてもええで」
「では、家へ帰ってからにしましょう」
「あい」
マリーが、空になった籠を腕へ掛け直した。
門のガードへ挨拶をして、三人と一匹は墓地を出た。
まめこは一度だけ振り返った。
道が曲がっていて、二つのお墓はもう見えなかった。
けれど、右へ曲がったところだと、今日は自分でも分かっていた。
メグの手を握り直し、家へ続く道を歩いた。
ユタ「お供えはお餅がいいな、、」
はなこ「きのこ!きのこかわいいよ!きのこ!」




