第十三話 声と手のあいだ
朝の机に、茄子の札が揺れていた。
まめこは巾着の口を確かめてから、引き出しの奥へ入れた。札だけが縁に引っ掛かったので、指でそっと押し込む。
「今日は、お留守番なん」
足元のトロが顔を上げた。
「あんたもやで」
「ん」
トロは机の脚に頬をこすり、窓際へ歩いていった。
玄関では、メグが鞄の留め具を閉じていた。白いシャツの袖口から、細く巻いた紙の端が出ている。
「それ何?」
「実技の記録ですわ。今日は、こちらも持っていきますの」
「魔法する日?」
「ええ。まめこは?」
「歌。昨日、先生が言うてたで」
マリーが二人の弁当を差し出した。
「では、お二人とも、喉を使う日ですね」
まめこは弁当を鞄へ入れ、メグを見上げた。
「メグも、歌うん?」
「魔法の言葉を唱えますのよ」
「節、ついてる?」
「……歌のようには、ついていませんわね」
まめこは、以前耳にした古代魔法語の出だしを、小さく歌ってみた。
メグが、その先をそっと止めた。
「その続きは、むやみに口にしないでくださいまし」
「わたし、魔法出えへんで」
「それでも、遊びの歌にしてしまうと、あとで覚え直すのが大変ですわ」
まめこは口を閉じた。
代わりに、今日歌うはずの曲を思い出す。出だしを鼻で鳴らしながら靴を履くと、マリーが背中の鞄を少し持ち上げてくれた。
*
四つ角で皆と合流し、途中の分かれ道で、メグと別れた。
学院の窓は、朝の風を入れるために少し開いていた。庭の木には、まだ緑の葉が多い。窓に近い枝の先だけが黄色くなり、揺れるたび、日の当たる面をこちらへ向けた。
まめこがその葉を見ていると、隣のエルナが帳面を寄せてきた。
「昨日のところ、書けた?」
「書いたで」
開いた帳面の隅に、小さな茄子があった。
「これは?」
「それは、勉強と違うとこ」
まめこは腕で絵を隠した。隠すと、昨日書いた文字も見えなくなった。
エルナが笑いながら、自分の帳面を横へ並べた。
ローザ先生が黒板に書いた短い文章を、二人で一つずつ確かめる。まめこの帳面には、文章の横に小さな茄子の絵が描かれていた。そのせいで、最後の文字が行の下へはみ出している。
「こっちへ、もうちょっと寄せたら入るよ」
「茄子、先に描いてもうたんや」
「先に描いたんだ」
まめこは茄子のない次の行へ移り、今度は端から丁寧に書き始めた。
音楽の時間、フィオナ先生が新しい歌を教えてくれた。
畑と木の実が出てくる、明るい歌だった。
「それでは、一度歌ってみましょう」
先生の合図で、子どもたちが歌い始めた。
まめこもすぐに声を合わせた。初めての歌だったが、旋律はすぐに覚えられた。
一度歌い終えると、ルカが隣から顔を向けた。
「まめこ、もう覚えたのか?」
「うん。ええ歌やなぁ」
「俺、途中がまだ分かんない」
「ほな、もう一回やな!」
フィオナ先生が手を叩いた。
「では、今度はみんなで声を揃えてみましょう」
二度目の歌が始まった。
まめこはエルナやルカの声を聞きながら、楽しそうに歌った。
最後の音が終わると、教室のあちこちから笑顔がこぼれた。
*
ライセィムの実技場では、午後の授業が始まろうとしていた。
砂地には木製の的が並び、その脇の台には練習用の魔法スクロールが用意されていた。メグがレイナと並んで歩いていると、ひときわ大きな声が聞こえてきた。
「まあ。そこはもう少し、指先をお揃えになった方がよろしいですわ」
澄んだ声に振り向くと、金髪を左右で縦に巻いた少女が、スクロールを手にした生徒の隣に立っていた。制服の襟元には小さな飾りが留められ、巻き髪は肩の上で綺麗に弾んでいる。
「こうして端を押さえますの。ほら、紙が丸まってしまわないでしょう?」
「あ、ほんとだ。ありがとう」
「お礼には及びませんわ。綺麗な術式を、くしゃくしゃの紙で台無しになさるなんて、もったいないですもの」
少女はにっこり微笑んだ。教えられた生徒が嬉しそうに席を譲ると、彼女は一度遠慮するように手を振った。
「まあ、わたくしが先でよろしいの? では、お言葉に甘えますわね」
ところが台の前へ進んだ途端、少女はちらりとメグを見た。目が合うと、すぐに顎を上げる。
「おーっほっほっほ! ちょうどよろしいですわ。メグ、そちらからもご覧になって!」
「ええ。拝見いたしますわ」
「ふふっ。今日は、いつもより少し難しいものを選びましたの。わたくし、簡単なことばかりでは退屈してしまいますもの」
少女は台に並んだスクロールから一枚を選んだ。巻き癖の残る端を指で押さえ、書き込まれた術式を丁寧に確かめる。先ほどまで弾んでいた声も、ここではぴたりと止まった。
レイナが横から覗こうとすると、少女は紙を少し持ち上げた。
「まあ、レイナ先輩。そんなに近くでは、わたくしの手元が見えませんでしょう?」
「いや、見えるけど?」
「そうではなくて! もう少し離れてご覧になった方が、優雅ですわ!」
「見るのに優雅さが要るのかよ」
レイナが笑うと、少女は頬をわずかに膨らませた。それでもスクロールを持ち直すと、背筋を伸ばして的へ向き直る。
「それでは、ご覧あそばせ!」
短い詠唱が終わると、的の表面に淡い光が走り、中央にくっきりと魔法の痕が残った。少女は嬉しそうに目を輝かせたが、すぐに口元へ手を添え、何事もなかったようにスクロールを畳んだ。
「お見事ですわ」
メグが拍手すると、少女の縦ロールがぴょんと揺れた。
「ま、まあ! そこまで褒めていただかなくてもよろしくてよ?」
「まだ一言しか申し上げておりませんけれど」
「そ、それでも十分ですわ! ……ですが、メグ。これで勝ったと思わないでくださいまし。次の試験では、このパールが必ず上を行きますわ!」
「まだ試験も始まっておりませんわよ」
「だからこそ、今から宣言しておくのです!」
レイナがメグの耳元で笑った。
「今日も張り切ってんな、パール」
「聞こえていますわよ、レイナ先輩!」
サヴィル先生が手を叩き、生徒たちを的の前へ集めた。実技の組には、メグたちと同じ学年だけでなく、年上の生徒もいる。今日はスクロールの扱いを確認したあと、各自の魔法を的に放つことになっていた。
順番を待つ列の先で、赤い上着の男子生徒がゆっくりと片手を掲げた。少し年上の彼は、的を見据えたまま、もう片方の手で大げさに外套の裾を払う。
「深紅の炎よ! 我が魂に眠る破滅の力を解き放て!」
周囲が静かになった。男子生徒はその静けさを満足そうに受け止め、赤い袖を翻してもう一歩前へ出た。的はまだ無傷のままだ。
「闇を裂き、運命を貫く一閃よ……!」
近くの生徒が詠唱の続きを待っていると、彼は目を閉じ、さらに声を低くした。レイナはメグの横で口元を押さえ、笑いをこらえている。
「……まだ正式な詠唱に入ってませんわね」
メグが小声で言うと、レイナは口元を押さえた。
「ソータ先輩、今日も長いって!」
「静かにしろ、レイナ。今こそ力を解放する時だ!」
ソータは胸に手を当て、なおも的を睨んでいる。レイナはその横顔を見て、にやりと笑った。
「へえ。じゃあ、俺もやってやるか」
レイナは一歩前へ出ると、ソータと同じように片手を高く掲げた。
「漆黒の闇よ! 俺に最強の力を授けたまえ!」
「……レイナ、お前にも分かるのか。この力が」
「おう、もちろん!」
レイナは大真面目な顔を作ったが、口元が緩むのを隠しきれていない。
「先輩、俺の中にもすげえ力が眠ってる気がしてきたぜ!」
「やはりそうか……。お前も選ばれし者だったとはな」
「ふっ、今まで隠してたんだよ」
メグは額に手を当てた。
「レイナ先輩まで、何をなさっているんですの……」
そのやり取りを聞いていた金髪の少女が、つかつかと二人の前に出た。
「おーっほっほっほ! その程度で最強を名乗るなんて、笑わせてくださいますわ!」
「なんだと?」
「真紅の薔薇よ! 気高き我が血に宿る、究極の魔力を――!」
少女は胸元に手を添え、縦ロールを揺らして堂々と顎を上げた。
「ぶっ! パールまでやんのかよ!?」
「当然ですわ! このパールが負けるわけにはまいりませんもの!」
メグは三人を見渡した。
「……皆さん、いつになったら魔法を撃つんですの?」
「まだ力を解放していない!」
「よし、もう一回最初からだ!」
「わたくしの方が壮大な詠唱を披露してみせますわ!」
「普通に詠唱なさってくださいまし!!」
実技場に笑い声が広がった。
「そこまでです」
サヴィル先生が三人の前に立っていた。
「前口上は採点しません。魔法を使うなら、正しい手順でお願いします」
「先生、あれは前口上ではなく――」
「ソータ。まず的に向かいなさい」
「……はい」
ソータはようやく構え直した。今度は余計な言葉を挟まず、正式な三節の詠唱を唱える。放たれた魔法の矢は的の中央を打ち、乾いた音を立てた。
「おお、やるじゃん先輩!」
レイナが手を叩く。
「ふっ。これが真の力だ」
「よし、次は俺だ! 威力なら負けねえぞ!」
レイナは的へ向き直った。先ほどまでのふざけた顔が消え、詠唱を始める。炎が的に当たると、ソータがすかさず身を乗り出した。
「今のは悪くない。だが俺の方が――」
「焦げ跡の大きさで決めないでくださいまし」
メグが言うと、レイナは笑い、ソータは不満そうに腕を組んだ。
「では、次はわたくしですわ!」
パールが一歩前へ出る。
「メグ、よく見ていてくださいまし!」
「ええ。ちゃんと見ていますわよ」
パールは嬉しそうに背筋を伸ばし、今度こそ余計な前口上なしで詠唱を始めた。
授業が終わる頃には、的にいくつもの魔法の痕が残っていた。レイナとソータはまだどちらの威力が上か言い合っている。
「メグ、次は絶対に負けませんわよ!」
「はいはい。次も楽しみにしていますわ」
「二度も『はい』と言わないでくださいまし!」
メグは笑いながら鞄を取りに戻った。今日の実技の記録には、詠唱の前に長い言葉を並べても、魔法の威力は変わらないと書いておこうと思った。
*
夕方、まめこは居間の椅子に座り、歌の帳面を開いていた。
そこへメグが帰ってきた。
「おかえり! 今日な、新しい歌覚えたで」
「まあ。あとで聞かせてくださいまし」
「メグ、先に手ぇ洗わな」
台所の方で、マリーが笑った。
メグは手を洗って戻り、まめこの隣に腰掛けた。
「では、お願いしますわ」
まめこは立ち上がって歌った。畑と木の実が出てくる、明るい歌だ。トロが椅子の下から顔を出し、最後までじっと聞いていた。
「どうやった?」
「とても上手でしたわ!」
「えへへ」
メグが拍手すると、まめこは嬉しそうに椅子へ戻った。
「メグは今日、何したん?」
「それが……今日は実技の前に、ずいぶん長いお話がありましたの」
「先生のお話?」
「いいえ。ソータ先輩が魔法を使う前に、難しい言葉をたくさん唱え始めまして」
「魔法の言葉なん?」
「それが、正式な詠唱ではありませんのよ」
メグが片手を掲げて、先輩の大げさな仕草を真似してみせた。
「深紅の炎よ、我が魂に眠る……」
「わあ、かっこええ!」
「まめこまで!」
メグが笑うと、まめこも声を上げて笑った。
「それでな、レイナは?」
「面白がって真似を始めましたの。そうしたらパールまで張り合い始めて……」
「パールも?」
「ええ。結局、先生に止められましたわ」
まめこは目を輝かせた。
「わたしも聞いてみたいなぁ」
「聞くだけにしてくださいまし。魔法の練習では、ちゃんとした詠唱を覚えるんですのよ」
「はーい」
トロが二人の間に跳び乗った。まめこが片手を掲げると、トロはその指先をじっと見つめた。
「深紅の……ええと、なんやったっけ?」
「もう忘れたんですの?」
二人が笑うと、トロは小さく鳴いて、まめこの膝に丸くなった。
パール「メグさん?」
めぐ「何のことかさっぱりですわ!おーっほっほっほ!うほっほ」




