異界
村を出た私とカインが闇沼の森に戻ったのは、日が傾く頃だった。雪の中に隠しておいたソリを引っ張り出し、行きと同様に雪のトナカイを作る。ソリに荷物を積み込んで私達も乗った。
日が落ちる前には戻りたい。魔物や魔獣の活動が活発になるからだ。それは、魔物の魔力は闇の属性が強いからだと母様が話していた。魔力にはいくつか性質がある。それによって、得意な魔法、使える魔法が変わってくるのだ。精霊は反対に光の属性を好む。もちろん、闇の属性の方を好む精霊もいるけれど、そうしたものはどちらかというと魔物に近い。
闇の属性が強いと、光を嫌い夜を好む。だから、魔物や魔獣は暗闇に潜み、夜に姿を見せる。
村の子供たちが、日が落ちてからは家から出るなと言われるのはそのためだ。夜の闇に紛れた魔物のかっこうの餌食になる。だから、夜は怖い。
特に、この闇沼の森は魔物が多い。それに、空が灰色の雲に覆われ、雪が舞い始めていた。この分だと、また吹雪になりそうだ。私は雪のトナカイを急がせる。
「帰ったら、すぐに夕食を作らなきゃ」
お昼は硬いパン一つを半分に分けて食べただけだ。村で燻製肉と卵、牛乳を手に入れた。今日はその新鮮な卵を使ってなにか作ろう。何がいいだろう。手綱を握ったまま、私はぼんやり夕食のメニューを思い浮かべる。ジャガイモをたっぷり入れたオムレツにしようか。それともポーチドエッグの方がいいだろうか。
そんな事を考えていると、「キャロル、何か変だ」とカインが不安げに私の袖を引っ張る。魔物が持つ特有の瘴気が広がり始めていた。いっそう強くなった風の音にまじり、獣の唸る声が微かに聞こえる。森の木々の陰から赤く輝く目が覗いていた。
「カイン、しっかり捕まってて……!」
私は前を向いて、手綱を強く打つ。雪のトナカイは速度を上げて走り出した。
振り返ると、黒い獣の陰が姿を現す。犬に似た姿だけれど、それよりもずっと大きい。血に飢えたような赤い瞳が不気味に輝いていた。私の顔くらい踏み潰せそうなほど大きな足に、鋭い爪が伸びていている。死体を食い荒らす死霊犬。それも一頭や二頭ではない。あれは、群れで現れる。
あちこちから獰猛な唸り声が聞こえてきて、私達の乗るソリを追ってくる。あっという間に追いつかれそうだ。カインは初めて見る魔物にすっかり青ざめてしまっていた。
「カイン!」
私が強く呼ぶと、カインがハッとする。
「村で使った道を凍らせる魔法、今使える!?」
「わ、分からないけど……やってみる」
両手を前に出したカインは、魔力をその手に集中させるように目を閉じた。焦っているせいか上手くいかないようで、魔力はすぐに拡散して氷の粒となって散ってしまっていた。それはそうだ。カインは魔力制御すらもまだちゃんとは習っていない。無意識でやった事を再現するのは難しい。
「カイン、落ち着いて。大丈夫。できるから」
私はカインの腕をつかむ。振り返ると、死霊犬がすぐ側まで迫っていた。そのうちの一頭が飛びかかってくる。カインは前を向くと、もう一度手に魔力を込める。「凍れ、凍れ、凍れっ!!」と口で何度も唱えていた。その瞬間、氷の道が目の前にできた。ソリはその氷を滑るように走り、死霊犬を引き離していく。「出来た!」と、カインが拳を握る。
追ってくる死霊犬に向かって、私は「氷壁!」と唱えた。雪の中から氷の壁が突き出すと、阻まれた死霊犬が激突していた。他の死霊犬たちが、倒れた仲間に食らいついているのが見える。真っ白な雪が赤く染まっていく。その姿が遠ざかっていくのを見て、私もカインも力が抜けたようにペタンとソリの腰掛けに座る。
氷の道を滑るように進むソリの先に、ようやく塔の尖塔が見えてきた。
「なんとかなったね……」
「こ、怖かった……」
私とカインは呟くように言って、深く息を吐きながらお互いにもたれ掛かった。
カインの魔法がなければ、きっと追いつかれて大変な目に遭っていただろう。
「カイン、すごいよ。おかげで、命拾いしたんだから」
私が笑って言うと、カインは少しびっくりしたような顔をしてから恥ずかしそうに視線を逸らす。
きっと、あまり褒められなれていないのだろう。でも、口元には嬉しそうな笑みが滲んでいた。
◇◇◇
その日の夜、私は居間で縫い物をしていた。暖炉にはしっかり薪を焼べているから、部屋の中は暖かい。今日買ってきた布を裁断し、カインのマントを作る。部屋の隅に置いてある足踏みミシンは、母様がどこからか持ってきたものだ。かなり使い古されているけれど十分に使える代物だ。
「それ、何?」
ソファーに腰を掛けて温めたミルクを飲んでいたカインが、不思議そうな顔をして訊く。
「ミシンだよ。布を早く綺麗に縫えるの。すごく便利だよ」
私はマントの縁をミシンでカタカタと縫いながら答えた。
「そんなものがあるなんて、知らなかった……」
「そうだね。私も他に見た事ないよ? ほら、異界文字がここにも書いてある」
私はミシンを踏むのをやめて、金属のプレートに刻まれている文字を指差す。そばにやってきたカインはまじまじと見てから、「異界文字ってどこで使われるんだろう?」と首を傾げる。
「僕、王宮の図書室でたくさん本を読んだけれど、異界文字なんて見たことない……古代語の本はあったけれど、これとは違う文字だった……」
「そうなの?」
「うん……」
異界文字だと教えてくれたのは母様だ。
このミシンも異界文字で書かれている本も、母様が時折持って帰ってくる珍しい物も、たぶん――ここではない別の世界の物だ。これは、きっとあまり人には話さない方がいい事なのだろう。カインにも、打ち明けていいのかどうか分からない。
この闇沼の森には、古い遺跡があり、その中は迷宮となっている。いわゆるダンジョンと呼ばれるものだ。そのダンジョンに、母様は入った事があるらしい。その時の記録を残していた。それを少しだけ読んだ事がある。それによると、ダンジョンの最下層には扉があり、その扉は〝異界〟へと通じているそうだ。
母様はたぶん、その異界に行った事がある。このミシンも、異界文字の不思議な本もそちらの世界にあるものなのだろう。そして、私の父様は――たぶんだけど、異界の人間だ。
なぜ、そう思うかと言うと、母様の部屋に本物そっくりの色つきの絵が飾られていたから。母様はそれが〝写真〟というものだと教えてくれた。その写真に写っているのは、見知らぬ男の人と母様だ。男の人は金色と黒色の混ざる変な髪色をしていて、私が見た事もない格好をしていた。ニカッと笑った男の人は指を二本立てていて、母様の肩を抱き寄せていた。男の人と一緒に写る母様は、頬を赤らめていて恥ずかしそうにちょっと笑っていた。
その人が父様だと、母様に直接聞いたわけじゃない。私は父様の事を何も知らない。母様も教えてくれなかったからだ。ただ、その男の人は私に顔立ちが似ていると思えた。目や顔の形がそっくりだ。金色と黒色の混ざる変な髪色は受け継がなかったみたいだけど。
それに、私が赤ん坊の時に着せてもらっていた服や玩具は、みんなこちらの世界では見かけない素材で作られていた。たぶん、母様があちらの世界から持ってきたものなのだろう。今でも時折ふらっと出かけた母様が、不思議な物を持って帰ってくる。誕生日の贈り物でもらった、ペンダントや髪留めもそうだ。
「カイン、ここではない別の世界があると言ったら信じる?」
「別の世界? 外国の事?」
「ううん、違う。まったく別の世界よ。知らない言葉を使って、まったく違う生活をしている人たちが住んでいるの」
「…………そんな世界があるなら、見てみたい」
「そう思う?」
「うん……僕は何も知らないから、もっと色々知りたい」
「私もそうだよ。知らない事ばかりだもの。いつか、その別の世界に行けたらいいなって思うの」
「行ったら、戻ってこられる?」
「うん、たぶんね」
母様はちゃんと戻ってきているんだから。けれど、そこに行くにはダンジョンを踏破しなければならない。母様くらいの魔法使いでなければ難しいだろう。ダンジョンの中は魔物の巣窟だと言うから。それに、母様の記録では「竜がいた」と書かれていた。異界の扉の番人のようだ。それに、私はその遺跡がどこにあるのか、まだ母様から教えてもらっていない。なんでも、もっと北の沼地の近くだと思うけれど、そこは瘴気が濃くて人は簡単に近づけない。異界に行くのはなかなか困難だ。でも、生きている間に一度でもいいから、私は父様に会ってみたい。あの母様が恋に落ちた人がどんな人なのか知りたかった。
私はまたカタカタとミシンでマントを縫う。フード付きの紺色のマントだ。縁を縫い終わったら、ボタンを取り付けて出来上がりだ。
「できた! カイン、ちょっと羽織ってみて」
私は椅子から下りて、カインにマントを着せてみた。
「長さはピッタリかな? ちょっと大きかったかも?」
「ううん、いい。すごく温かい……」
カインは嬉しそうな顔をする。
「これで、外出の時困らないよ。他のシャツは明日作ってあげる」
「うん……ありがとう」




