始まりの悲劇
アナスタシア=オーウェン。
それは、王国でも忌み嫌われた情欲の魔女の名前。
十二年前――。
王宮の謁見の間では、王太子であるラドクリフ=ハーノーザ=エルシエス殿下と、王太子妃となった伯爵家令嬢ユーナ=バインの結婚式が行われていた。けれど、この結婚には当初から問題があった。王太子ラドクリフには、元々、婚約者がいたからだ。それがアナスタシア=オーウェンだった。侯爵家の令嬢で王家と侯爵家により定められた政略的な結婚。だが、ラドクリフはアナスタシアを嫌い、遠ざけた。その理由は、彼女が黒髪と黒い瞳の魔女だったから。過去、王国に災厄をもたらした魔女もまた、黒髪と黒い瞳だった。死を招く魔女――そう呼ばれたアナスタシアとラドクリフの結婚は一方的に破棄された。
王太子が王立魔法学園を卒業し十八になった歳に、ユーナ=バインとの結婚が決まった。
彼女とラドクリフは王立魔法学園時代からの友人であり、恋仲であった。誰もが似合いの二人だと祝福する中、陰を落としたのはアナスタシアの存在だ。
彼女はユーナ=バインに呪いをかけたという疑惑によって、王都から離れた遙か北の地にある闇沼の森の塔へと幽閉された。
はずだった――。
◇◇◇
王太子ラドクリフとその妃となるユーナの結婚式が盛大に行われる王宮には、国中から貴族が集まっていた。神殿から派遣された大神官が二人に祝福を与え、宣誓が行われる。大勢の人が見守る中、目を合わせてはにかむように笑う若き二人は、まさに輝かしい王国の未来を象徴しているようでもあった。
ワインが配られ、「王太子と王太子妃の未来に大いなる神の祝福あれ!」と国王が瑠璃杯を掲げる。全員が杯を掲げたその瞬間、大広間を照らす蝋燭の灯りが一斉に消え、窓ガラスが砕け散る。それが、王国にもたらされる悲劇の始まりだった。
悲鳴が上がり、「誰か灯りを!」と声が飛び交う。集まった人たちは恐怖に怯えながら、何が起こるのかと息を詰めていた。ラドクリフはユーナを引き寄せ、その周りを警備の騎士が固める。闇に包まれた大広間にゆっくりと広がったのは、禍々しい魔力を帯びた風だった。
ようやく灯りが灯された時、大広間の中央には一羽のカラスがいた。
「カラス?」
どこから舞い込んだのか。不吉だ、気味が悪いと誰かが囁く。国王も王妃も、そしてラドクリフもユーナも動けない。そのカラスが人の姿を取るのを、恐怖に凍りついたような表情で見守っていた。
「ア……アナスタシア……!」
その名を呼んだのは、彼女を良く知るラドクリフだ。ユーナは彼にしがみついて、青ざめて震えながら悲鳴を上げる。
「その者を捕らえよ!」
国王の怒号が響いたが、騎士たちは動かない。それどころか、まるで糸が切れた操り人形のようにその場でバタンバタンと倒れていく。
「い…………いったいどうやって幽閉の塔から脱した!」
ラドクリフがユーナを必死に庇うように抱き寄せながら、声を張り上げる。この場で気を失わなかっただけでも、胆力がある方だろう。真っ黒なローブをまとうアナスタシア=オーウェンは薄らと笑う。その黒の瞳は、魔力を帯びると金色に光って見える。魔物だ、化け物だと、この場にいた人々が囁き出した。金の瞳や赤い瞳は魔物の証だと古来から文献にも記されている。
「お前は…………人ではないのか?」
ラドクリフが顔を引きつらせて尋ねたのも道理だろう。彼はアナスタシアの事を、王立魔法学園時代から知っている。地味で陰気で、ボソボソとした声で話す、気味の悪い女。最初に引き合わされた時から、ラドクリフは彼女が嫌いだった。いや、嫌悪していた。彼女に近付くだけで背筋が震える。視界に入れる事すら忌み嫌った。こんな女が将来の妻だなどと、どうあっても承服できるものではなかった。だから、父に懇願して婚約を破棄し、ようやく理由をつけて北の果てに送ったというのに。なぜ、舞い戻ってきたのか。
「ラドクリフ、ユーナ……久しぶりね」
笑い、囁くような声でアナスタシアが言う。
「結婚おめでとう。友人として、お祝いに駆けつけるのは当然でしょう? ああ、それと私もそういえば、侯爵家の令嬢だった……忘れてしまいそうになるけれど、招待状はちゃんと受け取ったのよ?」
彼女はそう言って、侯爵家宛てに送られた招待状を見せる。もちろん、彼女の父と母である侯爵夫妻宛であって、アナスタシア宛てではない。誰が彼女などこの場に招くものか。忌まわしい魔女めと、ラドクリフは吐き捨てる。その声は静寂の中で思うよりも大きく響いた。聞こえていただろうに、アナスタシアはただ妖艶に微笑んだだけだった。
「ああ、そうだ。せっかくだもの。結婚の贈り物をしないとね」
彼女が手を翳すと、黒い炎が浮かび上がり魔法陣を形作る。その中から現れたのは一枚の契約書だ。
「あなたは私との結婚の約束を一方的に反故した。だから、あなたとユーナの間に最初の王子が生まれたら、その子は私がもらいましょう。それが代償で、あなたたち二人の罪。その子供を差し出すならば、私は王国に災いはもたらさない。ただし、約束をまた破ったら、そうね……今度は大勢死ぬ事になるでしょう」
アナスタシアが愉快そうに笑うと、ラドクリフとユーナの体が黒い炎に包まれて、二人が悶え苦しむように絶叫した。宙に浮かんだ契約書に、血のように赤い文字で二人の名前が刻まれる。さらにはアナスタシアの名前が書き込まれ、契約書はボッと燃えて灰になった。
「これで、契約成立……ああ、忘れないでね。王子様は十歳になったら迎えに来るから。それまでに殺してしまわないでね。殺したら、次の子を貰うから」
アナスタシア=オーウェンはそう言って、またカラスに姿を変えて暗い夜の空へと消えてしまった。
床に倒れたラドクリフとユーナは、息苦しそうに何度も息を吐く。侍医と王宮の魔法使いが呼ばれ、大広間は騒然となっていた。倒れるご夫人や令嬢たちに、ざわめく人々。その中で、泣き崩れたのは今夜の花嫁であるユーナだ。
今夜の事は、決して語ることのないようにと国王から厳命が下り、結婚式は幕を閉じる。
それから二年後、最初の王子が生まれた。
祝福されない、魔女に呪われた忌み子。彼は生まれてから、ほとんど離宮から出ることはなく、王太子にも立てられる事はなかった。
名前はカイン=ハーノーザ=エルシエス。
彼は十歳を迎えたその日に、王宮から姿を消した。多くの人の見ている前で。
魔女は契約の通り、彼を連れ去ったのだ。




