第5話 決断と逃亡
運命の決行は、三日後の夜に定められた。
その日は街を挙げての大きな収穫祭が開かれる。誰もが酒と音楽に浮かれ、厳格な屋敷の警備も今日ばかりは緩む。カイルは、その一瞬の隙を突こうと言った。
私は、自分でも驚くほど震える手で、密かに荷造りを始めた。
伯爵令嬢として与えられた高価な調度品も、肌を刺すような絹のドレスも、重たいティアラも、すべてこの部屋に残していく。
それらは私を輝かせる装飾ではなく、私を閉じ込める鎖だったのだと、今ならはっきりと分かる。
小さな革の鞄に詰めたのは、最低限の着替えと、亡き祖母から密かに譲り受けた小粒のサファイアがはまった古いペンダント一つだけ。
それは伯爵家の財産ではなく、私をひとりの孫娘として愛してくれた祖母との、たった一つの、そして最後のか細い繋がりだった。
カイルは一度、身を寄せていた老庭師の家を離れ、留学中の拠点としていた街の宿へ戻った。公爵家の嫡男としての権限を使い、本国へ向けて緊急の伝令を飛ばすためだ。
「正式な手続きを踏んで公爵家が動けば、エレーナの親父さんも黙るしかない。……けど、それまで待ってたら、お前が先に壊れちまう」
準備を整えて戻ってきたカイルは、以前の泥にまみれた作業着ではなく、質の良い深い紺色の旅装に身を包んでいた。
その佇まいは、もはや庭師の弟子などではなく、隠しきれない高貴な覇気と、一軍を率いる騎士のような力強さに満ちている。
「まずは俺の国へ逃げよう。国境を越えれば、この国の法も、ヴィンセント侯爵の手も届かない。誰もエレーナを無理やり連れ戻せやしない」
決行の夜。
深夜の静寂が、冷え冷えとした重圧となって屋敷を包み込む中、私は音を立てないよう、裸足で冷たい廊下を渡った。
心臓の音が耳元でうるさいほどに打ち鳴らされ、自分の浅い呼吸の音さえも、壁に飾られた先祖たちの肖像画に聞かれているのではないかと、恐怖で足がすくみそうになる。
けれど、あの裏庭でカイルの手が教えてくれた温もりだけを道標に、私は暗闇の中を一歩ずつ進んだ。
重い裏門の閂を、精一杯の力で、鉄の擦れる音を殺しながら外す。
門を開けた先、濃密な夜の帳の中に、月明かりを浴びて見違えるような筋骨逞しい二頭の軍馬を連れたカイルが立っていた。
「……待たせたな、エレーナ」
カイルは私の手を取り、その力強い腕で私を馬の背へと一気に抱き上げた。
彼が私の背後に跨ると、その背中の広さと、私を包み込むように手綱を握る腕の感触に、凍りついていた呼吸がようやく整うのを感じた。
「行こう。新しい朝を迎えに」
カイルが短く、鋭い合図を送ると、馬は夜の静寂を暴力的なまでの速度で切り裂いて走り出した。
蹄の音がリズミカルに地面を叩き、私の頬を、管理された庭では決して吹くことのない冷たく激しい夜風が打つ。
振り返れば、あんなに大きく、絶対的な権威を誇っていたはずの伯爵家の屋敷が、瞬く間に小さくなっていく。
私を閉じ込めていた薔薇の檻は、夜の闇に飲み込まれ、もうただの醜い黒い塊にしか見えなかった。
目の前に広がるのは、どこまでも続く暗い街道と、その先に待っているはずの、眩しいほどに自由な夜明け。
私はカイルの服を強く、爪が食い込むほどに握りしめ、二度と後ろを振り返ることはなかった。




