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ルリハコベの咲く裏庭で、愛を知る  作者:


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第6話 青い空の下で

嵐の夜の逃亡から、1年が過ぎた。


 隣国のレジス公爵邸にある広大な庭園には、あの時、泥にまみれた屋敷の裏庭で見つけたのと同じ青い花、ルリハコベが、まるで海のように鮮やかに咲き乱れていた。


 カイルが私のために、本国から種を取り寄せ、自ら土を耕して植えてくれたものだ。


かつての庭には一輪しかなかった花が、今は風に揺れるたび、幾千もの青い波紋となって私の足元を彩っている。


「お疲れ、エレーナ。今日も、その花と同じくらい綺麗だ」


 ふわりと背後から温かな体温が重なり、耳元で低く心地よい声が囁いた。


 振り返れば、そこには見違えるほど立派な、銀の刺繍が施された上着を纏ったカイルが立っている。


 かつての泥にまみれた作業着姿ではなく、公爵家の正当な世継ぎとしての、揺るぎない品格と美しさを備えた姿だ。


その広い肩幅も、知性を湛えた眼差しも、本来彼が持っていた輝きを何一つ隠すことなく放っていた。


 けれど、私を見つめるその瞳の熱い光と、少しだけ崩した親密な口調だけは、あの裏庭で過ごした時と少しも変わっていなかった。


「もう、公爵夫人としての公務は終わったのか? あんまり根を詰めると、また顔が真っ白になっちまうぞ。……俺が運んできた風、ちゃんと当たってるか?」


 カイルは私の肩を優しく抱き寄せ、その大きな掌で私の頬を包み込んだ。


その温もりに触れるたび、自分がもはや「生きた標本」ではないことを実感する。


 逃亡の知らせを聞いた父は、当初、家の面目を潰されたと激昂し、殺気立った追っ手を差し向けてきたという。


 けれど、カイルが「レジス公爵家の嫡男」という真の身分を明かし、正式な使者を立てて非の打ち所のない求婚の書状を送り届けると、父の態度は驚くほどあっさりと一変した。


 あんなに執着していたヴィンセント侯爵との縁談など最初からなかったかのように、手のひらを返して喜び、二つ返事で私をカイルへと差し出したのだ。


 家柄と利益にしか価値を見出さない、父らしいあまりに滑稽で皮肉な結末だった。


 けれど、その身勝手な強欲ささえも、今の私にとっては、カイルの隣にいるための些末な手続きに過ぎない。


家を捨て、名も捨てたあの夜、私はすでに父の娘としての自分を殺し、新しい人生を選び取っていたのだから。


「ねえ、カイル。教えて。……あの時、どうしてあんなところで、平民のふりをして庭師なんてやってたの?」


 私がずっと胸に抱いていた疑問を口にすると、カイルは少しだけ照れくさそうに視線を泳がせ、それから慈しむように笑った。


「……最初は、ただの反抗だったんだ。決められた結婚、決められた将来。親父の敷いた、どこまでも平坦で退屈なレールに嫌気が差して、自由が欲しくて家を飛び出した。名前も身分も捨てて、誰の期待も背負わずに土に触れていれば、何かが変わる気がしてさ」


 カイルは私の額に、誓いを立てるような柔らかな口づけを落とした。


「でも、結局分かったんだ。一番の自由っていうのは、どこへ行くかじゃない。『誰と一緒にいたいか』を、自分の意志で決めることだったんだって。あの日、あの裏庭で、あんたに見つかってしまったのが、俺の人生で最高の幸運だったよ、エレーナ」


 彼の言葉が、春の風のように私の心に溶け込んでいく。


 見上げた空には、足元に咲くルリハコベと同じ、どこまでも澄み渡った鮮やかな青が広がっていた。


 遮る高い壁も、私を監視する無数の瞳のようなシャンデリアもない。誰に行き先を指図されることもない、どこまでも続く、自由な空だ。


「私もよ、カイル。あなたに見つけてもらえて、本当に良かった」


 私はもう、檻の中で震えているだけの、声を失った雛ではない。


 翼を広げ、自分の足で大地を踏みしめ、愛する人の隣で、共に歩む道を選び取った一人の女性なのだ。


 繋いだ手の温もりを確かめるように強く握り返しながら、私は新しく始まったこの眩しい世界を、カイルと共に一歩ずつ、大切に歩き出した。

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