第4話 嵐の前触れ
永遠に続くかと思われた、裏庭での穏やかな時間は、残酷なほどあっけなく終わりを告げた。
重苦しい沈黙が支配する晩餐の席。
天井に吊るされたシャンデリアの輝きさえ、今夜は私を糾弾する光のように感じられる。銀食器が触れ合うカチャカチャという微かな音さえも、今の私には鋭利な刃物で心を削られる音のように聞こえた。
不意に、父がワイングラスを置き、私を真っ直ぐに見据えた。
「エレーナ、ヴィンセント侯爵との婚約が正式に決まった。来月の十五日には結納を交わす。これは我が伯爵家の未来を左右する、極めて重大な『契約』だ。お前もそのつもりで、覚悟を決めなさい」
父の口から放たれたのは、娘への言葉ではなく、ただの事務的な判決だった。
視界が歪み、目の前の豪奢な料理が、急に砂の味に変わっていく。私は震える拳を膝の上で固く握りしめ、消え入りそうな声を絞り出した。
「……お父様、あの方は、私よりもずっと年上で……それに、女性に対する悪い噂も絶えません。どうか、もう一度だけ……もう一度だけで結構ですので、お考え直しいただけませんか」
「わがままを言うな!」
父の怒声が広い食堂に響き渡り、私はびくりと肩を震わせた。
父は冷徹な瞳で、私という商品に付いた瑕疵でも測るように言い放つ。
「これまで誰のおかげで、不自由なく、美しく育てられてきたと思っている。お前を飾り立てるドレスも、その宝石も、すべては家のためだ。この家に生まれたからには、家のために尽くすのが当然の義務。異論は一切認めん。下がれ」
父の瞳の奥に、娘への愛情の欠片など、もはや微塵も残っていなかった。
そこにあるのは、権力への乾いた執着と、私を道具として使い切るという冷たい決意だけ。
私は自室に戻ると、内側から鍵をかけ、天蓋付きの大きなベッドに倒れ込んで泣き崩れた。
窓の外では、嵐の予感を感じさせる不穏な風が唸りを上げ、木々を激しく揺らしている。
このまま夜が明ければ、私は再び、高値で売られていくのを待つだけの、羽をもがれた小鳥に戻ってしまう。
居ても立ってもいられず、私は寝巻きの上に薄いローブを羽織り、夜の闇に紛れて裏庭へと走った。
「カイル……っ、カイル!」
暗闇の中、道具小屋の軒先で明日の準備をしていたカイルが、私の悲鳴のような声に驚いて駆け寄ってきた。
「エレーナ様!? こんな時間にどうしたんだ、そんな格好で……。酷く濡れてるじゃないか」
「カイル、私……私、結婚することになったの。もう、ここには二度と来られない。あなたに会うことも、声を聞くことも、許されなくなるわ」
私は、土と雨、そして草の匂いがするカイルの胸に、なりふり構わず顔を埋めた。
予報よりも早く降り始めた雨が、容赦なく私たちの体を濡らしていく。薄いローブは肌に張り付き、体温を奪っていくけれど、カイルの厚い胸板から伝わってくる鼓動は、雨の冷たさをかき消すほどに激しく、力強く打っていた。
「……行かせねえよ。あんな奴のところに」
カイルの声が、今までにないほど鋭く、低く響いた。
彼は私の肩を、痛いくらいに強く掴むと、無理やり顔を上げさせて真っ直ぐに視線を合わせた。その瞳には、かつて見たことのない、統治者としての峻烈な光が宿っていた。
「エレーナ、聞いてくれ。本当は、こんな最悪な形で言うつもりじゃなかったんだけど……」
雨に濡れた彼の栗色の髪が、その力強い瞳を縁取っている。
「俺は、隣国のレジス公爵家の嫡男だ。親父の敷いたレールに嫌気が差して、生きた世界を知るために、勝手に国を飛び出してきた。……庭師なんてやってるのは、ただの道楽だよ」
突然の告白に、私は涙も止まり、呆然と彼を見つめることしかできなかった。
レジス公爵家。
この国の王族ですら敬意を払い、外交の鍵を握ると言われる隣国の最高位貴族。目の前にいる、泥にまみれ、私のために雑草を摘んでくれていた青年が、そんな雲の上の存在だなんて。
「俺と一緒に来い、エレーナ。あんな胸糞悪い縁談、公爵家の名において叩き潰してやる。……でも、その前に」
カイルは、震える私の頬を、熱を帯びた大きな掌で包み込んだ。雨の中でも、その熱だけは鮮明に伝わってきた。
「一人の男として、あんたをこの檻から連れ出したいんだ。家の道具としてじゃなく、俺の隣で、ただのエレーナとして笑っててほしい。……俺についてきてくれるか?」
それは、絶望という名の地獄の底にいた私へ差し伸べられた、眩しすぎるほどの救いの光だった。




