第3話 密やかな約束
それからというもの、私は屋敷の厳しい監視の目を盗んでは、裏庭へ足を運ぶようになった。
重いシルクのドレスの裾をなりふり構わず片手で持ち上げ、泥や枯れ枝がつくのも厭わずに茂みを抜ける。
刺繍が枝に引っかかる小さな音さえ、今は冒険の合図のように聞こえた。
その先に待っているのは、いつもと変わらぬ使い古された作業着姿で、木漏れ日の中に穏やかに微笑むカイルだった。
彼は作業の手を休めることなく、私に外の世界の話をたくさん聞かせてくれた。
彼がこれまでに旅をしたという、国境を越えた先にある遠い異国のこと。
水平線の彼方、空と海が溶け合うように真っ赤に染まり、やがて群青色へと溶けていく、息を呑むような夕日の美しさ。
色とりどりの果物やスパイスの刺激的な香りが立ち込め、人々が身分も忘れて大きな声で笑い合い、値切り交渉に花を咲かせる活気あふれる市場の賑わい。
そして、名もなき平民たちが、明日をも知れぬ日々を懸命に、けれど誰に強制されることもなく、自分たちの足で自由に生きている姿。
彼の話を聞いている間だけは、モノクロームだった私の世界に、瑞々しい色彩と熱が吹き込まれるような気がした。
「ねえ、カイル。……自由って、本当はどんなものなの?」
木漏れ日が揺れる中、私は切り株に腰を下ろして、ふと問いかけた。
自分でも驚くほど心許ない、震える声だった。まるで、実在するかどうかも分からないおとぎ話の宝物について尋ねるような、切実な響き。
カイルは手に持っていたスコップを地面に置くと、少しだけ考え込むように、木の葉の隙間から覗く空を仰いだ。
そして、悪戯っぽく、けれどどこか切なさを孕んだ優しい光を瞳に宿して笑った。
「明日、自分が世界のどこにいてもいい。そう自分の意志で確信できる解放感、かな」
カイルの声は、いつの間にか、以前よりも低く、親密な響きを帯びていた。
「……あんたには、少しイメージしにくいかもしれないけど。誰の許可も要らない。ただ、自分の足が行きたい方へ向く。それだけのことさ」
最初は余所余所しくお嬢様と呼んでいた彼の口調が、二人きりの時間が増えるにつれて、少しずつ、けれど自然に砕けたものに変わっていった。
伯爵家の令嬢として、誰からも恭しく、けれど透明な壁を隔てて接されてきた私にとって、その不作法な親密さは、何よりも特別で、甘やかな痺れを持って胸の奥に届いた。
「……私には、明日どこにいるかを選ぶ権利なんて、最初から与えられていないわ」
私は伏せ目がちに、湿った枯れ葉が積もった地面を見つめた。
「来月になれば、私は父が決めた誰かの屋敷へ、荷物のように送り届けられる。そして一生、その檻の中で過ごすのよ。場所が変わるだけで、本当の空が見えないのは同じだわ」
自分でも驚くほど、誰にも言えなかった素直な本音が、震える声で零れ落ちた。
カイルは黙って私の隣に腰を下ろした。
作業で黒く汚れたその手を、彼は一瞬だけ、私の白い肌を汚すことを恐れるように空中で止めた。
けれど、すぐに意を決したように、私の膝の上で固く結ばれていた手の上に、そっと大きな掌を重ねた。
「……なら、俺が風を運ぶよ」
その掌から伝わる確かな熱が、私の指先を、そして厚い氷に閉ざされていた心の芯を、ゆっくりと、けれど抗いようのない力で溶かしていく。
「あんたがこの檻の中にいたとしても、外の世界の匂いや、自由な空気を忘れないようにさ。俺が何度でも、ここに風を運んでやる。……約束だ」
カイルの真っ直ぐな言葉と、その温もり。
私は、彼を愛してはいけないと痛いほど分かっていた。伯爵家の娘が、身元の知れない、土にまみれた庭師に心を寄せるなど、許されるはずがない。
けれど、この裏庭で彼と過ごす短い時間だけが、私が伯爵家の道具ではなく、エレーナという一人の人間として呼吸できる、唯一の瞬間だったのだ。
この時、私はまだ知らなかった。
目の前で不敵に、けれどどこか気高く笑うこの青年が、実は隣国の名門、レジス公爵家の嫡男であることを。
彼もまた、豪華な調度品と義務だけの生活に嫌気が差し、身分を捨てて「生きた世界」を肌で感じるために、この国へ留学という名の逃避をしていたのだということを。
そんな奇妙な縁で、魂の欠落を埋め合うように結ばれた彼の正体を、知る由もない私。
私はただ、彼という「自由の象徴」に、吸い込まれるように惹きつけられていった。




