第2話 裏庭の聖域
翌日の午後、私は逃げるようにして、屋敷の裏手へと向かった。
華やかな表門から遠く離れたそこは、完璧に管理されたあの中庭とは対照的に、私にとって唯一、心が安らぐ聖域だった。
表向きの庭のような、計算し尽くされた色彩や香料の匂いはない。
古くなった道具小屋がひっそりと佇み、手入れが後回しにされている茂みが、太陽の光を求めて勝手気ままに枝を伸ばしている。
湿った土の匂いや、むせ返るような草いきれ。この場所にあるのは、誰かの意志ではなく、植物たちの呼吸そのものだった。
ここには、私を品定めする瞳も、背筋を正せと命じる声もない。
「……あ」
生い茂る茂みをかき分けた、その先。
日当たりの悪い石壁の隅に、見たこともないほど鮮やかな、青い花が咲いていた。
昨晩の激しい雨を含んだその花びらは、隙間から差し込む朝の光を反射して、零れ落ちそうなほどキラキラと輝いている。
まるで、雨上がりの澄み切った空を、そのまま小さな器に閉じ込めたような、透き通った青。
不自由な影の中でも、その色だけは、驚くほど誇り高く燃えていた。
「それは『ルリハコベ』の変種ですよ。この庭には、少しばかり野生的すぎますが」
聞き慣れない、けれど低く心地よく響く声に驚いて、私は勢いよく振り返った。
そこには、一人の青年が立っていた。
泥のついた作業着に、少し日に焼けた肌。乱れた栗色の髪の間から覗く瞳は、先ほどの花と同じくらい、真っ直ぐで澄んでいた。
私は思わず、呼吸を忘れてその姿を見つめてしまう。
この屋敷に仕える、影のように静かで無機質な使用人たちの誰とも違う、生命力に溢れた雰囲気を纏っていたからだ。
「あなたは……新しい庭師の方?」
「ああ、いや……。ここの老庭師に弟子入りさせてもらっている、カイルといいます」
彼はそう言って、気負う様子のない屈託のない笑みを浮かべた。
「まあ、便利屋のようなものだと思ってください、お嬢様」
カイルと名乗った青年は、短く、けれど無駄のない優雅な所作で会釈をした。
そして再び地面に膝をつくと、手慣れた手つきで花の周りに生えた雑草を摘み取っていく。
土に汚れたその大きな指先は、驚くほど繊細で優しい。
壊れやすい花びら一枚、薄い葉の一枚にさえ、決して傷をつけないように、まるで宝物を扱うように大切に扱っているのが分かった。
けれど、荒い作業着を着ていながらも、彼の背筋は凛としていた。
どこかその立ち居振る舞いには、ただの平民にはあり得ないような、教養に裏打ちされた洗練された余裕が漂っている。それがかえって、彼の素性をミステリアスに際立たせていた。
「その花、とても綺麗ね。どうして、こんな日の当たらない隅っこに咲いているのかしら」
私の問いに、カイルは作業の手を止めることなく、ふっと口角を上げた。
「こいつも、窮屈な場所が嫌いなんでしょうね。風がよく通って、誰にも邪魔されない場所でしか、この本当の色は出ないんです」
雑草をすべて取り除き終えると、カイルは軽やかな動作で立ち上がり、私を真っ直ぐに見つめた。
その瞳に宿っているのは、屋敷に集まる貴族たちが浮かべるような、計算高い追従や卑屈なへつらいではない。
ヴィンセント侯爵が私に向けるような、内側を侵食するような不快な欲望も、カケラほども存在しなかった。
ただ、野に咲く一輪の花を愛でるような、どこまでも純粋で、等身大な光。
「……お嬢様も、たまには風に当たった方がいい」
カイルは、私の顔をじっと覗き込むようにして、躊躇いもなく言った。
「顔色が白すぎます。そんなんじゃ、その辺の花より先に枯れちまいますよ」
その言葉は、伯爵令嬢に対するものとしては、あまりに無作法で、不敬の極みともいえるものだった。本来なら、不快感を露わにして立ち去るべき場面。
それなのに、不思議と嫌な気はしなかった。
むしろ、これまで誰も気づいてくれなかった――父や母でさえ見落としていた、私の心の奥底にある乾きと欠落。
それを、初対面の彼だけが、こともなげに鮮やかに言い当ててくれたような気がして。
私は、震えるドレスの裾を握る手を緩め、自分の胸の奥が、ほんの少しだけ温かくなるのを感じていた。




