第22話 出張記録の矛盾と極上本わらび餅
「あーん、雅弘さぁん。最近つわりがひどくて、お腹の赤ちゃんがフレンチのフルコースを食べたいって言ってるのぉ」
「そうかそうか! 我が神宮寺の跡継ぎの望みとあらば、都内の三ツ星レストランを貸し切りにしてやろう!」
「ゆかりさん、貴女は神宮寺の宝よ! あの石女の撫子が使っていた部屋は、今日中にすべて消毒させておくからね!」
都内の高級タワーマンション、神宮寺雅弘が愛人のために買い与えた最上階のペントハウス。
神宮寺財閥の御曹司と、その母親である大奥様は、一条ゆかりの平らな腹をさすりながら、手放しで歓喜の声を上げていた。
彼らの頭の中には、着の身着のまま夜の雨に放り出された正妻の存在など、微塵も残ってはいない。
「(ふふっ、チョロいもんね。財閥のバカ殿なんて、エコー写真一枚でイチコロだわ。これでこの一族の財産は、ぜーんぶアタシたちのモノ……!)」
ゆかりは、雅弘の腕に胸を押し付けながら、隠しきれない下劣な笑みを口元に浮かべていた。
彼女の背後で、巨大な詐欺の網が静かに、そして確実に財閥を絡め取ろうとしていることなど、愚かな親子は知る由もない。
◇ ◇ ◇
……という、昼ドラ顔負けの泥沼と、詐欺師の薄汚い皮算用が繰り広げられていた頃。
「――というわけで、彼らは現在、他人の子を『財閥の輝かしい跡継ぎ』だと信じて疑わず、浮かれポンチの極みに達しているようです」
帝都の一等地、『九条院法律事務所』の所長室。
私は、京都の老舗和菓子店から取り寄せた、最高級の国産本わらび粉を百パーセント使用した『極上本わらび餅』に、黒文字の楊枝を突き立てた。
とろけるような琥珀色のわらび餅に、香ばしい深煎りのきな粉と、濃厚で艶やかな黒蜜をたっぷりと絡める。
それを口に運べば、ひんやりとした至福の弾力と共に、上品な甘さが徹夜明けの事務所に優雅な風を吹き込んでくれた。
「所長……僕が徹夜で財閥の御曹司の行動履歴をネットの海からサルベージしていたのに……。なんで所長は、スライムみたいにプルプル震える高級和菓子を、一人で幸せそうにちゅるんと飲み込んでるんですか……僕のHPはもうマイナスですよ……」
パラリーガルの木戸くんが、目の下にマリアナ海溝より深いクマを作りながら、ノートパソコンを抱えて怨み言を吐いている。
「失礼ですね。このわらび餅の、掴みどころのないプルプルとした脆弱な弾力は、嘘と欲望で塗り固められた『偽造妊娠』という砂上の楼閣を解き明かすための、重要なインスピレーション源ですよ」
私は温かいほうじ茶で喉を潤し、事務所のソファで背筋をピンと伸ばして座る花山院撫子様に微笑みかけた。
「さて、木戸くん。愚痴は後で聞きますから、徹夜の成果を撫子様と麗華様に報告しなさい」
「はいはい、分かりましたよ……。お二方、こちらのモニターをご覧ください」
木戸くんがエンターキーをターンッ!と叩くと、壁の大型モニターに、神宮寺雅弘の過去数ヶ月間のスケジュール表が映し出された。
「神宮寺財閥のプレスリリース、雅弘本人のSNSの投稿、そして財閥がチャーターしているプライベートジェットのフライト記録。それらすべての『公開情報(OSINT)』をパズルのように組み合わせ、彼の過去半年間の足取りを秒単位で特定しました」
木戸くんのハッカー顔負けの執念深い調査結果に、撫子様が小さく息を呑む。
「木戸先輩、素晴らしい執念ですわ! で、その結果、あの泥棒猫の嘘は暴けましたの?」
東陰院麗華様が、武闘派助手として扇子をバシバシと打ち鳴らしながら身を乗り出した。
「ええ、完璧に。……撫子さん、あの愛人・一条ゆかりは、雅弘に向かって『妊娠何週目だ』と主張していましたか?」
木戸くんの問いに、撫子様は静かに記憶を辿り、ハッキリと答えた。
「昨晩の晩餐会で、あの方は『妊娠八週目に入ったところだ』と、お義母様に自慢げに語っておられました」
「ふむ」
「そして、産婦人科で発行されたというエコー写真の日付も、確かにその計算と一致するものでしたわ」
「ビンゴです。妊娠八週目ということは、医学的な『受胎時期』は、逆算するとおよそ六週間前のこの一週間になります」
木戸くんがモニターのスケジュール表の、ある特定の『一週間』を赤枠で囲んで拡大した。
「ですが、皆さん。この六週間前の一週間、神宮寺雅弘は一体どこで何をしていたと思います?」
モニターに映し出されたのは、ヨーロッパの美しい街並みを背景に、現地の要人たちと握手を交わす雅弘の姿だった。
「……あっ」
撫子様が、信じられないものを見るように目を丸くした。
「そうです。この期間、雅弘は財閥の次期トップとして、欧州の提携工場を視察する『十日間のヨーロッパ出張』の真っ最中でした」
木戸くんがドヤ顔で、雅弘のSNSのタイムラインと、ヨーロッパの各都市での日付入りプレスリリースを次々と表示していく。
「つまり、愛人が『妊娠した』と主張しているまさにそのドンピシャの期間、雅弘は日本から一万キロ以上離れたヨーロッパにいたんです!」
「一万キロ……っ!」
「もちろん、愛人がヨーロッパに同行した形跡もありません。彼女のSNSには、その期間中ずっと都内で遊び歩いている写真がアップされていましたからね」
木戸くんの報告が完了すると、所長室に一瞬の静寂が訪れ……次の瞬間、麗華様の大爆笑が響き渡った。
「アッハハハハハハッ! 傑作ですわ! 物理的に絶対不可能ではありませんか」
麗華様は腹を抱えて笑い、扇子でモニターをビシビシと指差した。
「いくら神宮寺の御曹司だからといって、一万キロ離れた日本にいる女を妊娠させることなどできませんわ!」
「ええ。彼の遺伝子が、フェデックスの国際航空便に乗って海を渡る魔法でも使わない限りは、ね」
私はわらび餅の最後の一切れを優雅に口に放り込み、極上の魔王の笑みを浮かべた。
「DNA鑑定をするまでもない。出入国記録とパスポートのスタンプという『客観的証拠』だけで、彼女の嘘は完全に論破されました」
「そんな……雅弘さんは、出張の時期すら忘れて、あの方の言葉を信じ込んだというのですか……?」
撫子様が、呆れ果てたように呟く。
「『自分が優れた跡継ぎを残した』という傲慢な幻想が、彼の脳内の時系列を都合よく書き換えてしまったのでしょう」
私は冷たいほうじ茶を一口飲み、黒縁メガネの奥で瞳を鋭く光らせた。
「神宮寺雅弘も、義母も、跡継ぎという『古い血の執着』に目が眩み、詐欺師の最も初歩的なアリバイの矛盾にすら気づけなかったのです」
「本当に救いようのない馬鹿殿ですわ! こんな頭の悪い男に、撫子様のような完璧な教養を持つ大和撫子が虐げられていたなんて、虫唾が走ります!」
麗華様が怒りのあまり、机をバンッと叩いた。
「ですが、所長。一つ疑問があります。一条ゆかりは、なぜこんな『すぐにバレる嘘』をついたんでしょうか?」
木戸くんが首を傾げる。
「雅弘が自分の出張記録に気づけば、そうでなくても、DNA鑑定を要求されれば、嘘の妊娠は一発でバレます。リスクが高すぎませんか?」
「木戸くん、詐欺師の心理を甘く見てはいけませんよ。彼女は『雅弘が絶対にDNA鑑定など要求しない』と確信しているのです」
私が答える前に、ソファに座る撫子様が、静かに、しかし確信を持った声で口を開いた。
「……神宮寺の家は、異常なほどに『男のプライド』を重視する一族です。雅弘さんが自分の子だと信じ込んでいる以上、誰も彼に『本当に貴方の子ですか?』などと尋ねることは許されません」
撫子様は、三年間その異常な一族の中で耐え抜いてきたからこそ分かる、財閥の闇を語った。
「それに、お義母様は私を追い出すための口実をずっと探していました。彼女たちにとって、子供が『本当の跡継ぎかどうか』よりも、私を排除できる事実の方が重要だったのでしょう」
「その通りです。だからこそ、愛人は強気で本邸に乗り込んできた。……ですが、この事件にはまだ裏がありますね」
私は立ち上がり、壁のホワイトボードに赤ペンで『一条ゆかりの本当のパパ』と書き殴った。
「ゆかりのお腹にいる子供が雅弘の子ではないなら、一体『誰の子供』を財閥の跡継ぎとして潜り込ませようとしているのか」
「それは……確かに。ただの浮気相手の子を、わざわざ財閥の御曹司の子だと偽るなんて、度胸が据わりすぎていますわ」
麗華様が扇子を口元に当て、目を細めた。
「ええ。単なる浮気女の浅知恵ではなく、背後に『財閥の財産を丸ごと乗っ取ろうとする巨大な悪意』が蠢いている気配がします」
私は麗華様に向き直り、魔王の笑みを深めた。
「麗華様。貴女の『裏の社交界ネットワーク』の調査結果は出ていますか?」
「オホホホッ! もちろんですわ、結お姉様。わたくしのお茶会ネットワークと、銀座の高級クラブのママたちの情報網に、大いに期待していただきたいですの!」
木戸君が目を白黒させる。
「いやいや麗華様、お茶会はともかく、なんで、銀座のママまで、つながってるんですか?」
「あら、銀座の高級クラブを成功させるような、口が硬く機転が利く女性は、求められて名家に迎えられることも少なくないんですのよ。それでも彼女達は少数派。そこで、私がそうした奥方様や二号様、愛人様がたの相談窓口となり、ネットワークハブとなることにいたしましたの。これも、この私が、結お姉さまの第一助手であるから得られた信頼と信用があってこそ!」
「は、はあ」
「なにしろお姉様は今や、今やご令嬢界最強のガーディアンとして知らない者がいないほどですから!」
「この役目、ソーシャルスキルをカンストした麗華様に任せて正解でしたね」
「って、所長の指示だったんですか!?」
「無論です。ネットワークは迅速な仕事の資本ですから。しかし私は人を法で抹殺することには長けていても、人を結びつけることにはあまり興味がないので」
「聞きたくなかったです」と木戸君。
「話を戻して、よろしいですか?」
麗華様はドヤ顔で自分のスマートフォンを掲げ、画面を私たちに見せた。
「一条ゆかりの素行調査、完璧に終わっております。彼女が裏で繋がっている『本当のパパ』の正体ですが……」
麗華様が読み上げたその名前に、木戸くんが「ヒィッ!?」とカエルのような悲鳴を上げて椅子から転げ落ちた。
「嘘でしょ……!? そ、それって、最近ニュースで話題になってる、都内の新興反社勢力……バリバリのヤクザの若頭じゃないですか!」
「ええ。ゆかりは、ヤクザの若頭の愛人ですわ。そして、その若頭の子供を神宮寺の『正当な跡継ぎ』としてすり替えようとしているのです」
麗華様の衝撃的な報告に、撫子様は顔を真っ青にして言葉を失った。
「素晴らしい。単なる浮気や詐欺のレベルを超えた、見事な『企業テロ(乗っ取り)』ですね」
私はわらび餅の余韻を洗い流すように、冷たいお茶を飲み干した。
「血の純潔にこだわる傲慢な一族が、その執着ゆえに、自ら反社会的勢力の爆弾を本邸に迎え入れたというわけですか。これ以上ないほどの極上の皮肉です」
「しょ、所長! 笑い事じゃないですよ! 相手は本物のヤクザです! 僕たち、今度こそ東京湾に沈められますって!」
木戸くんがガタガタと震えながら荷物をまとめようとするが、私はその後ろ襟をガシッと掴んで引き止めた。
「逃がしませんよ、木戸くん。反社が相手だろうと、日本国憲法と刑法から逃れることはできません」
私は撫子様を真っ直ぐに見据え、揺るぎない声で告げた。
「さて撫子様。貴女を道具扱いした愚かな一族は、まもなく自らの首を絞め、コンプライアンス違反という社会的な死を迎えます。私たちが、科学のメスと現行法の鈍器で、彼らの醜い幻想を完膚なきまでに叩き壊して差し上げましょう」
撫子様の瞳から、もはや怯えは完全に消え去っていた。
「はい……! 九条院先生、麗華様。どうか私に、あの愚かな一族と決別するための力を貸してくださいませ!」
大和撫子の誇りを取り戻した令嬢の、力強い宣戦布告。
それを聞いた私は、最高にスリリングなタコ殴りの準備に向け、嬉々として六法全書のページをめくったのだった。
お読みいただきありがとうございます。
精子が海を渡るミサイルでもない限り、物理的に不可能な妊娠。あまりに初歩的なアリバイの矛盾ですが、盲信している人間には見えないものです。
しかし、事態は単なる不倫騒動では終わりません。
次回、麗華様の情報網により、愛人の背後に潜む「ドス黒い影」が明らかになります。
「早く汚物を消毒して!」「木戸くん頑張れ!」と思っていただけましたら、ぜひ【ブックマーク】をしてお待ちください!




