第23話 反社会的勢力の影と撫子の決意
「嫌だ! もう絶対に嫌だ! 僕は辞める! 今すぐ辞職して田舎に帰って、一生ジャガイモだけを植えて暮らすんだ!」
「あらあら、木戸君」
「どうして僕の人生は、こうも『東京湾の底』に近い場所にばかり引き寄せられるんですか!?」
帝都の一等地、『九条院法律事務所』の所長室。
パラリーガルの木戸くんが、モニターに映し出された一条ゆかりの「本当のパパ」の顔写真を見て、泡を吹いて椅子から転げ落ちた。
「木戸先輩、みっともないですわよ。そんなにジタバタしては、せっかくわたくしが淹れた最高級のダージリンが冷めてしまいますわ」
「麗華お嬢様、落ち着いていられるのは貴女が世間知らずの『武闘派』だからですよ! この男が誰か分かってるんですか!?」
木戸くんが震える指でモニターを指差す。そこに映っていたのは、鋭い三白眼に額の傷跡、そして仕立ての良すぎるスーツを不気味に着こなした男。
「新興反社組織・黒龍会の若頭、黒岩剛造……。都内の地上げや違法風俗を裏で仕切る、本物の『生ける災害』ですよ! こんな男がバックにいる女を相手にするなんて、弁護士の仕事じゃなくてSPかマル暴の領域です!」
「……素晴らしい。この漆黒のテリーヌ・ド・ショコラ。一口含めば、カカオ分八十パーセントの暴力的なまでの苦味が、五感を研ぎ澄ましてくれますね」
木戸くんの阿鼻叫喚を完璧にスルーし、私はプレートの上に乗った濃厚なチョコレートの塊に、小さな銀のスプーンを入れた。
小麦粉を一切使わず、バターと卵、そして最高級のカカオ豆だけで作られたそれは、もはやお菓子というよりは『宝石の原石』に近い密度を誇っている。
それを口に運べば、冷たい舌触りから一瞬で熱を帯びて溶け出し、重厚な苦味と、その奥に潜むかすかな果実のような酸味が、私の脳細胞を覚醒させた。
「所長! 相手が本物のヤクザの若頭だと判明した瞬間に、なんで死神の食べ物みたいな真っ黒なケーキを平然と食べてるんですか! カカオの苦味に浸ってる場合じゃないですよ! 今すぐ警察の保護を求めましょう!」
「失礼ですね。このテリーヌの底なしの暗闇は、財閥という巨大な権力の中に、音もなく忍び寄る反社会的勢力のドス黒い意図を解き明かすための、重要なインスピレーション源ですよ」
私は口の中に残る極上の余韻をブラックコーヒーで流し込み、震える木戸くんを一瞥した。
「木戸くん。貴方は忘れているようですが、この国は法治国家です。拳銃の弾丸よりも、一通の『発信者情報開示請求』や『証拠保全』の方が、時には相手の息の根を確実に止められるのですよ」
「そんな綺麗事が通じる相手じゃないでしょうがぁぁっ!」
木戸くんの悲鳴が所長室に響く中、私は静かにソファに座る花山院撫子様へと向き直った。
撫子様は、愛人のバックに恐ろしい組織がいると聞いても、動じなかった。
むしろ、その白い手を膝の上で固く握りしめ、凛とした表情を崩していない。
「撫子様。驚くほど落ち着いていらっしゃいますね。黒龍会の名前を聞いて、怖くはありませんか?」
私の問いに、撫子様は静かに首を横に振った。
「……怖くないと言えば、嘘になります。でも、それ以上に……胸が締め付けられるほどに、悲しいのです」
撫子様の瞳には、深い失望の色が浮かんでいた。
「雅弘さんも、お義母様も……あんなにも『神宮寺の血筋』というものに誇りを持っていたはずなのに……。結局、彼らの誇りとはその程度のものだったのでしょうか。詐欺師が連れてきた反社の子供を、本物の跡継ぎだと信じ込み、自分たちの牙城を自ら明け渡そうとしている。そうしてすべてを台無しにしようと」
「その通りです。彼らが貴女を『跡継ぎを産めない道具』として切り捨てた瞬間、神宮寺の家は守るべき魂を失ったのです」
私はテリーヌの二口目を優雅に掬い上げ、甘美な毒のような苦味を堪能した。
「さて、麗華様。貴女の情報網……『帝都令嬢・お茶会ネットワーク』の精度には、改めて脱帽しますね」
「オホホホッ! 結お姉様にお褒めいただけるとは、光栄ですわ!」
東陰院麗華様が、誇らしげに扇子を広げて高らかに笑った。
「銀座の高級クラブのママたちにとって、反社の若頭の愛人関係など、最高級のシャンパンよりも新鮮味のないゴシップに過ぎませんのよ」
麗華様はスマホの画面をスワイプし、さらなる「爆弾」を投下した。
「一条ゆかりは、元々黒岩が経営する店で働いていた女ですわ。今回の『偽装妊娠計画』も、最初から黒岩の入れ知恵……いえ、むしろ黒岩本人が、神宮寺財閥の巨額の資産を乗っ取るための『トロイの木馬』として、彼女を送り込んだというのが、おそらく正解ですわね」
「乗っ取り……!? じゃあ、最初から雅弘さんはハメられていたということですか!?」
木戸くんが、泡を吹きながらも食いついてくる。
「ええ。ゆかりが雅弘に近づき、避妊具に細工をして……いや、そもそも細工をする必要すらありませんわね。受胎時期のアリバイが崩れているのですから」
麗華様は、軽蔑を隠そうともせずに吐き捨てた。
「彼女は黒岩の種を身籠った状態で、雅弘を誘惑した。そして雅弘が『自分の子だ』と勘違いしたタイミングを見計らって、本邸に乗り込んだのです」
「神宮寺家がその子を跡継ぎとして認めれば、将来的に財閥の経営権は、裏で糸を引く黒龍会の手に渡る。……実に悪質な『企業買収』の手口ですわね」
「ひ、ひえぇぇ……。そんなの、もはや弁護士が立ち向かうレベルの事件じゃないですよ……」
「いいえ、木戸くん。これは弁護士にしか解決できない……いえ、『タコ殴り』できない事件です」
私はテリーヌの最後の一片を口にし、最高に冷酷な笑みを浮かべた。
「敵の戦略は『認知』という法制度を逆手に取ったものです。ならばこちらも、法制度というメスでその膿をすべて抉り出すまで」
私はホワイトボードの前に立ち、さらさらとペンを走らせた。
「まずは『強制認知の訴え』をこちらから仕掛けましょう。ただし、雅弘さんに対してではありません」
「ええっ……? 雅弘さんに認知させないようにするんじゃないんですか?」
木戸くんが首を傾げる。
「甘いですよ、木戸くん。それだけでは、彼らは『冤罪だ!』と騒ぎ立てるだけです。徹底的な敗北を味あわせるには、真実という名の鉄槌を頭上から落とさねばなりません」
私はホワイトボードに、デカデカと『黒岩剛造』の名前を書き込んだ。
「撫子様を原告とし、ゆかりのお腹の子供の『本当の父親』である黒岩に対し、こちらから身元の特定と認知の準備を突きつけるのです」
木戸君は大げさに顔を覆う。
「反社の若頭に、自分の子供だと認めさせる……!? そんなことしたら、消されますよ!」
「いいえ。黒岩は自分が本件を裏からあやつるゲームメイカーだと自認していることでしょう。しかしだからこそ、彼はこの一件最大のウィークポイントでもある」
ここまで言えば、優秀なパラリーガルであり、これまで私の【合法的タコ殴り】に散々付き合ってきた木戸君には、私の言いたいことがわかったらしい。
「そ、そうか」
「木戸先輩、何が分かったのですの?」
「黒岩にとって、この計画の肝は『自分が表に出ないこと』です。反社が財閥の跡継ぎを操作しようとしていることが公になれば、警察の組織犯罪対策部が黙っていませんから。そういうことですよね、所長?」
私は黒縁メガネを押し上げ、瞳の奥に魔王の光を宿した。
「そのとおり。これに対して、神宮寺財閥は、複数の上場企業を抱える身。反社との交際、ましてや乗っ取りの危機が株主総会で暴露されれば、雅弘も義母も社会的に抹殺されます」
「銃口から発射された弾丸は戻らない。覚悟を固めろ、ということですね?」
「はい。こちらの手札は『核兵器』と同じです。その害は双方に、それも広範囲に及びます。……彼らが撫子様を捨てようとしたその手が、自分たちの一族を破滅させるスイッチになっているのですよ」
私の説明を聞き、撫子様が静かに立ち上がった。
「九条院先生。私、分かりました。あの方たちが、私を『子供が産めないから不要だ』と蔑んだその言葉の報い……。私に子供がいないからこそ、私は神宮寺の血筋という迷信に惑わされず、あの方たちを正しく救うことができるのですね」
撫子様の言葉には、深い慈悲と、それ以上に強固な『決別』の意志が宿っていた。
「いいえ、撫子様。『救う』などという甘い言葉は、我々の辞書にはありません」
私は撫子様の肩に手を置き、悪魔のように微笑んだ。
「我々がするのは『解体』です。腐りきった神宮寺の家柄という幻想を粉々に砕き、貴女という一人の人間を、自由な大地へ解き放つのです」
「……はい! お願いします、結お姉様!」
「あら、撫子様まで『お姉様』と!? わたくしのライバルが増えてしまいましたわ!」
麗華様が頬を膨らませて嫉妬のポーズを取るが、その表情は実に楽しそうだ。
「しょ、所長……。本当にやるんですね。相手はヤクザの若頭と、日本有数の財閥。僕、遺書を書いておいてもいいですか?」
「木戸くん、遺書を書く暇があるなら、黒岩と一条ゆかりの密会ルートの証拠映像を、麗華様の情報網と連携して確保しなさい」
私は無慈悲な命令を飛ばし、空になったテリーヌの皿を見つめた。
「カカオの苦味は、真実を直視するための薬。さあ、汚物共を科学の光で消毒する、最高の親族会議の準備を始めましょうか」
夜の帳が降りる帝都。
最強のリーガル・トリオと、誇りを取り戻した令嬢。
反社会的勢力という巨大な影を前に、私たちは震えるどころか、かつてないほどの高揚感と共に、法の刃を研ぎ澄ませていた。
一族の誇り、血の純潔、跡継ぎの呪縛。
それらすべてを「時代遅れのゴミ」としてゴミ箱へ放り込むための。
史上最高にハードで、最高にスカッとする『ざまぁ』の幕が、今まさに上がろうとしていた。
お読みいただきありがとうございます!
まさかの反社会的勢力による財閥乗っ取り計画。事態は一気に「国家賠償」や「組織犯罪」のレベルまで跳ね上がりましたが、魔王弁護士にとっては絶好のタコ殴り材料に過ぎません。
次回、いよいよ本邸での親族会議に殴り込みをかけます。雅弘と義母の鼻っ柱を叩き折る準備は整いました。
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