第9章 先手
扉の向こうで、ルクレインとマックの足音が遠ざかっていく。
それが完全に聞こえなくなった瞬間。
「……くそっ!」
リクターは勢いよく立ち上がると、目の前の椅子を蹴り飛ばした。
ガタンッ、と派手な音を立てて椅子が倒れる。
しばらく荒い息を吐いていたが、やがて部屋の隅へ目を向けた。
「……ゾラン」
「はい、殿下」
ゾランが一歩前へ出る。
「少し、お灸を据えてやるくらいのことはできないのか」
ゾランはすぐには答えなかった。
腰に下げたレイピアの柄を、指先でゆっくりとなぞる。
何かを測るように、わずかに視線を落とした。
「……難しいですね」
「何?」
「第二王子殿下お一人であれば、やりようはございます」
ゾランは閉じた扉へ視線を向けた。
「ですが、マクシミリアンまで同時となると話は別です」
「……それほどか」
「はい」
リクターが不機嫌そうに舌打ちした。
「厄介な従者を持ったものだな」
「従者としては、少々規格外ですね」
「殿下」
そこで、少し離れた場所に控えていたデーブが声を上げた。
「私に一つ、考えがございます」
リクターが振り向く。
デーブは静かに歩み出た。
いつもの柔和な笑み。
――のはずだった。
だが、その細められた目の奥には、妙に冷たい光が宿っていた。
「何だ」
「ルクレイン殿下は以前から、王都の養護院へ定期的に慰問に出向かれております」
「……それがどうした」
「次の慰問も、間もなくのはずです」
デーブの口元がゆっくりと吊り上がった。
「その道中を狙いましょう」
「道中を?」
「はい。養護院へ向かう途中には、人通りの少ない場所がございます」
ゾランが無言でデーブを見る。
「そこへ、あらかじめ手の者を潜ませておくのです」
デーブは腹の前で両手を組んだ。
「ゾラン殿には、マクシミリアンを引きつけていただきます」
「私がマクシミリアンを?」
「はい。倒す必要はございません。足止めだけで結構です」
ゾランは少し考え、小さく頷いた。
「……足止めだけであれば」
「その間に、残りの者でルクレイン殿下を襲う」
一拍。
「少々、痛い目に遭っていただきましょう」
デーブがにこりと笑った。
リクターは腕を組む。
「人員はどうする」
「私の方で手配いたします」
「用意できるのか?」
「長年、王宮におりますので。伝手はございます」
デーブは穏やかな口調のまま続ける。
「殿下のお名前につながる者は使いません」
リクターは少し考えた。
「どの程度やるつもりだ」
「そうですね……」
デーブはわざとらしく首を傾けた。
「腕の骨を一本か二本、折っておけば十分でしょう」
「…………」
リクターの表情が僅かに曇った。
いくら疑っているとはいえ、相手は実の弟だ。
骨を折る。
その言葉は、さすがに軽く聞き流せるものではなかった。
「……そこまでする必要があるのか」
「中途半端では意味がございません」
デーブの表情は変わらない。
「数日休む程度では、すぐに表へ戻ってこられます。ですが数か月、剣も握れず、公務にも満足に出られない状態となれば話は別です」
「…………」
「その間に、殿下はこちらの陣営を固めることができます」
「陣営を……」
「はい。重臣、貴族、騎士団」
デーブの笑みが少し深くなる。
「ルクレイン殿下がお休みになっている間に、こちらの支持を確実なものにするのです」
リクターは黙り込んだ。
弟に怪我を負わせる。
気分のいい話ではない。
だが――。
(数か月あれば……)
こちらの地盤を固め直せる。
拳を握り締めたまま、リクターはしばらく黙っていた。
やがて、天秤がゆっくりと傾いた。
「……分かった」
デーブの目が僅かに細くなる。
「ただし」
リクターは強い口調で続けた。
「間違っても殺すなよ」
「もちろんでございます」
「命に関わる傷も負わせるな。本当に、しばらく動けなくするだけだ」
「承知しております」
「……その計画でいけ」
「かしこまりました」
頭を下げかけたデーブが、ふと思い出したように顔を上げた。
「それと、殿下」
「まだ何かあるのか」
「当日は、殿下ご自身も少し離れた場所からご覧になってはいかがでしょう」
「私が?」
リクターが眉をひそめる。
「なぜ私が行く必要がある」
「ご自身の目で確かめた方がよろしいかと」
デーブは柔らかく笑った。
「第二王子殿下が痛い目を見るところをご覧になれば、少しは溜飲も下がりましょう」
「…………」
「それに、襲撃者がやりすぎぬよう、殿下ご自身が見届けられる方が安全でございます」
リクターは黙って考えた。
確かに、自分はルクレインを殺したいわけではない。
必要以上の怪我を負わせるつもりもない。
ならば、その場にいれば止めることもできる。
「……一理あるな」
「恐れ入ります」
「ゾラン」
「はい」
「お前は、デーブの指示に従え」
「承知いたしました」
「では、場所と人員はこちらで整えておきます。次の慰問の日程が決まり次第、決行いたします」
「任せる。失敗するなよ」
「もちろんでございます」
デーブは深々と頭を下げた。
その口元に、僅かな笑みが浮かぶ。
リクターからは見えない。
だが、傍らに控えるゾランだけは、そんなデーブをじっと見ていた。
「…………」
デーブが顔を上げる。
「何か?」
「いや」
ゾランは視線を外した。
「何でもない」
「そうですか」
デーブは、いつもの穏やかな笑みに戻った。
「では、準備に取りかからせていただきます」
そう言って、デーブは静かに部屋を後にした。




