第7章 褒める
それから数日後。
ルクレイン(黒田律)は自室の高級ソファに深く腰を沈め、天井を見上げて盛大にため息を吐き出していた。
「……来ない」
『何がだ』
「婚約破棄の知らせ」
『来るわけがなかろう』
「なんでだよ! あれだけ直球の暴言でボロクソに叩きのめしたんだぞ!?」
『お前は最後まで話を聞いておらなんだのか。あの娘は変わると言っておったではないか』
「普通あそこまで言われたらトラウマで二度と顔も見たくなくなるだろ!」
『普通ではないのだろう』
「それはそう」
ルクレインは死んだ目で天井の細密画を見つめた。
あの日以来、ローゼンベルク公爵家から婚約破棄の申し入れは一切ない。
抗議の一つすら皆無。
それどころか翌日には、公爵本人から『娘の不躾な態度を正す貴重なご助言を賜り、親として深く感謝申し上げる』という、意味不明すぎる丁寧な礼状まで届く始末だ。
「なんで親までドMみたく感謝してんだよ……」
『類は友を呼ぶというやつだな』
腰のアークが答えた。
「それ絶対使い方が違うから」
とにかく、ニート計画は完全に失敗した。
ロザリアに嫌われるどころか、好感度はカンスト寸前まで爆上がり。
しかも去り際に「必ずあなたに相応しい女性になってみせますわ!」などという、不吉極まりない宣言まで残していった。
「まあ、髪型くらい変えたところでな」
ルクレインは鼻でフッと笑った。
「元があれだぞ? ドリルだぞ? 縦巻きドリルだぞ? 歩く宝石箱二号だぞ?」
『随分と気にしておるではないか』
「気にしてねえよ!」
『今だけで二回もドリルと口にしておるぞ』
「黙れ、三本目」
『三本目と言うな!!』
その時だった。
コンコン、と扉が軽やかに叩かれた。
「殿下」
マックの声だ。
「何だよ……」
「ロザリア・ローゼンベルク公爵令嬢がお見えです」
ルクレインの身体がピクッと硬直した。
「……帰ってもらって。俺今、精神を整えてるから」
「既に廊下でお待ちでございます」
「じゃあ廊下ごと次元の彼方へ送り返して」
「物理的に不可能でございます」
「融通利かねえな、お前!」
「誠実に職務を全うしているだけでございます」
ルクレインは舌打ちしながら重い身体を起こした。
(来やがったか……)
だが、今回は前とは違う。
前回ですでに見た目の派手さも性格の悪さも、全部ボロクソに否定してやったのだ。
さすがの悪役令嬢も、同じドリル頭で来るほど図太くは――
「失礼いたしますわ、ルクレイン様」
ガチャリ、と扉が開いた。
ルクレインは億劫そうにそちらを見た。
そして――
「…………」
完全に固まった。
部屋に入ってきた少女が、一瞬、本気で誰なのか分からなかった。
髪は金色。
そこだけは同じだ。
だが、腰まで伸びていたあの巨大な縦巻きドリルは跡形もなく消え去っていた。
柔らかなシルクのような金髪は、肩から胸元あたりまで自然にふわりと流れ、毛先だけが優しく揺れている。
あのド派手でギラギラした真紅のドレスも消えていた。
代わりに身につけているのは、身体の線を上品に引き立てる、淡いパステルブルーの可憐なドレス。
首元はすっきりと開き、華奢で綺麗な鎖骨が僅かに覗いている。
首には、小ぶりな宝石を一粒だけあしらった控えめなネックレス。
耳も手首も、宝石のジャラジャラ感は皆無だ。
厚かった化粧もすっかり薄くなっていた。
そのおかげで、以前は派手な化粧に隠れていた素顔が露わになっている。
吸い込まれそうなほど大きな瞳。
すっと通った綺麗な鼻筋。
桜色の小さな唇。
まだ大人になりきっていない、少女らしいあどけなさ。
そして――片方の目元に、ちょこんと佇む小さな泣きぼくろ。
(………………誰だよ???)
いや、誰なのかは分かっている。
分かっているからこそ――大問題なのだ。
ルクレインの脳内で、全警報がけたたましく鳴り響いた。
「……ルクレイン様?」
ロザリアが少し不安そうに首を傾げた。
(声まで……めちゃくちゃ好みだ……)
(終わった……)
その瞬間、ルクレインは胸の内に落ちてきた恐ろしい結論から逃げるため、必死に脳内で自己暗示の呪文を唱え始めた。
(こいつはブス→全然かわいくない→もし可愛かったら→好きになっちゃうかも→婚約維持→国王ルート→五人の勇者→国家戦争→魔王→死ぬ→だからブス)
ロザリアが困ったように眉を下げた。
「や、やはり……おかしいでしょうか……?」
「…………」
「その……前回、ルクレイン様がおっしゃったことを、わたくしなりに一生懸命考えてみましたのだけれど……」
ルクレインは答えられない。
というか、直視すると毒気が抜けるので答えられない。
ロザリアが「やはり駄目だったかしら……」と顔を覗き込むように、一歩距離を詰めてきた。
さらり。
柔らかな金髪が優しく揺れ、甘い香りが漂う。
大きな澄んだ瞳がすぐ目の前にある。
その目元の小さな泣きぼくろへ、一筋の金髪が重なった。
光を受けた金糸が、さらりと揺れる。
「……綺麗だ」
「……え?」
ロザリアの動きが止まった。
ルクレインの動きも止まった。
「…………」
「…………」
静寂。
部屋の中の時間が完全に停止した。
やがて、ロザリアの顔がぱあっと花が咲くように綻んだ。
両手を胸の前できゅっと組み合わせ、潤んだ瞳でうっとりとルクレインを見つめる。
(……今、俺なんて言った???)
ピコンッ!
【♡ CRITICAL】
「…………は?」
ピコンッ!
【新スキルを獲得しました】
【スキル《褒める》Lv.1】
「いらねぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇえええええ!!!」
「な、何ですの急に!?」
「今のなし! 撤回! 完全にノーカン!!」
「何がですの!?」
「『綺麗だ』とか全部なし! 忘れろ!」
「しっかりこの耳で聞きましたわ!」
「聞くな! 記憶から消去しろ!」
「嫌ですわ!」
「なんでだよ!」
「生まれて初めてルクレイン様に褒めていただいたのですもの! 忘れるわけがありませんわ!!」
「事故だ事故! 口が滑っただけだ!」
「では、もう一度滑らせてくださいませ!」
「無茶言うな!!」
ロザリアは両手を真っ赤になった頬に当て、耳まで林檎のように染めていた。
だが、緩む口元はどうしても抑えきれないらしい。
必死に澄ましたおしとやかな顔を作ろうとしているが、顔面がニヤけて完全に崩壊している。
「べ、別に……ルクレイン様に褒めていただきたくて、このような格好にしたわけではありませんのよ……?」
「嘘つけ!!」
「本当ですわ!」
「じゃあ何のためだよ!」
「わたくし自身を根本から見つめ直した結果ですわ!」
「ちょっと目をそらしたな!?」
「そらしてませんわ!」
後ろに控えていた侍女のメイが、ほんの僅かに口元を緩めた。
ルクレインはその変化を見逃さなかった。
「おいメイ!」
「はい」
「今笑っただろ!」
「いいえ」
「絶対今フッと笑ったぞ!」
「気のせいでございます」
「お前もマックと同じポーカーフェイス無敵タイプかよ!!」
マックが無表情のまま深々と一礼した。
「光栄でございます」
「褒めてねえよ!」
ロザリアはこほん、と可愛らしく咳払いをした。
「見た目だけではありませんのよ?」
「何がだよ」
「使用人への接し方も、改めることにいたしましたの」
「へえ……」
「まだ完璧にはできませんけれど……何かをしてもらったら、必ず『ありがとう』と言うようにしておりますわ」
ルクレインがちらりとメイを見る。
メイは静かに、誇らしげに頷いた。
「お嬢様は、確かに以前とは見違えるように変わられました」
「……マジで言ってる?」
「はい」
「なんで俺の悪口で完璧に更生してんだよ……」
『お前の根曲がりの口の悪さも、たまには世の役に立つということだな』
「鉄くずは黙ってろ」
『誰が鉄くずだ!!』
ロザリアが嬉しそうにふふっと微笑んだ。
その眩しすぎる笑顔を見た瞬間、ルクレインは再び心の中で必死に唱える。
(こいつはブス……こいつはブス……ブスでないと困る……!)
ロザリアが不思議そうに首を傾げる。
「ルクレイン様?」
(……でもやっぱりめちゃくちゃ好みだ、畜生!!)
「くそっ!」
「な、何ですの!?」
「なんでもねえよ!」
ルクレインはプイッと顔を背けた。
その時、ロザリアが何かを思い出したように「あ」と声を上げた。
「そうですわ。今日はもう一つ、ルクレイン様にお渡ししたいものがございますの」
「何だよ」
ロザリアがメイへ目配せをする。
メイが恭しく黒い小箱を差し出した。
ロザリアはそれを受け取り、ルクレインの前でぱかっと蓋を開いた。
「こちらですわ」
箱の中に納められていたのは、細身の洗練された腕輪だった。
黒を基調に、縁には美しい銀の細工が走っている。
ゴテゴテした派手さは一切ない。
無駄を削ぎ落とした、クールでスタイリッシュなデザインだ。
そして中央には、小さな深い青色の宝石が一つだけ嵌め込まれていた。
「……これ、普通にかっこいいな」
ルクレインが思わず身を乗り出した。
ロザリアの顔がぱあっと一気に華やぐ。
「お気に召しました!? ふふ、中央の石は、ルクレイン様の瞳のお色に合わせて選びましたの」
「俺の目の色?」
「ええ」
ロザリアは少し恥ずかしそうに、上目遣いに微笑んだ。
「とても……綺麗なお色ですもの」
「…………」
ルクレインはまたしても明後日の方向へ視線を逸らした。
(そういう殺傷能力高いこと、ナチュラルに言うなよ……)
「……何の腕輪なんだよ」
「お守りですわ!」
「お守り?」
「はい。ですから、できれば肌身離さず、常に身につけていてくださいませ」
「常に?」
「できれば、ですわ!」
「まあ、邪魔にならないデザインだしな」
ルクレインは箱から腕輪を取り出した。
黒銀の金属は見た目以上に軽く、手首に嵌めると吸い付くように馴染んだ。
中央の小さな青い宝石が、淡い光を一瞬だけ静かに宿す。
「お、いいじゃん。気に入った」
「本当ですの!?」
「こういうシンプルなのは好き」
ピコンッ!
【♡ HIT】
「またシステムが出た!!」
「何がですの?」
「こっちの話!!」
ロザリアは腕輪をつけたルクレインの手首を愛おしそうに見つめ、何度も満足そうに頷いている。
「とてもお似合いですわ……!」
「そうか?」
「はい! 絶対に外さないでくださいませね?」
「なんで途中から命令口調なんだよ」
「お守りですもの!」
「まあ、外す理由もないしいいけど」
その言葉を聞いた瞬間、ロザリアがにっこりと、どこか妖しげな微笑みを浮かべた。
その笑顔を見て、ルクレインの背筋にゾクッと妙な悪寒が走る。
「……何だよ」
「何でもありませんわ」
「今なんか企んでる顔だったぞ?」
「気のせいですわ」
「俺が言うのもなんだけど、お前そういう顔分かりやすいからな」
「失礼ですわーっ!」
◇
その日の夕方。
ロザリアは終始上機嫌でローゼンベルク公爵邸へ戻ってきた。
自室に入るなり、ドレスの着替えすら後回しにして一直線に机へ向かう。
「お嬢様?」
後ろからついてきたメイが首を傾げた。
ロザリアは返事もせず、引き出しの奥から一枚の薄い漆黒の石板を取り出した。
表面には幾重にも細かな魔法陣と幾何学模様が走り、王都周辺の地図が立体的に浮かび上がっている。
そして、その地図の中心付近――
小さな青い光点が、淡く瞬いていた。
「……ふふ」
ロザリアの口元が思い切り緩む。
彼女は青い光点を、指先でそっと優しく撫でた。
「ふふふ……」
メイが少しだけ眉を上げた。
「お嬢様。先ほどから何をなさっていらっしゃるのですか?」
「見て、メイ!」
ロザリアが満面の笑みで石板を指さした。
「ここに……ルクレイン様がいらっしゃいますの……!」
「……はい?」
「この青い光ですわ!」
メイが石板を覗き込む。
「先ほどお渡しした腕輪の中央に、青い宝石がございましたでしょう?」
「ございました」
「あの宝石と、この石板は対になった追跡魔道具ですの」
「……と申しますと?」
「あの腕輪が今どこにあるのか、こちらに表示されますのよ……!」
「…………」
メイが一瞬だけ目を見開いた。
ロザリアはうっとりと瞳を潤ませながら、石板の青い光点を撫で続ける。
「これで……ルクレイン様がどこにいらっしゃっても、わたくしには分かりますの……」
「…………」
「どれほど離れていても、これでいつでもルクレイン様と一緒ですわ……ふふ……」
「…………」
メイは沈黙した。
ロザリアが少しだけ不安そうに振り返る。
「……メイ?」
静寂が室内を支配する。
メイは石板を見た。
淡く瞬く青い光点を見た。
そして――
「まあ……」
ぽつりと感嘆の声を漏らした。
「なんて素敵なことでしょう」
ロザリアの顔がぱぁぁっと輝いた。
「分かります!? メイ!」
「はい。大変よく理解できます」
「ですわよね! 愛するお方の居場所を把握するのは、婚約者として当然の嗜みですわよね!」
「はい。完璧なリスク管理でございます」
二人は仲良く並んで石板を覗き込んだ。
青い光点は、何も知らないルクレインの居場所を指し示したまま、静かに瞬き続けていた。




