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第44章 侵食

 王都は光でできている、と誰かが言った。

 半分だけ正しい。


 王城から伸びる大通りは、昼も夜も馬車の車輪で磨かれている。商店の棚には遠い国の香辛料と絹が並び、着飾った連中がそれを値切りもせずに買っていく。

 だが光が強ければ、影も濃くなる。


 大通りを外れて半刻も歩けば、石畳は泥に変わる。

 傾いた家屋。腐った水の臭い。昼間から酒瓶を抱いて眠る男たち。

 王都の外れ、スラム街。


 そこでは大小の半グレどもが、野良犬のように縄張りを噛み合っていた。盗み、恐喝、強盗。奪った金は一晩で酒に変わり、翌朝にはまた誰かから奪う。

 それがこの街の経済だった。

 ――少なくとも、最近までは。


 *


 スラムの一角。打ち捨てられた倉庫。

 天井の破れ目から、灰色の光が斜めに落ちていた。


 十数人の男が、その光の下に集まっていた。

 どいつもこいつも、スラムで名の通った頭目だ。互いに血を流させたことのない組み合わせは、一つもない。


「おい、ムガデス。何のつもりだ?」

「俺たちを一か所に集めるたぁ、いい度胸じゃねえか」

「先月の借り、まだ返してもらってねえぞ」


 悪態が埃と一緒に舞った。

 視線の先には、二人の兄弟が立っていた。


 兄のムガデス。

 枯れ枝のような男だった。

 青白い顔に、落ち窪んだ目玉が二つ。両腕は膝の下まで垂れ、背を丸めて立つ姿は、墓穴から這い出したまま帰り道を忘れた死人を思わせた。

 腰の左右に、短剣が一本ずつ。


 弟のザリガ。

 兄の分の肉まで全部持っていったような男だった。

 丸太の腕。岩の胸板。首は肩の肉に埋もれて見えない。

 両の腕には、無骨な鉄の輪が嵌まっている。


「へへっ、兄貴。こいつら全員、ぶん殴っていいのか?」

「黙ってろ、ザリガ」

「一人くらいいいだろ?」

「話が終わってからだ」

「ちぇっ」


 ザリガは鼻を鳴らした。おあずけを食った犬の顔だった。


 ムガデスは頭目たちを順に眺め、唇の端だけで笑った。


「てめえら、いつまでくだらねえ縄張り争いを続けるつもりだ?」

「ああ?」

「昨日は東の連中と殴り合い。今日は西の連中と殺し合い。で、手に入るのは酒代にもならねえ小銭だ」

「てめえだって同じだろうが」

「ああ。だから飽きたんだよ」


 ムガデスは長い腕ごと肩をすくめた。


「もっとでけえ金を稼ぎたくねえか?」

「……何?」

「今までとは桁が違う話だ」


 足音がした。

 倉庫の奥、光の届かない場所から。

 急がない足音だった。ここに自分を急がせる者などいないと知っている人間の歩き方だ。


「おやおや。ずいぶんと賑やかですね」


 男が一人、光の中へ出てきた。

 仕立てのいい上着。磨かれた靴。柔らかな笑み。

 スラムの倉庫には、どれも似合わなかった。


 シリウス商会の幹部、ミーム。


「誰だ、てめえ?」

「商人がこんなところに何の用だ?」


 ミームは答えなかった。

 代わりに、提げてきた革袋を机に置いた。


 じゃらり。


 口の開いた袋から、金色がこぼれた。

 ぎっしりと詰まった金貨。薄暗い倉庫の中で、そこだけが燃えていた。


「……おい」

「金貨だ……」

「全部、本物か?」


 男たちの目の色が変わった。

 飢えた目だった。この街では、それがいちばんありふれた目だ。


「今までの小銭稼ぎは終わりです」


 ミームの声は静かだった。

 静かすぎた。怒鳴り声に慣れた男たちが、思わず口をつぐむほどに。


「皆さんには、もっと大きな仕事をしていただきたい」

「どんな仕事だ?」

「商売ですよ」

「……商売?」

「ええ。王都には、実に多くの商会がございます。その中には、少々頑固な経営者もおりましてね」


 ミームは金貨を一枚、指先でつまみ上げた。光にかざし、裏返し、また戻す。


「そういう方々に、少しばかり考えを改めていただくのです」


 男たちは顔を見合わせた。


「つまり、脅せってことか?」

「解釈はお任せします」


 笑みは微塵も動かなかった。


「ただし、皆さんが今後受け取る報酬は、これまでとは比較になりません」

「……本当かよ」

「もちろんです」


 ムガデスが一歩、前へ出た。


「聞いただろ、てめえら。俺たちはこれからミームの旦那の仕事をする」

「待てよ! 何で俺たちがてめえの下につかなきゃならねえ!」


 大男が一人、椅子を蹴って立ち上がった。


「俺は認めねえぞ!」


「へへっ」

 ザリガが笑った。

「じゃあ、俺と遊ぼうぜ」

「何だと?」


 大男が振り向くより、拳のほうが早かった。


 ゴッ。


 骨と床がぶつかる音がした。

「ぐはっ!!」

 大男は床に伸びたまま、自分の身に何が起きたのかを考えていた。考えはまとまりそうになかった。


 ザリガはそれを見下ろし、嬉しそうに笑った。子供が蟻の巣に水を流すときの顔だった。


「なあ、兄貴。もっとやっていいか?」

「そこまでだ」

「えー」

「殺すな。こいつにも仕事がある」

「ちぇっ」


 倉庫が静まり返った。

 天井の穴から、鳩の羽音がひとつ聞こえた。


 ミームはその光景を、市場で野菜の品定めでもするように眺めていた。


「結構。実に分かりやすい」


 ムガデスが金貨の袋を持ち上げた。


「選べよ。俺たちについてきて金持ちになるか、今までどおりゴミみてえな暮らしを続けるか」


 誰も答えなかった。

 答えは、足が出した。


 一人。

 また一人。

 ムガデスの前へ、男たちが進み出た。

 最後まで動かなかった者はいなかった。床で伸びている男を除けば。


 その日、王都のスラムにひしめいていた半グレどもは、一つの組織に呑み込まれ始めた。


 ミームの金。

 ムガデスの頭。

 ザリガの拳。

 そして、魔族から与えられた魔道具――ムガデスの双短剣と、ザリガの両腕の鉄輪。


 兄弟は、ミームが魔族であることを知っていた。

 知っていて、どうでもよかった。

 金と力。それさえ手に入るなら、払い主が人間か魔族かなど、釣り銭の数え間違いほどの意味もなかった。


 *


 それから数週間。

 王都の商人たちのあいだで、妙な事件が続いた。


 ある商会の荷馬車が、王都へ向かう街道で襲われた。小麦は消え、護衛たちは担架で帰ってきた。


 別の商会には、毎日のように荒くれ者が現れた。客に絡み、店員を小突き、棚の商品を床へ払い落とす。三日で客足が途絶えた。


 さらに別の商会では、夜中に倉庫が燃えた。火の気のない倉庫だった。朝になって残っていたのは灰と、商会主が抱え込んだ借金だけだった。


 訴えは衛兵の詰所に山と積まれた。

 犯人はなかなか捕まらなかった。


 捕まるのは、末端の小悪党ばかりだ。

 彼らは何も知らなかった。誰に雇われたのかも、金がどこから来たのかも。知らないことは喋れない。喋れない者を何人吊るしても、糸の先には届かない。

 よくできた仕組みだった。


 そんな頃。

 ある中堅商会の扉を、二人の男が叩いた。

 叩いた、というのは控えめな言い方だ。


 *


「失礼するぜ」


 商業区。創業八十年の老舗商会。

 磨き込まれた樫の扉が、蝶番ごと悲鳴を上げて開いた。


 先に入ってきたのは、手足の異様に長い痩せた男。

 その背後から、戸口を塞ぐほどの巨漢が身を屈めて現れた。


「……どちら様でしょうか」


 応対に出た商会主は、五十がらみの穏やかな顔の男だった。帳簿と得意先と、八十年分の信用だけを相手にしてきた顔だ。こういう客の扱いは、帳簿のどこにも書いていない。


「ムガデスだ。ちょいと商売の話があってな」

「商売?」

「ああ。あんたの商会を、シリウス商会に譲ってもらいたい」

「……何ですと?」

「難しい話じゃねえ。看板はそのままでいい。従業員も残してやる。ただ、経営権を渡せってだけだ」


 商会主の顔から、穏やかさが抜け落ちた。


「お断りします」

「即答かよ」

「この商会は、父から受け継いだ大切な店です。金で売り渡すつもりなどありません」

「へえ」


 ムガデスは感心したように頷いた。


「立派だねえ」


 長い指が、腰の短剣の柄をとん、とん、と叩いた。

 何かを数えているようだった。


「だが、世の中には、売りたくなくても売らなきゃならねえ時がある」

「脅しているのですか?」

「忠告してやってんだよ」


 そのとき、奥の部屋から女の声がした。


「あなた、どうしたの?」


 商会主の妻だった。

 スカートの陰から、小さな顔が覗いていた。


「お父さん?」

「お前たち、奥へ戻っていなさい!」


 商会主の声が裏返った。

 遅かった。


「……へへっ」


 ザリガが笑った。


「兄貴。あっちにいるの、こいつの家族か?」

「おい、ザリガ。余計なことすんなよ」

「ちょっと遊ぶだけだって」

「待て!」


 巨体が動いた。

 その図体からは想像もつかない速さだった。


「やめろ!!」


 商会主の叫びが終わる前に、音が二つした。

 鈍い音だった。濡れた麻袋を床に落としたような。


 短い悲鳴。

 それきり、何も聞こえなくなった。


「…………」


 商会主が膝から崩れた。

 糸の切れた操り人形でも、もう少し上手に倒れる。


「……おい」


 ムガデスの声が一段、低くなった。


「ザリガ」

「あ?」

「てめえ、何してんだ」


 ザリガが振り返った。拳の先から、何かが一滴落ちた。


「へへっ。邪魔だったからよ」

「この馬鹿野郎!!」


 ムガデスが吼えた。


「そいつらは、この親父に言うことを聞かせるための道具だろうが! 勝手に壊してどうすんだ!!」

「……何だよ。兄貴も殺すつもりだったんだろ?」

「順番ってもんがあんだよ!」


 舌打ちが一つ、静まり返った店に響いた。

 ムガデスが怒っているのは、壊れた道具の値段についてだけだった。


 商会主は床に膝をついたまま、動かなかった。

 やがて、ゆっくりと顔が上がった。


「……貴様ら」


 声が震えていた。恐怖の震えではなかった。


「貴様らだけは……絶対に許さん……!」


 ムガデスはしゃがみ込み、商会主と目の高さを合わせた。商談の続きをする男の顔だった。


「なあ、親父。まだ商会を渡す気にならねえか?」

「……殺せ」

「あ?」

「貴様らに渡すくらいなら……殺せ!!」


 ムガデスはしばらく、男の目を覗き込んでいた。

 そこに、交渉の余地が一片でも残っていないか探すように。

 何もなかった。


「あーあ」


 長い、長い溜め息だった。


「だから言っただろうが。人質を先に殺すと、こうなるんだよ」


 すらり、と短剣が鞘を離れた。


「……残念だ」


 一閃。


 商会主は、それ以上何も言わなかった。

 言うべきことは、もう言い終えていた。


「へへっ」

 ザリガが笑った。

「兄貴、結局殺すんじゃねえか」


 ムガデスは、男の上着の裾で刃を拭った。


「順番が違うんだよ、馬鹿が」


 その目に、怒りはなかった。後悔もなかった。

 あったのは、帳尻の合わない勘定書きを眺める男の苛立ちだけだった。


「さて」


 ムガデスは戸口に控えていた手下どもへ顎をしゃくった。


「帳簿を探せ。契約書もだ。取引先の一覧も忘れるな」

「へい!」

「従業員には余計なことを喋らせるな。使える奴は残しておけ」

「兄貴、店はどうすんだ?」

「決まってんだろ」


 薄い笑みが戻った。


「主人がいなくなっただけだ。商会まで潰す必要はねえ」


 手下どもが店の奥へ散っていく。引き出しを開ける音。紙をめくる音。

 八十年が、一枚ずつ値札に変わっていく音だった。


 ムガデスは床の男を一瞥した。


「まったく。無駄な手間かけさせやがって」


 *


 同じ頃。

 別の商業区で、別の商会主が頭を抱えていた。


「……もう駄目だ」


 倉庫は焼けた。

 荷馬車は襲われた。

 取引先からは、納期を守れないなら契約を切ると通告が来ている。

 来月には、従業員に払う給金すら残らない。


 机の上の帳簿は、どのページを開いても赤かった。


「失礼いたします」


 扉が、礼儀正しく二度叩かれた。

 入ってきたのは、身なりのいい商人だった。


「シリウス商会の者でございます」

「……シリウス商会?」

「このたび、御商会が大変なご苦労をされていると伺いまして」


 男は穏やかに微笑んだ。

 医者が病室に入ってくるときの笑みだった。病名をもう知っている医者の。


「もしよろしければ、当商会でお力になれないかと思いまして」

「……どういうことです?」

「商品の安定供給。資金の融通。輸送の手配。必要な支援はすべてお引き受けいたします」


 商会主の顔に、溺れかけた男が流木を見つけたときの色が差した。


「本当ですか……?」

「もちろんでございます」


 一枚の契約書が、机の上を滑ってきた。


「ただし、今後の主要な取引につきましては、当商会を通していただくことになります」

「……それだけで?」

「ええ。お店の名前も、従業員の皆様も、そのままで結構です」


 商会主は契約書を見つめた。


 何十年も守ってきた店。

 従業員たちの暮らし。

 家族の明日。


 それが、この紙一枚で助かるのなら。


「……お願いします」


 ペン先が震えた。署名は少し歪んだ。

 誰もそれを気にしなかった。


「賢明なご判断でございます」


 使者は満足げに頷いた。


「ありがとうございます……! これで、店を守れます……!」


 深々と下げられた頭の上で、使者は契約書を丁寧に畳み、懐へ収めた。


 商会主は知らない。

 自分の首に縄をかけた手と、今その縄を解いてみせた手が、同じ主人の袖から伸びていることを。


 *


 シリウス商会、王都本店。

 最奥の執務室には、紙とインクと、上等な煙草の匂いがした。


 ミームは机に積まれた報告書に目を通していた。


 新たに傘下へ加わった商会。

 主要取引先の切り替え。

 物流網の掌握。

 競争相手の撤退。


 どの数字も、行儀よく右肩上がりに並んでいる。


「……順調ですね」


 向かいにはムガデスが座り、その背後にザリガが壁のように立っていた。


「ミームの旦那。例の商会も片づけましたぜ」

「そうですか」

「ちょいと手違いはありましたがね」

「手違い?」

「主人が死にまして」


 ミームの目が、書類から上がった。


「……私は、商会を手に入れろと命じたはずですが」

「手に入れましたぜ。主人がいなくなっただけで」


 ムガデスが薄く笑う。

 沈黙が、部屋の隅まで行って戻ってきた。


「困りましたねえ」


 ミームは小さく溜め息をついた。


「死人は契約書に署名できません」

「へへっ。そういう細けえことは旦那の得意分野でしょう?」

「まったく……」


 ミームは報告書に目を戻した。

 死んだ男の店の資産と取引先が、几帳面な字で並んでいた。


「まあ、資産が残っているのなら、使い道はいくらでもあります」

「さすが旦那」

「ただし、今後は無駄な殺しを控えてください」

「へい」

「商人は、生かして働かせた方が利益になるのですから」


 慈悲ではなかった。

 ただの算盤勘定だった。


 ミームは机に広げた王都の地図へ視線を移した。

 いくつもの商会に、赤い印。

 どれも、すでにシリウス商会の影の下に入った店だ。

 地図は、ゆっくりと出血しているように見えた。


「壊すだけでは、利益になりません」


 ペン先が、また一つ、赤を落とした。


「壊した後に、何を手に入れるか。それが商売というものです」


 ザリガが退屈そうに首を鳴らした。薪が爆ぜるような、乾いた音だった。


「なあ、旦那。次はどこをぶっ壊せばいいんだ?」


 ミームは微笑んだ。


「そうですね。次は、もう少し大きな商会にしましょうか」


 細い指が地図の上を這い、王都の中心――主要な商業区の上で止まった。


 王国の経済は、まだ何も気づいていなかった。

 足元の床板の下で、何かが静かに、確実に、根を張り始めていることに。


 魔族の侵食は、もう始まっていた。


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