第章 戦舞
王族や貴族たちへの挨拶がようやくひと段落した、その時だった。
大広間の前方へ、一人の司会役が進み出る。
「それでは皆様――大変お待たせいたしました!」
朗々とした声が広い会場に響き渡ると同時に、楽団が奏でていた音がゆっくりと途切れた。
煌々と輝いていた天井のシャンデリアや、壁際の魔導灯がしずしずと絞られていく。
大広間全体が重厚な薄闇に包まれ、代わりに中央の磨き上げられた大理石の上にだけ、スポットライトのような淡い光の円が浮かび上がった。
そこが、今夜の舞台。
楽団が静かに楽器を構え、ゆったりとした優雅なワルツを奏で始める。
だが――誰も中央へ踏み出そうとはしない。
貴族たちは談笑を止め、ただ静かに光の円を見つめている。
「……なんで誰も踊らねえんだ?」
ルクレインが不審そうに小声で呟く。
隣に立つマクシミリアンが、微動だにせず答えた。
「最初の一曲は、王族の方が舞われるのを待つのが慣例でございます」
「は?」
「つまり、王族が舞われぬ限り、今夜の舞踏会は永遠に始まりません」
「……マジで?」
ルクレインの顔がひきつった。
(嫌な予感しかしない――)
「ルクレイン様ーっ!」
「げぇっ」
聞き慣れた可憐な声。
振り返る間もなく、金色の髪をなびかせたロザリアが、ふわりとドレスの裾を揺らして駆け寄ってきた。
胸の前でキュッと両手を重ね、期待に満ちた緑の瞳で上目遣いにルクレインを見つめてくる。
「ルクレイン様! どうぞ最初の一曲、私とお相手していただけませんか?」
(来た! 最悪の確定イベント来た!!)
こういう格式高い舞踏会では、男から誘うのが筋じゃないのか。
なぜこのゲーム世界のヒロインは、自ら正面突破でフラグを踏みに来るのか。
「いや、俺は――」
「参りましょう!」
「ちょ、待てって! 無理無理無理! 絶対無理!」
「大丈夫ですわ!」
「根拠がねえだろ根拠が!!」
ルクレインの必死の抵抗など、蚊の鳴くようなもの。
ロザリアは破顔一笑、ルクレインの手を強引に引き寄せて光の円の中へと躍り出た。
瞬間――。
会場中の数百の視線が、津波のように二人へ集中した。
「おお……お二人か!」
「第二王子殿下とロザリア様だ」
「なんと絵になる……まさに至高の二人……!」
湧き起こる期待の歓声。
ルクレインの額に嫌な汗が噴き出す。
目の前にはロザリア。
頬を朱に染め、瞳をウルウルと輝かせて自分を見つめている。
至近距離で見る彼女は、身の危険を感じるほど可愛かった。
(まずい。超危険)
ドクン、と心臓が跳ねる。
(待て待て待て! この距離で手を取って、腰に手を回して、曲に合わせて見つめ合って踊る!? そんなの普通に惚れるだろ!!)
それだけではない。
ここで婚約者であるロザリアと甘い最初の一曲を踊れば、「二人の関係は完璧」「結婚秒読み」という既成事実が、王国中に広まってしまう。
(逃げろ! 脳みそフル回転させろ!!)
腹痛――さっきマックに潰された。
気絶――不自然すぎる。
転ぶ――ロザリアが「大丈夫ですか!?」と介抱してきて、距離が近くなるだけだ。
八方塞がり。完全に詰み。
「ルクレイン様……?」
ロザリアが不安そうに首を傾げた。
その瞬間。
ルクレインの脳裏に閃光が走った。
(――これだ!!)
ルクレインは、そっとロザリアの手を離した。
「……ルクレイン様?」
固まるロザリア。
周囲の貴族たちからも、ざわめきが漏れる。
ルクレインはゆっくりと目を閉じ、この世の苦悩をすべて背負ったような、重厚でシリアスな顔を作った。
「ロザリア」
「……はい」
「今の俺には、君と踊る資格はない」
「え……」
「確かに俺たちは婚約している。……だが、俺はまだ『結婚』なんて甘っちょろいものを考えられる場所にいないんだ」
真剣な眼差しでロザリアを見つめ直す。
「俺には……まだやらなきゃならないことがある」
実際には何も決まっていない。
だが、声のトーンだけは映画の主人公並みにかっこよかった。
「だから今は、君と踊れない」
「ルクレイン様……っ」
ロザリアの大きな瞳に、じわりと涙が浮かぶ。
(よし! 効いてる!)
ルクレインは一拍置き、さらにキザな殺し文句を叩き込んだ。
「すべてが終わった時――その時は、君と踊るよ」
(いつ終わるかなんて一生指定してねえけどな!)
完璧。回避完了。
だが、ここで自分が引けば舞踏会そのものが白ける。
だからこそ――。
「その代わり」
「はい……?」
「今日は、そこで見ていてくれ。……俺が一人で踊る」
「……!」
息を呑むロザリア。
(今日は、そこで見ていてくれ。俺が一人で踊る)
その言葉は、ロザリアの超乙女脳の中で、光の速さで超絶変換された。
(――他の誰でもない、君のためだけに踊る。だから……俺だけを見ていてくれ)
「……ッ!!」
ロザリアの顔が一瞬で真っ赤に沸騰した。
胸の前で拳を握りしめ、感涙にむせびながら頷く。
「はい……! 見ています! ずっと、ずっとルクレイン様だけを見ていますわ……!」
「……お、おう」
(なんでそんなに感動してんだこの子……?)
困惑しつつも、ルクレインは腰元へ手を伸ばした。
短剣の姿をした聖剣アークを鞘ごと腰から外し、すらりと抜き放つ。
右手にアーク。左手にその鞘。
『なんじゃ、ルクレイン?』
「アーク。光れるか?」
『……は?』
「お前、光れるか聞いてんだよ」
『貴様! 聖剣たるわしを何だと思っておる!!』
「聖剣」
『分かっておるではないか!』
「じゃあ光れるだろ。右は赤、左の鞘は青。できるか?」
『できるが……おい、何をする気じゃ!?』
「黙って任せろ」
ルクレインは司会役を振り返った。
「おい」
「は、はいっ! 殿下!」
「会場の明かり、もっと落とせ。俺の周り以外真っ暗でいい」
「は、はい! ただちに!」
続いて、楽団の指揮者へ鋭い視線を送る。
「おい、指揮者」
「はいっ!」
「一番ノれる曲を頼む」
「……ノ、ノれる曲、でございますか?」
「テンポが速くて、激しくて、聴いてるだけで血が騒ぐやつだ!」
指揮者は一瞬目を見開いたが、王子の気迫に押されて力強く頷いた。
「速い拍子の軍旅舞曲を! 全パート、全力で参ります!」
大広間の明かりが完全に絞られた。
静寂と暗闇の中、中央に立つルクレインだけに光が注がれる。
「アーク」
『……覚悟は決めたぞ。何が来ても知らんからな!』
ぼうっ。
右手のアークの刃が、鮮烈な「赤」に発光した。
続いて、左手の鞘の先が、澄み切った「青」に輝く。
暗闇に浮かび上がる、赤と青の二光。
ルクレインは両手を胸の前で交差し、静かに身構えた。
ジャンッッ!!
楽団の演奏が弾けた。
先ほどまでのワルツとは異質な、激しく、疾走感あふれる旋律。
弦と打楽器が激しく交錯し、会場の空気を一変させる。
ワン、ツー、スリー、フォー。
ルクレインは心の中でカウントを刻む。
まだ動かない。
音と拍子が、自分の鼓動と完全に同期した――その瞬間!
(ここだ――ッ!!)
ズバッッ!!
左腕の青い光が、暗闇を切り裂いた。
くるくると高速で円を描き、残像の輪を生み出す。
「……!?」
貴族たちが息を呑んだ。
次の瞬間、ルクレインの右腕――赤い光が、青い輪の中心を貫くように閃いた。
右へ振る! 左へ払う!
両腕を交差し、深く腰を落として全身をひねる!
前世――引きこもりの薄暗い四畳半で、血が滲むほど練習した『オタ芸』のキレが、今ここで異次元の演武へと進化する!
鮮烈な赤と青の光跡が、幾何学模様となって暗闇に描かれていく。
高速の回転、交差、跳躍。
「おおおお……っ!?」
「なんだあの動きは……!?」
「速い! 光が……光が舞っている!」
ワルツなどという生ぬるいものではない。
だが、激しい楽曲のリズムと、ルクレインの異様なほど完璧な演武は、聴衆の魂をダイレクトに揺さぶった。
「綺麗……」
ロザリアがぽつりと呟く。
瞳を輝かせ、息を吸うのも忘れて見入っている。
アルヴァリオン国王も、第一王子リクターも、言葉を失って立ち尽くしていた。
少し後ろでは、六歳の第三王子トーマスが目を限界まで見開き、ルクレインの動きに合わせて自分も手足を必死に動かしていた。
「トーマス様……何をしておられるのですか?」
ガーベラが呆れ顔で尋ねる。
「覚えるんだ……兄上のあの動き……絶対、あとで完璧にやる……!」
そして――曲は中盤の盛り上がりへ。
ルクレインは両足を大きく開き、さらに深く腰を落とした。
(よし――コールだ!!)
両手を勢いよく交互に天へ突き上げながら、ルクレインは腹の底から叫んだ。
「ラブリー! ラブリー! ラブリー! GO!!」
「「「……!?」」」
静まり返る貴族たち。
「ら……ラブリー……?」
「ゴー……?」
だが、ルクレインは完全にゾーンに入っていた。
「ラブリー! ラブリー! ラブリー! GO!!」
突き上げられる赤と青の光!
その圧倒的な気迫に、貴族たちが勝手な解釈を爆発させ始めた。
「待て……あの赤く光る短剣……まさか聖剣アークか!?」
「聖剣をあそこまで激しく振り回しながら、一切の乱れがないだと!?」
「……分かったぞ! あれは舞ではない! 戦いの前に己の魂を奮い立たせる秘儀……『戦舞』だ!!」
「『ラブリー』とは古代語の咆哮……! 敵の戦意を挫く不屈の雄叫びなのだ!!」
(違う。ただの応援コールだ)
歓声と誤解が爆発する中――ルクレインの意識は、ふっと遠い記憶へと飛んだ。
◆
――前世。
小さな四畳半の部屋。
画面の向こう、眩しいライブ会場で楽しそうに光を振る人々。
いつか自分も、あの輪に入りたかった。
誰かと一緒に、笑い合いたかった。
だから、一人で覚えた。
動画を何度も何度も巻き戻し、狭い部屋で壁にぶつかりながら、何日も、何週間も練習した。
そして、ようやく完璧に打てるようになった夜。
汗だくになってポーズを決め、「できた!」と笑った直後。
部屋を支配したのは――圧倒的な静寂だった。
誰もいない。
見ている者も、褒めてくれる者も、一緒に笑う者もいない。
ただ、虚しくエアコンの音だけが響いていた。
あの時の、胸が引きちぎれるような寂しさ。
ポロポロと溢れ落ちた涙の味を、今でも覚えている。
◆
――ハッとして、ルクレインは顔を上げた。
目の前には。
頬を染め、胸の前で手を組み、自分を穴が開くほど見つめるロザリアがいる。
無表情ながら、じっと温かい眼差しを向けるマクシミリアンがいる。
真剣な顔で手帳に何かを書き留めるリクター。
目を輝かせるトーマス。
そして――大広間を埋め尽くす数百人の人々が、息を呑んで自分だけを見つめていた。
光の中、ルクレインは小さく息を吐いた。
(……ああ)
アークを握る手に、自然と力が入る。
(俺……もう、一人じゃないんだ)
胸の奥が、熱いものでいっぱいになる。
孤独だった前世の自分に、教えてやりたかった。
お前のその虚しい練習は、いつか最高に眩しい場所で、みんなを笑顔にするんだぞ、と。
「……よし」
『どうした、ルクレイン!?』
「アーク! もっと派手にいくぞ!!」
『ほう!』
「赤と青だけじゃ足りねえ! 色、どんどん変えろ!!」
『ハッハッハ! 任せよ!! わしの真の光を見せてやるわ!!』
聖剣アークが歓喜の叫びをあげる。
次の瞬間――!
赤! 橙! 金! 緑! 青! 紫! 白!
七色の光が、目まぐるしく刃と鞘を駆け巡った!
「「「おおおおおおおおっっ!!!」」」
大歓声。
ルクレインの振る光は、もはや夜空を彩る大花火。
円を描き、螺旋を刻み、光の帯が大広間全体を包み込んでいく!
「いくぞアークッ!」
『おうともさ!!』
「うおおおおおおおっ!!」
『もっと回せぇぇぇぇい!!』
楽団もノリノリで激奏を繰り広げる。
極限のテンポ。極限のキレ。
ルクレインの動きは最高潮に達し、最後に全身の力を込めて、七色の光を大きく振り抜いた――!
ズバァァァァンッッ!!
大広間の天井へ向けて弾ける、幾重もの光の粒子!
そして――ピタリ。
完璧なキメポーズとともに、演奏が止まった。
静寂。
ハァ……ハァ……と、ルクレインの荒い息遣いだけが響く。
一秒。
二秒。
「……おおおおおおおおおおおおっっ!!!!」
地鳴りのような大歓声が、爆発した。
割れんばかりの拍手! 歓声! 称賛の嵐!
「素晴らしいっ!」
「これぞ第二王子殿下の『戦舞』!!」
「なんという神々しさだ!!」
ルクレインは肩で息をしながら、ニッと口元を緩めた。
(よし……! ダンス……完全回避……!)
その瞬間。
「ルクレイン様ぁぁぁぁぁっ!!」
「ぶへっ!?」
ロザリアが弾丸のような勢いで飛びついてきた。
「凄いです! 凄すぎますわルクレイン様っ!」
「ちょ! 近い近い近い!」
「私のために、あんなにも激しく尊い舞を……っ!」
「だから違うって言ってんだろ!?」
胸に抱きついてくるロザリアの柔らかい感触と、金髪の甘い香り。
周囲からは「なんと睦まじい」「お似合いだ」と温かい拍手が送られている。
(やめろおおお! 普通に踊るより百倍目立ってるだろ!!)
◆
――この夜、第二王子ルクレインが披露した謎の舞は、瞬く間に「伝説の戦舞」として王国中に広まった。
後に、大事な試練や大会の前に己を鼓舞するための儀式として定着し、それを踊った者は必ず大活躍するという都市伝説まで生まれることになる。
その起源が、「婚約者とのダンスから逃げるために、元引きこもりが全力で打ったオタ芸」であったことを知る者は、誰一人いなかった。
◆
深夜。
体力を使い果たしたルクレインは、大広間の壁際の椅子に深く身体を沈めていた。
「……死ぬほど疲れた……」
天井を見上げ、ぼんやりと息を吐く。
だが、その口元はどこか満足そうに緩んでいた。
「……でも。結構、楽しかったかもな」
腰元から、誇らしげな声が響く。
『うむ! 最高に楽しかったぞ! またやろうではないか!』
「二度とやるかよ、バカ」
ルクレインは小さく笑い、静かに目を閉じた。
賑やかな宴の音と温かな光が、心地よく全身を包み込んでいた。
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