第30話 怪物
マクシミリアンが、黒き妖刀|《焔》を手に、静かに前へ踏み出した。
その正面。
グロガリは血走った黄色い瞳で、マクシミリアンを狂おしく睨みつけていた。
右隣には、最後に残った一体のアギト。
「…………」
グロガリが、不意にそちらへ顔を向ける。
「……?」
アギトが怪訝そうに眉をひそめた。
「どうした、グロガリ――」
言葉が途切れる。
グロガリの口元が、みちみちと異様な音を立て、左右へ裂け始めた。
「……は?」
普通の口の倍、いや三倍ほどまで大きく開いていく。
顎が突き出し、鼻先が伸び、顔面そのものが牙と鱗に覆われた凶暴なワニの異形へと変貌していく。
「お、おい……!?」
アギトが一歩後退した、その瞬間――。
ガブッッッ!!
「ぐぎゃああぁぁッ!?」
巨大な顎が、アギトの顔面に丸ごと喰らいついた。
「グ、グロガリ! 何しやが――」
ブチィッ!!
絶叫が、ぶつりと途切れる。
頭部が、首ごと食いちぎられた。
ゴリッ! バキバキッ! グシャッ!
グロガリは狂ったように顎を動かし、頭蓋も鱗も牙も、すべてを粉々に噛み砕いて呑み込んでいく。
頭を失って崩れ落ちる巨体を、グロガリは逃すまいと巨大な爪で掴み上げた。
「力を――」
牙の隙間から溢れるのは、泥のように濁った殺気。
「よこせぇぇッ!!」
ガブッ!! ブチィッ!!
肉を引き裂き、骨を噛み砕き、かつての仲間だった肉体を餓狼のごとく貪り喰らう。
「もっとだ……もっとだァッ! 俺に、力をよこせぇぇぇッ!!」
咀嚼のたび、グロガリの身体が急激に肥大化していく。
肩が膨れ上がり、腕はさらに太く。
黒緑色の鱗が、重厚な鎧となって全身を覆う。
背が盛り上がり、牙が、爪が、殺戮のためだけに研ぎ澄まされていく。
最後に残った骨を、ゴトンッと石床へ叩きつけた。
「…………」
ゾランが、引きつった顔で吐き捨てる。
「仲間まで喰らいやがったのか……胸糞悪い化け物だな」
「品性の欠片もありませんね。反吐が出ます」
メイが籠手を握り直し、冷ややかな眼差しを向ける。
グロガリは口元にへばりついた血肉を、長い舌で下品に舐め取った。
「……待たせたな」
放たれるプレッシャーは、先ほどまでの比ではない。
地獄から這い出てきた怪物そのものだった。
「これで――お前を八つ裂きにして喰えるッ!!」
「…………」
マクシミリアンは微動だにしない。
ただ|《焔》を構え、影のように深く、静かに佇んでいる。
「気に食わねえんだよ! さっきから、その澄ました面がよォォォッ!!」
ドォンッ!!
爆音とともに石床が爆ぜ、グロガリの巨体が弾丸のように迫る。
「オラァァッ!!」
直撃すれば頭部が肉片と化す、岩塊のごとき右拳が襲いかかる。
だが――|《焔》が閃いた。
ザンッ!!
一閃。
グロガリの太い右腕が、肘の上から鮮血の尾を引いて宙を舞う。
「…………!」
しかし、グロガリは止まらない。
それどころか、凶悪な笑みを深めていた。
(そうだ! それでいい!!)
最初から、右腕など捨て駒だ。
マクシミリアンの刀が恐ろしく速いことなど、百も承知。
避ける必要はない。斬らせて、意識を逸らせばいい。
(腕の一本くらい――くれてやるわァッ!!)
グロガリには、超人的な再生能力がある。
腕だろうが脚だろうが、五分もあれば元通りに生えてくる。
この程度の欠損は、ただのコストにすぎない。
「ハァッ!!」
右腕を斬り飛ばされた勢いそのままに、全身のバネを使って腰を旋回させる。
繰り出されたのは、柱のような右脚による必殺の横薙ぎ蹴り。
マクシミリアンは返り血すら浴びず、即座に|《焔》を返す。
ザシュッ!!
今度は右脚が膝上から切断され、ドスンッと石床へ転がった。
(それも――くれてやるッ!!)
これも、完全に狙い通り。
右腕も右脚も、すべてはマクシミリアンに斬らせるための餌。
目的は、ただひとつ。
(刀を――振り抜かせる!!)
右脚を断ち切るため、|《焔》が外側へ大きく振り抜かれた。
その一瞬の隙。
グロガリの黄色い瞳が、狂喜に見開かれる。
(今だぁぁぁッ!!)
右脚を失った身体を、残った左脚一本の踏み込みで強引に支え切る。
常識を超えた筋力と、重心制御。
「捕まえたぞぉぉッ!!」
「――!」
伸びた左手が、|《焔》の戻りよりもコンマ数秒速く届いた。
ガシィッッ!!
丸太のような左手が、マクシミリアンの頭部を丸ごと鷲掴みにした。
手のひらだけで顔面を覆い尽くし、凶悪な五本の指が、頭蓋全体を完全にロックする。
「……マクシミリアン!?」
メイが悲鳴のような声を上げ、ゾランの目が鋭く細まる。
グロガリが、勝ち誇った下品な笑いを爆発させた。
「終わりだァァッ!!」
これこそが、グロガリの必殺の型。
一度この左手に頭を捕らわれた者は、例外なく頭蓋を粉々に砕かれて死んだ。
その握力は、分厚い鉄塊すら粘土のように握り潰す。
「この手に捕まった奴はなぁぁッ! 頭蓋骨ごとミキサーみてえに……粉々になるんだよォォォッ!!」
ギリッ! ミシミシミシッ!!
全身の血管を浮き上がらせ、極限の握力を左手に叩き込む。
「潰れろ! 潰れろ! 潰れろォォォッ!!」
だが――。
「…………」
びくともしない。
「……あ?」
グロガリの顔から、笑みが消える。
「ぐ……ッ! ぬああああッ!!」
腕を破裂させんばかりに締め上げる。
筋肉が膨れ上がり、皮膚が裂け、血が滲む。
しかし、マクシミリアンの頭部には、傷ひとつつかない。
「な……なんだ……これは……!?」
ありえない。
鉄すら潰す握力だぞ。
「馬鹿な……! なんでだッ!? なんで折れねえ!? なんで潰れねえッ!?」
その時。
巨大な指の隙間から――静かな目が、覗いていた。
怒りも、焦りも、痛みすらない。
ただ、凪いだ水面のような目。
「――それで、全力ですか」
「ッ!?」
狂乱する怪物へ、マクシミリアンは哀れみすら向けない。
ただ、右手の|《焔》を冷たく滑らせる。
ザンッ!!
「がっッ!?」
グロガリの唯一残っていた左腕が、肘からすっぱりと切り落とされた。
両腕なし。
右脚なし。
「ぐ、あ……っ!?」
さすがに均衡を保てず、ズザザザッ!! と石床を削りながら、グロガリが後方へ転がり落ちる。
一方。
マクシミリアンの顔には、切り落とされた巨大な左手が、まだガシッと張り付いたままだった。
「…………」
マクシミリアンは、ゴミでも払うような無表情でその手首を掴むと――。
パキッ。
パキッ。
顔を覆う極太の指を、一本ずつ、淡々と引き剥がしていく。
五本すべてを引き剥がし終えると、それをポイッとグロガリの足元へ投げ捨てた。
ゴトンッ。
「…………」
グロガリは呆然と、転がる自分の手を見つめ。
震える目で、マクシミリアンを見上げた。
「……なんなんだ……お前は……!?」
その時。
ぐじゅり、と。
グロガリの両腕と右脚の切断面で、肉が蠢いた。
赤黒い肉芽が泡立つように盛り上がり、骨が、筋が、ゆっくりと伸び始める。
(……そうだ……まだだ……!)
グロガリの瞳に、濁った光が戻る。
(五分……五分もありゃ、元通りだ……! 時間さえ稼げば――)
「再生ですか」
マクシミリアンの声が、その思考を断ち切った。
「五分ほどでしょうか」
「ッ!?」
「残念ですが」
マクシミリアンが|《焔》を構え直す。
黒き刀身に、深紅の燐光が灼熱の脈動となって走った。
「五分も、お待ちするつもりはありません」
一歩、踏み出す。
ただそれだけで、圧し潰されそうな気迫。
「|《焔》を抜いた私は――何者にも砕けません」
「……何だと……!?」
「私は、|《焔》と一体となる」
刀身から、陽炎のごとき紅い炎が立ち昇る。
炎はマクシミリアンの全身を、静かに包み込んでいった。
「ゆえに――その時の私は、炎そのものです」
「…………」
グロガリは、絶句した。
「……ふざけるな……」
怒りと恐怖で、顔が歪む。
「炎そのものだと……!? そんな理不尽な屁理屈が……通るかよォォォッ!!」
再生しかけの腕を振りかざし、残った左脚一本で石床を粉砕して、ワニの顎を極限まで引き裂く。
「俺は喰らう側だァァァッ!! お前が……喰われる側なんだよォォォッ!!」
血を噴き散らしながら、怪物が弾丸となって突撃する。
「そうですか」
マクシミリアンは、一歩も引かない。
「では――試してみましょう」
迫る大顎。
数メートル。
数十センチ。
数センチ――。
「――|《残刀》」
シュン――。
一閃。
いや、それは残像すら残さぬ、無数の神速。
気づけば、マクシミリアンは静かに、グロガリの横を通り過ぎていた。
「……ハ、外したな――」
笑おうとしたグロガリの全身に、無数の赤い光線が走った。
一、十、百、千――目にも留まらぬ、網目状の斬撃。
「……あ?」
ズズズッ――。
頭部がずれる。
肩が、胸が、腹が、全身の肉体が、無数のサイコロ状にずれていく。
どれほどの再生能力があろうと。
これほど細かく刻まれた肉片が、元に戻ることはない。
ズシャァァァァァッ!!
グロガリの巨体が、一瞬にして肉片の山となって、石床へ崩れ去った。
「…………」
圧倒的な静寂。
マクシミリアンは振り返ることもなく、|《焔》を一振りして血を払い、鞘へ納めた。
カチン。
「残念でしたね。喰われたのは――あなたの方でした」
◇
「……やっぱ、あいつ無茶苦茶だな!!」
ゾランが、笑い混じりに呆れ果てる。
「頭掴まれて『私は炎そのものです』で通るかよ! 理屈が物理を殴り倒してんじゃねえか!! しかも五分で再生する化け物を、五秒で挽肉にしてんじゃねえよ!!」
そう言いつつも、その目には、マクシミリアンへの揺るぎない信頼が宿っていた。
そして、隣のメイは――固まっていた。
(……強い。圧倒的に……格好いい……!)
相応の強さとプライドを持つメイの胸が、ドクンと高鳴る。
泥臭い策を弄した化け物を、一切揺らぐことなく、美学だけでねじ伏せた男。
(こんな人が……)
白い頬が、ほんのり赤く染まる。
ゾランが、それを横目で見た。
「……おい、姉ちゃん。顔赤えぞ」
「…………」
メイが、すっと冷たい目を向ける。
「姉ちゃんではありません。メイと呼んでください」
「へいへい。じゃあ、メイ」
ゾランは、遠くのマクシミリアンへ顎をしゃくった。
「あいつに惚れんなよ。めんどくせえ奴だぞ」
「なっ……!?」
メイの顔が、さらに一段階赤くなる。
「な、何を……っ! わ、私は別に、そのような……!」
「…………」
「その……ただ、剣の腕が、見事だと……思っただけで……」
声が、どんどん小さくなっていく。
口元が、もごもごと動いた。
「……こりゃ重症だな」
肩をすくめて離れていくゾランを見送り、メイはハッと我に返った。
(……あ、危ない! 見惚れている場合ではありません! そういえば……っ!)
脳裏に、あの恐ろしいお方の言葉が鮮明に蘇る。
『あなたのお掃除の仕方は……後ほどじっくり採点しますからね』
「ひっ……!」
額から、滝のような冷や汗が噴き出す。
恐る恐る、後ろを振り返る。
「お、奥様……! 先ほどの『お掃除』の採点なのですが――!!」
決死の覚悟で声をかけたメイだったが――言葉が凍りついた。
「あらあら、ロザリアちゃん♪」
「はい、お母様♪」
「少し見ない間に、雰囲気がとっても柔らかくなって、綺麗になったんじゃないかしら〜?」
「まあ! お母様ったら!」
「…………」
そこには。
つい数十秒前にアギトの首を平手打ちでねじ切り、もう一体を肉だるまにした悪魔(奥様)が。
何事もなかったかのように、ロザリアと花咲く笑顔でキャッキャとおしゃべりしている――地獄のような平和空間(お茶会)が広がっていた。
「本当に、お肌もピチピチねえ。研究で半年も部屋にこもりきりだったから、こんなに成長していたなんて驚いちゃったわ」
「もう、お母様ったら研究ばかりなんですもの!」
「ふふ、ごめんなさいね。……あ、もしかして」
お母様が、死ぬほど楽しそうにニヤニヤし始める。
「ルクちゃんと『いい雰囲気』だから、綺麗になったのかしらぁ〜〜??」
「ま! ま、ま、お母様ッ!??」
ロザリアの顔が、ボンッと音を立てて真っ赤に爆発した。
「そんな! そういうわけでは……! ありませんわッ!」
「あらあらあら〜〜〜♪」
「お母様ッ!!」
「うふふふ! そうだわロザリアちゃん、前に教えた『追跡術式』は役に立ったかしら?」
「はい、お母様! めちゃくちゃ役に立っておりますわ!」
「じゃあ次は……『捕縛術式』なんてどうかしら?」
「捕縛……!?」
「ええ♪ 逃げようとしたら空間ごと縛り上げて、一定範囲から出られなくしたり。足を永久に封じて、私の側から永遠に離れられなくしたりするの♪」
「まあ、凄いですわお母様! ルクレイン様はすぐお一人で無茶をなさるから、それをかければ一生、私の側に引き留められますわね!」
「でしょう〜〜〜? うふふふふ♪」
「ふふふふふ♪」
「…………」
メイは、白目をむいて立ち尽くしていた。
「……コホン」
不意に、咳払いが響き渡った。
母娘が同時に振り向く。
そこには、いつも通りの無表情なマクシミリアン。
「ロザリア様」
「はい?」
「そろそろ、先を急がねばなりません」
「…………あっ!!」
ロザリアが、ガバッと目を見開いた。
「そうでしたわ!! ルクレイン様を助けに来たのでしたわーーーッ!!」
「あら嫌だ」
お母様も、てへっとばかりに目を丸くする。
「そういえば、そうだったわねぇ」
「お母様まで忘れないでくださいませッ!」
「だって、ロザリアちゃんが可愛すぎて、すっかり忘れちゃったんですもの♪」
マクシミリアンは苦笑いを浮かべて、「急ぎましょう」と言った。
「そ、それじゃあ私は戻るわね。この実体化も、長くは続かないし」
お母様が、ロザリアの頬にそっと手を添える。
エメラルドの光が、温かく残った。
「またピンチになったら、呼んでちょうだいね。……それと」
お母様の視線が、ゆっくり、ぬるりと、メイへ移動する。
「特に――メイ?」
「ヒィッッ!!! は、はいっっっ!!!」
メイの背筋が、音を立てて直立不動に伸びる。
「今度ロザリアちゃんを危険な目に遭わせたら……」
にっこり。
その背後に、般若の影がゆらりと立った。
「……分かっていますわね?」
「はぁーーーいッッ!!!!! 命に代えましてもーーーッ!!!!」
広場全体に、メイの絶叫が響き渡った。
「……こえー」
ゾランが、小声で呟く。
「何か言いました、ゾランさん?(微笑)」
「何も言ってねえ! 命が惜しいから何も言ってねえ!!」
すると、お母様が「あ」と可憐に手を打った。
「そういえばぁ……ロザリアちゃんをこんな危険な場所に来させたパパにも……」
笑顔が、暗黒の深淵へと変わる。
「あとで、私の部屋へ来てもらわなくっちゃ」
「お、お母様! 違うんですの、これは私が――」
ロザリアが慌てて言いかける。
「いいのよ、ロザリアちゃん。分かっているから」
にっこり。
「パパが無理に来させたのでしょう?」
「ですから、違――」
「うふふ。パパったら、本当に困った人ねえ」
まったく、聞いていなかった。
「…………」
メイの顔が恐怖で引きつり、ゾランは哀悼の意を込めて天を仰いだ。
お母様は満足そうに微笑むと、その身体がふわりと、エメラルドの光の粒へとほどけ始めた。
「気をつけて行ってらっしゃい、私の可愛いロザリアちゃん♪」
「はい、お母様!!」
光が、ネックレスへと吸い込まれていく。
その、最後の一粒が消える間際。
「あ、そうそう。メイ」
ひどく軽やかな声だけが、残った。
「お掃除の採点は――お屋敷で、ね♪」
カッ。
ネックレスの光が、静かに収まった。
「…………」
メイは、その場に膝から崩れ落ちた。
「……結局、されるのですね……採点……」
嵐が去った広場に、ようやく静寂が戻る。
「…………」
ゾランが遠い目でネックレスを見つめ、魂の抜けた声で呟いた。
「……なんなんだよ……あの理不尽すぎる一家は……」
メイも、マクシミリアンも、誰もその言葉を否定しなかった。




