第21話 愛の求導者
『黒の迷宮』は、深い森の最奥に、巨大な悪意の塊となって沈み込んでいた。
苔むした黒石の外壁には無数の亀裂が走り、三つの入口は、まるで巨大な怪異が顎を開けて獲物を待っているかのように暗く落ち込んでいる。
数多の年月を経てもなお、その建造物からは人を絶望へ突き落とす禍々しい圧迫感が漂っていた。
だが今――その周囲は、凄まじい密度の王国軍によって制圧されつつあった。
「第一入口、封鎖完了!」
「第二入口、突入部隊配置につきました!」
「第三入口、外周警戒陣形へ展開完了!」
「救護班、魔導野戦病院の設営完了!」
「広域通信術式、接続を確認!」
次々と報告が飛び交う。
王国第一騎士団、近衛騎士隊、宮廷魔導士団、治癒術師隊、後方救護班。
さらに周囲の森にも外周警戒部隊が展開し、黒の迷宮は恐るべき短時間で完全に包囲されていた。
その中心に立つのは、リンデール公爵だった。
「第三入口の騎士を二名、北側外周へ回せ。隠し出口の可能性も考慮しろ!」
「はっ!」
「救護班は入口から離しすぎるな! 宮廷魔導士は各入口へ均等配置、通信班との連携を最優先!」
「承知しました!」
報告を受けるたび、次の命令が即座に飛ぶ。
王子二人の失踪から、まだほとんど時間は経っていない。
敵の正体も規模も不明な中、リンデール公爵は限られた情報だけで必要な人員を選抜し、三つの入口の封鎖から突入、救護、通信までを一気に組み上げていた。
まさに電光石火の布陣だった。
「全軍、静聴せよ!」
公爵の重厚な声が森に響き渡る。
立ち並ぶ騎士たちが、一斉に背筋を伸ばした。
「これより、第一王子リクター殿下、ならびに第二王子ルクレイン殿下の救出作戦を開始する!」
「「「はっ!!」」」
「三つの入口から同時に突入する! だが、闇雲に奥へ進むことは固く禁ずる!」
公爵が、黒く濁った迷宮の入口を指し示した。
「先行する突入部隊が安全を確保しながら進み、確保した地点ごとに『ポイント』を指定せよ!」
「第一安全地点、第二安全地点と順次確保! 後続部隊は、指定された安全地点まで段階的に進出せよ!」
「はっ!」
「次の安全地点が確保されるまで、それより先へは絶対に進むな! 迷宮内で部隊が分断されれば、救出どころか全滅だぞ!」
続いて、公爵の鋭い視線が突入部隊の一人へ向けられた。
「通信役!」
「はっ!」
その男の腰には、小型の通信用魔導具が固く固定されていた。
「通信魔導具は常時起動! 安全地点を確保するたび、本営へ位置と状況を報告せよ!」
「承知いたしました!」
「通信距離が限界に近づく前に、中継用の魔石を壁面に設置しろ! 地下深くへ潜ろうとも、本営との連絡を絶やすことは許さん!」
「はっ!」
「先行部隊が道を拓く! 後続がそこを維持する! それを繰り返し、両殿下のもとまで決して途切れぬ道を繋げろ!」
公爵の瞳に、鋭い光が宿る。
「道中、敵と遭遇しても深追いするな! 最優先は、両殿下の救出だ!」
「了解!」
「必ず――お二人をお救いし、連れて戻れ!」
その声には、一切の迷いも存在しなかった。
◇
第一入口前。
第一突入部隊は、総勢十二名。
最前列を進むのは、打診役の男。
剣も盾も持たず、手にしているのは一本の長棒だけだ。床や壁を突いて罠の有無を探る、部隊の「目」となる役目である。
そのすぐ後ろに、大盾を構えた三名の騎士。
打診役を守り、前方からの奇襲を正面で受け止める鉄の壁だ。
盾の背後には、マクシミリアンとゾラン。
敵が姿を現せば、真っ先に斬り込む二本の刃。
隊列の中央には、ロザリアとメイ。
そして治癒術師と、通信魔導具を携えた通信役。
部隊の生命線を担う者たちが、最も守りの厚い位置に置かれている。
最後尾には、二名の騎士。
背後からの襲撃に備え、退路を確保する殿だ。
その中でも、ひときわ異様な気配を放っているのが、ルクレインの側近マクシミリアンだった。
いつもなら右袖の中へ隠すように納めている妖刀《焔》。
だが今日は違った。
黒漆塗りの鞘ごと左腰へ深く差し込み、いつでも抜刀できる構えだ。
右手は、自然に柄頭のすぐ近くへ添えられている。
無表情。
だが、その全身から溢れる殺気は、練達の騎士たちでさえ無意識に二歩、三歩と距離を取りたくなるほど鋭く研ぎ澄まされていた。
そのすぐ隣には、暗殺者出身のゾラン。
細身の身体に、光を反射しない黒の戦闘装束。
右腰と左腰に一本ずつ、細身のレイピアを差している。
左右どちらの手でも即座に引き抜ける配置だ。
普段の飄々とした空気は、跡形もなく消え去っていた。
「……最初から《焔》を解禁してくるとはな」
ゾランが横目でマクシミリアンを見る。
「当然です」
マクシミリアンは前方の闇を見つめたまま、冷たく答えた。
「ルクレイン殿下が……あの暗がりの中におられますので」
「……だろうな」
ゾランもまた、両腰のレイピアの柄へ軽く指先を触れさせた。
二人とも、最初から手加減など考えていなかった。
その少し後ろに立つメイもまた、完全な戦闘態勢を整えていた。
服装そのものは、普段通りの洗練されたメイド服。
すらりと伸びた長い脚に、整った顔立ち。やや切れ長の、冷ややかな瞳。
感情をほとんど表に出さないその立ち姿は、冷艶な美しさを纏ったクールな美女そのものだった。
だが、その長い脚には銀色の装甲を組み込んだ特製のロングブーツ。
両手には、武骨な金属製のガントレット。
美しいメイド服と、無機質で重厚な戦闘装備。
その異様な組み合わせが、かえってメイの強者感を際立たせていた。
メイがガントレットに包まれた拳を軽く握り込むと、硬質な金属音が鳴った。
「お嬢様には……指一本、髪の毛一筋さえ触れさせません」
そして、そのメイの隣。
ロザリアは黒い高精度魔導石板を胸元へ大切そうに抱え、静かに佇んでいた。
淡い色合いの上質なドレスが華奢な身体を柔らかく包み、丁寧に整えられた髪が肩へ流れている。
潤んだように澄んだ緑の瞳と、白い肌。
この禍々しい迷宮と武装した騎士たちに囲まれてなお、その姿だけは舞踏会から抜け出してきた令嬢のように可憐で、場違いなほど美しかった。
「……ロザリア様」
同行する騎士の一人が、ひどく言いにくそうに声をかけた。
「何ですの?」
「その……これから危険な迷宮へ突入なさるのです。せめて軽装の胸当てか、兜だけでもお付けになっていただけないでしょうか」
「却下ですわ」
一秒の躊躇もない即答だった。
「え?」
「ルクレイン様にお会いするのに、そんなブスい防具を身につけられるはずがありませんでしょう?」
「ぶ、ブスい……」
「特に兜など論外ですわ! 髪型が崩れてしまいますもの!」
「しかしロザリア様! 内部には危険な罠や魔物が……!」
「承知しておりますわ」
ロザリアは涼しい顔で、優雅に言い放った。
「それでも、ルクレイン様と運命の再会を果たす瞬間の『第一印象』を疎かにすることなど、このロザリア、死んでもできませんわ!」
「そこを最優先するのか……」
ゾランが額を押さえてぼそりと呟く。
「当然ですわ!」
ロザリアは胸を張った。
「命懸けでお助けに駆けつけたというのに、再会した瞬間に『なんだそのブサイクな格好は』などと思われたら、わたくし死んでも死にきれませんもの!」
「自分の命と髪型を同じ天秤に乗せるなよ……」
ゾランが心底呆れ果てている。
「……やれやれ、仕方がないな」
リンデール公爵が愛娘を見つめ、深いため息を吐いた。
「ロザリア」
「はい、お父様?」
「せめて……これを持っていきなさい」
公爵が、自らの胸元へ手を伸ばした。
衣服の下から取り出したのは、繊細な銀の鎖に繋がれた小さな首飾りだった。
中央には、小粒ながら透き通るように美しい宝石が一つ。
ダイヤモンドを思わせる無色の石が、淡い光を受けて上品に煌めいている。
「まあ……っ!」
ロザリアの表情が、ぱっと華やいだ。
「素敵ですわ!」
「防具は『ブスい』で、ジュエリーは良いのかよ……」
ゾランがぼそぼそと突っ込む。
「当然ですわ。可愛いですもの!」
「判定基準が分からん……」
公爵は娘の背後へ回ると、その細く白い首へそっと鎖を掛けた。
「これはな……お前のお母様が昔、私の身を案じて贈ってくれたものだ」
「お母様が、お父様に……?」
「ああ」
公爵の厳しい声が、ほんの少しだけ柔らかくなる。
「私にとっては、命の次に大切な品だ。本来なら、軽々しく人に渡すようなものではない」
娘の胸元で光る宝石を見つめる。
「だが……今日だけは特別だ」
公爵は娘の華奢な肩へ、力強く手を置いた。
「この救出作戦の間だけ、お前に貸そう」
「お父様……」
「万が一の時には、必ずお前を守ってくれる」
ロザリアは胸元の宝石を、指先でそっと包み込んだ。
「お母様がお父様のために贈られた、大切な愛の証ですのね」
「そうだ」
「でしたら……なおさら大切にお借りいたしますわ」
「必ず無事に戻り、私に返しなさい」
「はい、お父様!」
ロザリアは笑顔で深く頷いた。
そして首飾りの位置を指先で微調整すると、満足そうに微笑む。
「これなら、いつルクレイン様とお会いしても問題ありませんわ!」
「結局そこへ行き着くのか……」
ゾランの呟きが、小さく空気に溶けた。
公爵は深く息を吸い込み、第一突入部隊の全員を見渡した。
「マクシミリアン」
「はい」
「ゾラン」
「はいよ」
「ロザリアを頼む」
そして最後に、メイへ厳格な視線を向けた。
「メイ」
「はい」
「ロザリアに、傷一つつけさせるな」
メイは表情ひとつ変えずに応じた。
「承知しております」
一拍。
「お嬢様に危害を加えようとする者は、私がすべて潰します」
「……物騒な女だな」
ゾランが、にやりと口の端を吊り上げた。
リンデール公爵が右手を高く掲げた。
「各入口――突入開始ッ!!」
「「「はっ!!」」」
三方向から、一斉に猛者たちが動き出した!
◇
第一突入部隊が、黒の迷宮の第一入口へ疾走する。
目の前に立ちはだかるのは、漆黒の巨石を隙間なく積み上げた巨大な門。
長い年月に表面は削られ、深い亀裂が縦横に走っている。
その奥には、地の底へ斜めに落ち込んでいく闇の空洞が口を開けていた。
まるで、大地の底に潜む怪物が人間を呑み込もうとしているかのようだ。
黒石の門をくぐり抜けた瞬間。
空気が一変した。
冷たく、異様に湿っている。
内部は薄暗く、古びた石壁のところどころで松明が弱々しく揺れているだけだ。
奥へ続く一本道は、わずか数十歩先で濃密な闇に呑み込まれていた。
「全員、警戒を怠るな」
マクシミリアンが、低く鋭い声で告げる。
「陣形を崩すな」
「第一班、前進」
一歩。
また一歩。
打診役の男が、長棒で床の石畳を確かめながら進んでいく。
「異常なし」
さらに二歩。
「異常――」
――カチッ。
「……え?」
乾いた金属音が、通路に響いた。
次の瞬間!
打診役の足元の石床が、前触れもなく抜け落ちた!
「うわぁぁぁぁぁッ!?」
「止まれッ!!」
全員がその場で急停止する!
打診役の身体が、暗黒の縦穴へ一瞬で吸い込まれていった。
数瞬の静寂の後。
ズドスッ!!
肉と骨が砕ける鈍い音が、地下から反響してきた。
「…………」
メイが静かな足取りで穴の縁へ近づき、下を覗き込む。
深さ十メートルほどの底には、びっしりと敷き詰められた鉄杭。
打診役の身体はそこに突き刺さり、二度と動かなくなっていた。
「……即死です」
隊内の空気が、一瞬で凍りついた。
「くそがッ……!」
ゾランが激しく歯を食いしばる。
ベテランの騎士が、青ざめた顔で前方を見つめた。
「……罠です。石床を一枚ずつ打診して確かめながら進むしかありません」
「どれほどの時間がかかる」
マクシミリアンが、殺気立った低音で問う。
「分かりません……この先に、同様の罠がどれほど仕掛けられているか……」
「…………」
「慎重に調べながら進めば……地下深くへ到達するまでに、相当な時間を要するかと」
ギリッ……!
マクシミリアンの奥歯が鳴った。
《焔》の柄を握る右手に、青筋が浮かび上がる。
「そんな悠長な真似が……できるか……ッ!」
ゾランもまた、苛立ちを隠そうともしなかった。
「一歩ごとに床を突いて調べてたら、一体いつ殿下たちの元へ辿り着けるんだよッ!」
「ですが無闇に進めば、今の二の舞です!」
「分かってるよそんなことはッ!」
ゾランが吐き捨てる。
騎士の言うことは正しい。
誰も反論などできない。
だからこそ、胸を焼くような焦燥だけが募っていく。
「…………」
ロザリアは、無言のまま手の中の魔導石板を見つめていた。
淡く浮かび上がる『黒の迷宮』の立体構造図。
その地下深くの最奥。
小さな青い光点が、今も揺れている。
「ルクレイン様……っ」
生きている。
ルクレイン様は、今も間違いなく生きておられる。
それだけは確かだ。
だが。
今この瞬間にも、闇の中で何が起きているのか。
傷つき、血を流していらっしゃるのではないか。
恐ろしい魔族や罠に追われ、追い詰められているのではないか。
ここからは、何も分からない。
「……遅い」
ロザリアの唇から、掠れた声が漏れた。
「お嬢様?」
メイが振り返る。
「こんなの……遅すぎますわッ!!」
石板を握り締める白い指先に、力がこもる。
「一歩進むたびに罠の点検などして……そんな亀のような歩みで、いつルクレイン様の元へ駆けつけられるというのですッ!?」
「ロザリア様……」
「今……この瞬間にも……っ!」
ロザリアの声が、激しい感情で震え始める。
「ルクレイン様が傷つき、苦しんでいらっしゃるかもしれないッ!」
胸の奥が、焼かれるように締めつけられる。
「わたくしの助けを……一刻も早くと待っていらっしゃるかもしれないのにッ!」
青い光点は、今も迷宮の奥で揺れている。
届かない。
こんなにも……こんなにも近くまで来ているのに!
「お願い……っ!」
ロザリアは魔導石板を、胸元へ強く抱き締めた。
「お願いですから……ッ!!」
両目を固く閉じる。
「ルクレイン様の元へ至る……すべての道を……ッ!!」
ただ、一つ。
世界で一番愛する人の元へ、今すぐ辿り着きたい。
彼を抱き締め、無事を確かめたい。
その純粋で、狂気すら孕んだ愛の願いだけが、灼熱の炎となってロザリアの魂を包み込んだ。
「わたくしを――ルクレイン様のところへ連れていってぇぇぇぇぇッ!!」
その絶叫が暗闇に響き渡った、まさにその瞬間だった。
――チローンッ!
【恋する乙女への祝福】
【条件達成:愛の執念が概念の壁を突破しました】
【スキル《愛の求導者》を獲得しました】
「……え……?」
ロザリアが目を見開いた。
次の瞬間!
ロザリアの緑色の瞳が、鮮やかなエメラルドの光を爆発的に放ち始めた!
「な……何ですの……これ……は……!?」
世界が、一瞬で変貌を遂げた。
目の前に広がる薄暗い通路。
石畳の床。
古びた壁面。
見上げる天井。
そのあらゆる場所に、今まで見えなかった禍々しい赤い光と文字が立体的に浮かび上がった!
【危険度:極高】
【落とし穴:深さ10m・鉄杭多数】
【作動条件:前方三歩の石床への加重】
「…………ッ!?」
さらにその奥の通路にも!
【危険:壁面仕掛け槍】
【危険:天井仕掛け毒矢】
【敵性反応:魔族歩兵×3(角の陰に潜伏中)】
そして――。
無数の赤い死の表示の隙間を縫うように、一筋の淡いエメラルドの光の道が、奥へ奥へと伸びていた!
【最適安全経路:ルクレイン殿下へ最短で到達可能】
ロザリアは息を呑んだ。
「……見える……見えるわ……っ!」
「お嬢様……?」
メイが異変を察し、ロザリアの顔を覗き込む。
「見えますわ……! ルクレイン様へ続く、愛の道筋が……ッ!」
「何がです?」
ロザリアが、エメラルドに輝く瞳で前方をビシッと指さした。
「そこです! マクシミリアン、その石を踏んではいけませんわ!」
指示されたのは、何の変哲もない四角い石畳だった。
マクシミリアンは疑うことなく傍らの騎士から長槍を取り、その石畳を強く突いた。
――カチッ。
直後!
ガコンッ!!
石畳が観音開きに跳ね上がり、その下に鉄杭の敷き詰められた落とし穴が姿を現した!
「「「………………っ!?」」」
全員の顔色が変わる。
「罠だ……マジで罠だ……」
「どうして……どうして一瞬で見抜けた……!?」
だが、ロザリアの瞳には、さらにその十数歩先、何十歩先の死線までが明瞭に映し出されていた。
【危険:壁面仕掛け槍】
【危険:天井仕掛け毒矢】
【敵性反応:魔族歩兵×3】
【最適安全経路】
ロザリアが、ゆっくりと顔を上げた。
エメラルドに煌めく瞳から、先ほどまでの不安や焦燥は完全に消え去っていた。
そこに宿るのは、絶対的な自信と、愛する人を救い出すという狂おしいまでの決意。
「分かりましたわ……」
「ロザリア様……?」
「皆様」
ロザリアは胸元の首飾りと石板を抱き締め、迷宮の奥を真っ直ぐに見据えた。
「わたくしの後について来てくださいませ!」
マクシミリアンが息を呑んでロザリアを見つめる。
ゾランもまた、信じられないものを見る目で目を見開く。
メイだけは、至極当然のように主人の隣へと滑り込んだ。
ロザリアは唇をほころばせ、最高に美しく、そして頼もしい笑みを浮かべた。
「ルクレイン様の元まで――」
迷いのない一歩を、力強く踏み出す!
「――最短最速で参りますわッ!!」




