第20話 鬼門
「な……何だ……これは……!?」
ドラコは額を押さえたまま、二歩、三歩と後方へよろめいた。
【精神耐久値:82% → 18%】
「ドラコ様!?」
カメレオが驚愕の声を上げる。
つい先ほどまで圧倒的な力でルクレインを押し潰そうとしていた巨体が、明らかに動きを止めていた。
「ぐ……っ……」
ドラコは荒い息を吐きながら、頭を振る。
黄金の瞳が大きく揺れていた。
「な……何を……した……?」
「…………」
ルクレインも固まっていた。
(いや、俺が聞きてえよ)
視界の隅に残っている数字を見て、思わず二度見する。
(十八パーセント!?)
(減りすぎだろ!?)
『ルクレイン……』
アークの声まで、珍しく引いていた。
『今のは……何だ?』
「知らねえよ!」
『お前の力であろうが!』
「今進化したばっかなんだから俺が知るわけねえだろ!」
「今だ!!」
リクターの鋭い声が飛んだ。
「逃げるぞ、ルクレイン!」
「あっ」
ルクレインが我に返る。
「そうだった! 逃げるぞ鉄くず!」
『この状況でも鉄くずと呼ぶなぁぁぁッ!!』
二人が出口へ駆け出す。
「逃がすものかッ!」
カメレオが飛び出した。
『させるか丸顔ぉぉぉッ!!』
アークの白銀の刃が大きく薙ぎ払われる。
「くっ!」
カメレオが咄嗟に身を引いた。
その一瞬で十分だった。
「兄貴、走れ!」
「言われなくとも分かっている!」
二人は石室を飛び出し、黒の迷宮の通路へ駆け込んだ。
「右だ!」
「根拠は!?」
「ねえ!」
「またかッ!!」
二人は右の通路へ飛び込んだ。
すぐ先に三叉路が現れる。
「次は!?」
「左!」
「今度は根拠があるのか!?」
「ない!」
「少しは考えろッ!!」
「考えてる暇あるかぁぁぁッ!!」
二人は迷宮を全力で駆け抜けていく。
その後方から、複数の足音が響いた。
「追え!」
「第二王子を逃がすな!」
カメレオの怒声が遠く響く。
魔族たちも主要な経路は把握している。
だが、黒の迷宮のすべてを知り尽くしているわけではない。
無数に枝分かれする古い通路へ入り込めば――この迷宮は、敵にも味方にも等しく迷路だった。
「こっち!」
「待てルクレイン! そこは――」
「知らん!」
二人は普段使われていない細い通路へ飛び込んだ。
追っ手の足音が、一瞬止まる。
「どちらへ行った!?」
「旧通路だ! 回り込め!」
怒声が複数の方向へ散っていく。
結果として、ルクレインたちの無計画な逃走が追跡を撹乱していた。
「はぁ……っ、はぁ……っ!」
リクターが走りながら後ろを振り返る。
「どうやら少し引き離したようだな」
「よし!」
ルクレインは走る速度を落とし、壁際へ身を寄せた。
この先に何が待ち構えているか分からない。
二人は乱れた息を整えながら、薄暗い通路の先を窺い、一歩ずつ慎重に進んでいく。
しばらくして、リクターが声を潜めて口を開いた。
「……ルクレイン」
「ん?」
「先ほどのあれは、何だ」
「あれ?」
「あの力だ」
「知らねえって」
「あの化け物を一瞬とはいえ完全に止めたのだぞ!」
「声でけえよ兄貴……。だから俺が一番聞きてえんだって」
「…………」
リクターが黙る。
「何だよその顔」
「いや……」
(待て……)
リクターの中で、これまでのルクレインの言動が繋がっていく。
かつてのルクレインは、王家随一とまで呼ばれた膨大な魔力を持っていた。
それが今は――まったくない。
何度尋ねても、その理由をまともに説明しようとはしなかった。
そして今――。
ドラコの動きを、一言で止めたあの不可解な力。
(まさか……自ら封じたのか?)
リクターの目が細くなる。
(だが……待て)
先ほどの一撃を思い返す。
魔法陣は現れなかった。
詠唱もなかった。
何より――。
(魔力が発動した気配を、まったく感じなかった……)
リクターの背筋に、わずかな寒気が走る。
(では……あれは魔法なのか?)
分からない。
魔法ですらない、何か。
少なくとも、リクターがこれまで見てきたどの術式にも当てはまらない。
(まさか、ルクレインは……)
さらに思考が飛躍する。
(魔族と戦ううえで、剣や魔法といった従来の力には限界があると見抜いた……?)
どれほど強力な剣でも。
どれほど膨大な魔力でも。
より強大な魔族を前にすれば、いつか限界が来る。
(だから、自らの魔力すら封じたのか……)
それまで持っていた力に執着せず。
天賦の才を、自ら手放し。
(さらにその先へ――)
(これまでとはまったく異なる、次の次元へ登るために……)
リクターは息を呑んだ。
(こいつは一体……どこまで先を見ている……?)
「……兄貴?」
ルクレインが横目で見る。
「何かまた変なこと考えてない?」
「…………」
(しかも……)
リクターの脳裏に、先ほどの言葉が蘇った。
『兄貴の第一王子派と、第三王子の派閥が裏でギスギス揉めてるくらいは知ってた!』
(ルクレインは、派閥争いの存在まで把握していた)
リクターは、自分が思っていた以上に弟が王宮の内部事情を見ていたことに気づく。
(待て……)
(まさか、それだけではないのか?)
フェレリオ公爵家が第三王子トーマスを支持していたこと。
ウェンディへ接近していたこと。
その裏側に、何か不自然な動きがあること。
(もしや……そこまで察していた?)
リクターの胸がざわめく。
ルクレインは言った。
黒の迷宮では迷っただけだと。
偶然、敵の中枢へ辿り着いただけだと。
(……本当に偶然なのか?)
リクターは隣を歩く弟を見た。
(フェレリオ公爵家の背後に何者かがいることを察し……その正体を暴こうとしていたのではないか?)
(だから敵の中枢まで迷うことなく辿り着いた……)
「…………」
リクターの表情が、さらに険しくなる。
「何だよ兄貴。怖い顔すんなって」
「……いや」
(そして――)
さらに別の光景が蘇る。
『武器もないのにウロウロすんな! 下がってろ!』
傷だらけになりながら。
ドラコとカメレオという二体の魔族を前にして。
自分を背後へ下がらせ、一人で立ちはだかった弟の姿。
(ルクレイン……)
胸の奥が熱くなる。
(お前は……)
(そこまで私を……)
自分には武器がなかった。
戦えば、足手まといになる可能性が高かった。
それを理解したルクレインは、自らすべての危険を引き受けた。
命を盾にして。
兄である自分を守った。
(自らの命すら顧みず……私を生かそうとしたというのか……)
リクターの喉が熱くなった。
「…………」
目頭に、わずかに涙が滲む。
(私は……)
これまで何を見ていた。
弟を。
自分の王位を脅かす存在だと思っていた。
父からの寵愛を奪う存在。
臣下からの評価を奪う存在。
自分の邪魔をする存在。
そう思い続けていた。
だが――。
(こいつは私を敵などとは思っていなかった……)
(むしろ自らの命を危険に晒してまで、私を守った)
リクターは奥歯を噛み締めた。
(これほどの力を手に入れてなお、それを誇ろうともしない)
(敵の陰謀を暴いてなお、功績を誇示することもない)
(すべてを「知らない」「偶然だ」「迷っただけだ」と笑って済ませる……)
リクターの瞳が揺れる。
(なんという……崇高な精神だ)
(私は……こんな男と王位を争っていたのか……)
「兄貴?」
ルクレインが訝しげに横を見る。
「お前、何でちょっと泣いてんの?」
「泣いてなどいない!」
「いや、目ぇ潤んでるけど」
「汗だ!」
「目から!?」
「ここまで全力で走ってきたのだから出ることもある!」
「絶対出ねえだろ!」
ルクレインは眉をひそめた。
(何だよ……)
(また絶対変な勘違いしてるだろ、こいつ)
一方、リクターの中では、これまで決して浮かぶことのなかった考えが、ほんの僅かに芽を出していた。
(もし……)
(もしも王というものが、力だけではなく……)
民を思い。
他者を守り。
己の功績すら誇らず。
自ら危険を引き受けられる者でなければならないのなら。
(王に相応しいのは、私ではなく――)
「――っ!」
曲がり角の先を覗き込んだルクレインが、慌てて身を引いた。
「何だ、どうした!?」
リクターも息を潜め、ルクレインの肩越しに先を窺う。
通路の先。
十体近い魔族兵が横一列に広がり、道を塞いでいた。
人間より一回り大きな、爬虫類じみた体躯。
緑や灰褐色の硬い鱗に覆われた身体へ、胸と肩だけを守る簡素な鉄鎧を身につけている。
手にはそれぞれ、粗雑ながら分厚い長剣。
縦に細長い瞳孔が、こちらを捉えた。
「いたぞ!」
「第二王子と第一王子だ!」
「ここで止めろ!」
一斉に剣が抜かれる。
「おいおい……」
ルクレインが顔を引きつらせた。
その時。
後方からも、遠く足音が響いてくる。
「まずい」
リクターが振り返る。
「後ろからも来ているぞ!」
「見りゃ分かる!」
「挟まれる!」
「分かってるって!」
前には十体近い魔族兵。
後ろには追っ手。
ルクレインは苛立ったように頭を掻いた。
「あーもう……」
魔族兵の一体が剣を突きつける。
「投降しろ!」
「は?」
「抵抗すれば、この場で斬る!」
「…………」
ルクレインの眉がぴくりと動いた。
「お前らさぁ……」
「何だ」
「十人近くでゾロゾロ固まって、たった二人相手に道塞いで……」
魔族兵たちが怪訝そうに顔を見合わせる。
「それで兵士のつもりかよ」
「何だと?」
「親玉から命令されなきゃ何もできねえ。大勢で固まらなきゃ二人にも向かってこられねえ」
ルクレインが鼻で笑った。
「ただの指示待ち雑魚集団じゃねえか」
【罵倒スキル発動】
【☠☠☠☠☠ CRITICAL】
その瞬間だった。
「ぐっ……!?」
「な……っ……」
「う……」
魔族兵たちの身体が、一斉に硬直した。
その場の全員が。
ほぼ同時だった。
ガラン。
一振りの剣が、石床へ落ちる。
ガラン。
ガラガランッ!
次々と武器が手から滑り落ちていく。
「俺は……」
一体の魔族兵が膝をついた。
「指示されなければ……何も……」
その隣の魔族兵も、力なく両膝をつく。
「大勢でなければ……戦えない……」
「俺たちは……雑魚……」
あっという間だった。
魔族兵たちは残らず戦意を喪失し、その場へひれ伏していた。
「…………」
ルクレインが口を開ける。
「え?」
『…………』
アークも黙った。
「……全員いっぺんに効くのかよ」
『お前が驚くな!』
「だって知らねえもん!」
『何を呆けておる! 今だ!』
「あ、そうだった!」
ルクレインがアークを構える。
「兄貴! 行くぞ!」
「あ、ああ!」
二人はうずくまる魔族兵たちの間を一気に駆け抜けた。
道を塞ぐ相手だけをアークの峰で弾き飛ばし、進路を強引にこじ開ける。
「どっちだ!?」
再び分岐が現れる。
「右!」
「根拠は!?」
「勘!」
「またそれかぁぁぁッ!!」
二人の叫び声が、迷宮の奥へ消えていった。
*
「はぁ……はぁ……」
重い呼吸音が石室に響いていた。
「ドラコ様……」
カメレオが慎重に声をかける。
ドラコは答えない。
巨体を壁へ預け、荒い息を繰り返している。
「…………」
やがて、低い声が漏れた。
「……何だったのだ」
「え?」
「今のは……何だったのだ……」
ドラコがゆっくり顔を上げる。
その黄金の瞳には、これまでにはなかったものが浮かんでいた。
困惑。
そして――わずかな恐怖。
「あれは……ただの悪口ではない」
「…………」
「言葉を聞いた瞬間……頭の中へ直接何かを叩き込まれたような……」
太い爪が震える。
「精神そのものを、抉られた」
カメレオの表情が険しくなる。
「……私も似たものを受けました」
「何?」
「第二王子の言葉を受けた時、なぜか……自分というものを維持できなくなりました」
カメレオが自分の掌を見る。
「あれによって、私の擬態も崩されました」
「…………」
「ですが……」
カメレオが険しい顔で、ルクレインたちが消えた通路を見る。
「ドラコ様が受けられたものは、私の時とは明らかに威力が違うようにお見受けします」
「ああ」
ドラコの声が低く沈んだ。
「変化した」
「…………」
「あの瞬間……奴の力は明らかに別物へ変わった」
ドラコが拳を握り締める。
「第二王子……ルクレイン・アステリア」
その名を、一語ずつ噛み締めるように口にする。
「危険だ」
「ドラコ様……」
「ただ強いという意味ではない」
ドラコが鋭くカメレオを見る。
「あの力は、我らの肉体を傷つけるものではない」
「…………」
「精神を直接壊す」
石室に沈黙が落ちる。
「剣や魔法ならば、防ぐ術はいくらでもある」
「はい」
「だが……あれは違う」
ドラコの瞳が細くなる。
「第二王子ルクレイン……奴は、我ら魔族にとって――鬼門となる可能性すらある」
カメレオの顔から笑みが消えた。
「…………」
「追え」
ドラコが命じる。
「迷宮内の兵をすべて動かせ」
「はっ」
「主要経路を封鎖しろ。地上への出口を絶対に開けるな」
そして。
低く、はっきりと言い放った。
「必ず殺せ」
「…………」
「あれだけは――生かして地上へ返すな」




