第16章 黒の迷宮
「黒の地下要塞……今では『黒の迷宮』と呼ばれている場所か……」
誰かが呟いたその禍々しい名が室内に響いた瞬間、重苦しい空気が部屋全体を支配した。
騎士や魔術師たちも一斉に口をつぐみ、青ざめた顔を見合わせる。
その名を聞いただけで、誰もが背筋に冷や汗を伝わせ、底知れぬ危険を察知しているようだった。
リンデール公爵は、室内が完全に静まり返るのを待ってから、低く威厳に満ちた声で口を開いた。
「黒の迷宮は……かつて魔王の侵攻を阻止するため、王国が全力を挙げて建設した地下巨大要塞だ」
公爵の鋭い視線が、卓上に大きく広げられた王国全土の地図へと落ちる。
「要塞としての役割を終えた後は封印され、放置された。長い年月誰も足を踏み入れず、今は廃墟と化している」
「廃墟、ですか」
ゾランが眉をひそめる。
「そうだ。内部は複雑極まる迷路構造となっている。不気味な通路が入り組み、無数の罠が仕掛けられているという。中心部へ至る正しい道筋を見つけ出すのは困難を極める。そして……最奥に存在するのが『黒の牢獄』だ」
公爵は地図上に、三つの赤い印をつける。
「迷宮内部へ侵入できる地上入口は三つ。もともと侵入者を迷わせ、内部で餓死させることが、この要塞の最大の防御策だった。今はそれが、そのまま敵の盾になる。一歩道を誤れば、部隊は瞬く間に分断され、個別に撃破されるだろう」
居合わせた誰もが身構えた理由が、痛いほど理解できた。
ただ大勢の兵を送り込めば解決するような、生易しい場所ではない。
拙速に救出へ向かえば、むしろ自分たちが迷宮の闇に呑まれ、囚われた殿下たちのもとへ辿り着くことすらできずに全滅する危険性があった。
「ですが、ルクレイン様とリクター殿下の現在の居場所は、わたくしが完璧に把握しておりますわ」
ロザリアの鈴を転がすような声に、ゾランが弾かれたように顔を向けた。
彼女の細くしなやかな手には、精密な術式と光のラインが刻まれた黒い魔導石板が握られている。
「その石板か! ロザリア様、それを貸していただけないか! 位置の座標さえ確認できれば、私一人でもすぐに動ける!」
ゾランが手を伸ばした瞬間、ロザリアは可憐な目を限界まで見開いた。
即座に石板を自身の胸元へ抱き寄せるや、ゾランを氷のように冷たい瞳できっと睨みつける。
「馬鹿なことをおっしゃらないでくださいませ! 一体何を言い出すのですか、この不躾な方は……! これはルクレイン様とわたくしの追跡術式ですのよ!? 他人に気軽にお貸しできるわけがありませんわ!」
「あ、愛の結晶……!?」
あまりにも斜め上かつ重すぎる言い分に、さすがのゾランも一瞬言葉を失って口ごもり、引きつった顔で後ずさりした。
一方、マクシミリアンはロザリアの石板など一瞥もせず、公爵へ向き直った。
「殿下の場所さえ分かれば十分です。私は今すぐ乗り込みます」
そう言い捨てるや否や、誰の返事も待たずに黒い外套を翻し、出口へと歩き出す。
「おい待て、私も行くぞ!」
ゾランもまた、レイピアの柄に手をかけながら即座にその後に続く。
二人が本気で部屋を飛び出そうとした、まさにその時だった。
「――馬鹿者どもがッ!!」
腹の底から響くリンデール公爵の雷鳴のような一喝が、本部の空気を激しく振動させた。
ドォン! と部屋全体が揺れたかのような錯覚に、その場にいた騎士や魔術師たちが一斉に跳ね上がり、直立不動で背筋を伸ばす。
あまりの威圧感に、マクシミリアンとゾランすらピタリと足を止めざるを得なかった。
「お前たち二人だけで乗り込んで、もし敵に察知され、殿下たちを『盾』に取られたらどうするつもりだ! あるいは迷宮の奥で殿下方が重傷を負っていた場合、二人だけで敵を抑えつつ安全に救出できるとでも思っているのか!!」
公爵はテーブルの地図を、ドスッと拳で力強く叩いた。
「敵が高度な魔法や罠を仕掛けている可能性も極めて高い! 負傷者を安全に運搬する救護小隊も必要だ! 敵の未知の魔法に対抗する術師も、退路を確保する工兵も要る! 十分な捜索・救出体制を整えずに突入するなど、救出どころか殿下方を自ら危険にさらす無謀な蛮勇に過ぎん!」
マクシミリアンは何か言い返そうと口を開きかけたが、公爵の射抜くような眼光を正面から受け、苦々しく言葉を飲み込んだ。
ゾランも反論の言葉を探したものの、結局は悔しそうに歯噛みして押し黙る。
「救出を急ぐことと、必要な手順を省くことはまったく別物だ! 王子二人の命が懸かっているのだぞ! 愚かな軽挙妄動は断じて許さん!」
長年王国を支えてきた大貴族であり、歴戦の武将でもある公爵の言葉には、一切の反論を挟む余地がなかった。
公爵は厳格な眼差しで室内を見渡した。
「長年の側近であったデーブの裏切りも判明した。王宮の深部にまで、敵の間者が潜んでいる可能性は極めて高い。作戦の情報がわずかに漏れただけで、殿下たちの首が飛びかねん。救出部隊は、心底信頼できる者のみで厳選する」
その声は絶対の重みを持ち、誰一人として軽々しく聞き流す者などいなかった。
「これより救出作戦の総指揮は、このわしが執る! 陛下にはわしから許可をいただく。以後は全員、わしの指示に従え! いいなッ!」
「「「はッッ!!」」」
揃った騎士たちの腹からの返事が部屋に響き渡る。
公爵は、苦々しい顔のゾランとマクシミリアンへ視線を注いだ。
「……お前たち二人もだ。よいな?」
「……公爵閣下に、すべてお任せいたします」
二人は今度こそ、一切の異を唱えることなく、深く頭を下げた。
その時、ロザリアが一歩前へ踏み出した。
「お待ちくださいませ、お父様。その救出作戦の第一線に……わたくしも加えてくださいませ!」
ロザリアは大切そうに石板を胸に抱きしめ、父を見上げた。
澄んだ宝石の瞳にはうっすらと涙が浮かび、長い睫毛の先で今にもこぼれ落ちそうに揺れている。
だが、その美しい顔に滲んでいたのは、決して弱々しい不安ではない。
愛する人を自らの手で救い出すという、一歩も退かない揺るぎない決意だった。
「……何を寝ぼけたことを言っている、ロザリア」
「寝ぼけてなどおりませんわ! ルクレイン様の現在地を正確にリアルタイムで追跡・把握できるのは、世界でこのわたくしだけでございます! わたくしが現場へ同行しなければ、入り組んだ迷宮の中で捜索隊は無駄に時間を失うことになりますわ!」
「あの場所は危険すぎる!」
「百も承知しております! ですが……この愛の石板さえあれば、わたくしが皆様を一番安全かつ最速のルートでルクレイン様のもとへご案内できます!」
公爵は苦々しく眉を寄せた。
しかし、まっすぐに見つめ返してくる娘の瞳の奥に宿る熱量に触れ、その固い決意を翻させるのは不可能だと悟る。
「…………よかろう」
公爵は深く溜息をついた。
「ただし……メイを片時も離さず連れて行け」
「はい、お父様!」
公爵の視線を受け、メイが音もなくロザリアの隣へと進み出た。
その氷のように涼やかな表情には、一筋の迷いもない。
静かに佇むその姿には、主を完璧に守り抜くために極限まで鍛え上げられた、隙のない美しさが宿っていた。
「メイ。ロザリアに指一本、傷一つつけさせるな。よいな」
「承知いたしました。命に代えましても、お嬢様をお守りいたします」
公爵は短く頷いた。
幼少期からロザリアに仕えるメイの人間離れした戦闘能力も、絶対の忠誠心も、誰よりもよく知っている。
あのメイが守るならば、娘を過酷な戦場へ送り出せる。
そして公爵の胸中には、国家の重臣としての責任感だけではなく、親としての強い思いもあった。
愛する娘がこれほどまでに狂おしく惚れ込み、将来の夫と定めた男を、むざむざ敵の手で死なせてなるものか。
そのためにも、この救出作戦を絶対に失敗させるわけにはいかなかった。
「各隊長、わしのもとへ集まれ! 騎士団から精鋭の小隊を選り抜き、至急救出部隊を再編成しろ! 精鋭の救護班と宮廷魔術師隊も直ちに組み込め! 黒の迷宮を完全に包囲し、三つの入口すべてから同時に突入できる布陣を整えるのだ!」
「「はッ!!」」
「作戦詳細は必要最小限の者のみに伝えよ! 準備は電光石火の如く迅速に、動きは闇の如く密やかに行うぞ!」
怒涛の命令を受けた騎士たちが、弾かれたように次々と動き始める。
黒の迷宮を全方位から隙なく包囲する外郭小隊。
三つの入口から同時に突入する主力救出部隊。
救出した殿下たちを受け入れ、ただちに治療する救護医療班。
そして、敵の未知なる魔導に対抗する精鋭魔術師隊。
まだ、誰も迷宮へは向かっていない。
しかし、王国の全力を結集した巨大な救出作戦の歯車は、怒涛の勢いで動き始めていた。
ロザリアは手の中の石板に視線を落とし、地図上に刻まれた迷宮の印を、激しい執念の目で見つめた。
黒の牢獄。
その深く暗い闇の底に、リクター殿下と、愛するルクレインがいる。
「……待っていてくださいませ、ルクレイン様。わたくしが……必ずお助けいたしますわ……!」
その可憐で、けれど揺るぎない誓いの呟きは、救出準備が進む部屋の喧騒の中へ、静かに溶けていった。




