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第9話:『解けた魔法のその先で』

「また来るよ」という柔らかい約束を残したまま、忽然と姿を消してしまった薫。

第9話では、一度は「許された」という最高の安堵と希望を味わった杏奈が、その直後に突きつけられる「連絡が取れなくなる」という冷酷な現実に直面します。

喧嘩でも拒絶でもなく、ただ穏やかな笑顔と約束だけを残して影のように霧散した男。

その圧倒的な存在感と残酷なまでの沈黙の狭間で、答えのない問いに苛まれ続ける杏奈の切ない葛藤を描いた章です。

 テンプレのLINEが送られてきてから、どれくらいの夜が過ぎただろう。

 薫からの返信はなく、店の扉が開くたびにエントランスへ視線を走らせる日々。自分の下らないプライドと、酒に逃げて吐いた言葉への後悔が、杏奈の胸を苛み続けていた。


(もう、二度と来てくれないのかもしれない……)


 そう諦めかけていたある夜の遅い時間、不意にその瞬間は訪れた。

 ふらっと、何事もなかったかのように『ETERNAL』の重い扉を開けて入ってきた男。

 黒服に案内されて席についたのは、紛れもなく薫だった。


「……薫さん」


 息を呑み、固まる杏奈。前回の失態と後悔が押し寄せ、声すら上手く出せない。

 だが、薫は固まる杏奈を見上げると、いつもの穏やかな笑みを浮かべて言った。


「久しぶり。元気にしてた?」


 前回のみっともない揉め事にも、不快な噂話にも、あの冷めきったテンプレのLINEにも、薫は一切触れなかった。

 杏奈の抱える後悔や焦りをすべて見透かした上で、包み込むような大人の余裕と、心地よい軽やかなテンポで会話を紡いでいく。

 そこには怒りも、探りも、見返りを求める下心すら存在しなかった。


 重かった空気がみるみるうちに解け、店内を流れる時間がかつてないほど穏やかに過ぎていく。会話に声を合わせて笑いながら、杏奈の心の中に途方もない安心感が広がっていった。


(やっぱり、この人しかいない……私、許されたんだ。元に戻れたんだ)


 胸の奥の氷が完全に溶け去り、杏奈はプロの接客ではなく、心からの最高の笑顔を取り戻していた。


 やがて黒服が時間を告げ、薫が財布を取り出してスマートに会計を済ませる。

席を立ち、今度は店の入口までしっかりと見送る杏奈。

 扉を開け、夜風の中に一歩踏み出した薫が、ふっと振り返って杏奈の瞳をまっすぐに見つめた。


「また来るよ。今度、ご飯でも行こうよ」


 柔らかく届いた、その一言。


「うん! 絶対行こうね!」


 杏奈は踊るような胸で、弾んだ声を返した。約束ができた。二人の関係は壊れてなんていなかった。またあのアフターの夜のように、特別な時間を過ごせるのだと、心から確信していた。



——だが。



 その夜を境に、薫が『ETERNAL』の扉を叩くことは二度となかった。

 一週間が過ぎ、一ヶ月が過ぎても、彼が店に姿を現すことはなかった。

 焦った杏奈が送ったメッセージに既読がつくことはなく、電話をかけても呼び出し音が虚しく響くだけ。事故に遭ったのか、仕事で遠くへ行ったのか、それとも最初からすべて計算だったのか——何も分からないまま、薫という男は、夜の街から完全に姿を消した。


 喧嘩をしたわけでもない。冷たく別れを告げられたわけでもない。

「また来るよ」という甘い言葉と「ご飯の約束」、そしてあの穏やかな笑顔だけを残して、男は一瞬で影のように霧散してしまったのだ。


 深夜の自室。返信の来ないLINEの画面を、杏奈は今夜も暗闇の中で見つめ続けている。


『昨日に戻りたいけど……』


 あの日、自分が送ったあのメッセージが頭の中で何度も、何度もリフレインする。


(あの時、素直に見送っていれば……)


(あの夜、余計な意地を張らずに謝れていれば……)


(どうしたとしても、最初からこうなる運命だったのかな……それとも、私の言葉ひとつで変えられたのかな……)


 答えの出ない問いが、暗闇の中でぐるぐると渦を巻く。

 どれだけ他の客に高い会計をされようと、どれだけ高額なシャンパンを抜かれようと、もう杏奈の心が満たされることはない。

 最高に甘い希望を見せられたあとに残された、完璧で残酷な沈黙。

 消えていった男の残像と、変えられなかったかもしれない運命の問いを、杏奈はこれからもこの夜の街で、一生抱えて生きていく。

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