第10話:『みっともないほど好きなひと』
「また来るよ」という柔らかい約束を残したまま、静かに姿を消してしまった薫。
第10話では、静まり返った自室で過去のLINEや思い出の写真を見返しながら、薫がくれた圧倒的なぬくもりと存在の大きさを再確認し、二度と戻らないかもしれない現実に打ちひしがれる杏奈の切ない孤独を描きます。
「また来るよ」
画面に残されたその五文字が、薫から届いた最後の言葉だった。
あの日から、薫のLINEアカウントは静まり返っている。どんなに言葉を投げかけても既読がつくことはない。お店の重いドアが開くたびにエントランスへ視線を走らせ、フロアのどこを探しても、あの静かな佇まいのシルエットが見当たることのないまま、虚しい夜だけが過ぎていった。
暗い自室のベッドの上で、杏奈はスマートフォンの画面を上へとスクロールしていく。
眩しい液晶の光の中に浮かび上がるのは、二人で重ねてきた愛おしい日々の断片だ。
スクロールする指が、ふと止まる。
大宮の街で手を繋いで歩いた、あの夜の残像。
雨上がりの濡れたアスファルトに、街灯のやわらかなオレンジ色が揺らめくように滲んでいた。冷たい夜の空気の中で、繋ぎ合った指先だけが互いの熱を分かち合うようにじんわりと温かい。あの日、二人の間に特別な言葉は必要なかった。交わす視線と手繰り寄せた体温だけで、お互いの心がどれほど深い場所で響き合い、結ばれているのかを静かに噛みしめていた。
さらに画面を遡ると、薫が送ってきてくれた手料理の写真が現れる。
「今日はステーキ。久しぶりにイタリアンを作ったよ」
そんな飾らない一言とともに添えられたお皿は、そこらの高級店でもお目にかかれないほど洗練され、色鮮やかな夏野菜が添えられていた。
『こんなオシャレなステーキあるんだね、本当プロの料理だ』
『野菜も一緒だとさっぱり食べられて美味しいよ』
画面の中のキャッチボールは、どこまでも優しく、温かい。
薫は自分の過去や実績を鼻にかけるような真似は決してしなかった。けれど、その料理の端正さや、何気ない言葉の端々から滲み出る圧倒的な包容力、そして人の心の痛みに敏感すぎるほどの繊細さ。そのすべてが、杏奈の凍えていた心を溶かし、捉えて離さなかったのだ。
「私、重いよ」
出会ったばかりの頃、杏奈はそう言って自ら壁を作ろうとしたことがある。
誰かを深く愛してしまう自分が怖かったし、夜の街で傷つくことにも慣れ切っていたからだ。
けれど薫は、そんな杏奈の言葉を払いのけることも、あざ笑うこともなかった。ただ静かに微笑み、その「重さ」ごと、彼女の存在を丸ごと愛おしそうに包み込んでくれた。
(どこに行っちゃったの、薫さん……)
いつもの強がりも、くだらないプライドも、何もかもどうでもよくなっていた。
見捨てられたのだとしたら惨めすぎるし、自分から追うなんて夜のキャストとしても女としてもあまりにみっともない。格好悪くて、酷く醜い執着かもしれない。それでも
——理屈じゃなく、どうしても好き、彼じゃなきゃダメだったの
画面の中の写真はどれも鮮やかで、思い出の中の薫は今も変わらず優しく微笑んでいる。
けれど、愛おしさに触れようと伸ばした指先が触れるのは、冷酷で硬いガラスの画面だけだ。
一度その圧倒的なぬくもりを知ってしまった以上、もう他の誰の言葉も、この胸にぽっかりと空いた空洞を埋めることはできない。
押し寄せる途方もない喪失感に胸が引きちぎられるように締めつけられ、杏奈は浅い呼吸をくり返した。胸の奥へ入り込む空気が冷たくひりつき、うまく息が吸えない。打ちひしがれたままスマートフォンを胸に強く抱きしめ、二度と戻らない静寂の闇の中で、ポロポロと止まらない涙を零した。




