第11話:『親切という毒針、聞こえ始めた噂』
薫が姿を消してから、虚しい夜だけが積み重なっていく。
第11話では、周囲の陰湿な嫌みや不穏な噂話に心を抉られながらもプロとして振る舞う杏奈の葛藤を描きます。かつて「なぜ私なの?」と不安から何度も尋ねた時に、薫が毎回初めのように優しく答えてくれた言葉を思い出しながら、深まる謎と不安の闇の中で立ち尽くす杏奈の切ない苦悩を描いた一章です。
薫が姿を消してから、どれだけの夜が通り過ぎただろう。
どれだけ胸の奥に深い穴が空いていようと、ドレスを纏えば杏奈は完璧なプロだった。他のどの席についている時も凛と背筋を伸ばし、行き届いた気配りと洗練された振る舞い、そして華やかな笑顔で店内の空気を魅了する。彼女の人気や指名が衰えることはなかった。
だが、どれだけ高級なシャンパンが開こうと、太客に甘い言葉を囁かれようと、誰と過ごしていても心は冷え切ったままだ。薫が残していった温もりの余韻だけが、解けない魔法のように彼女を縛り続けていた。
そんな杏奈の抱える焦燥感を察してか、店内の空気は日に日に嫌な棘を帯び始めていた。
夜の街は、他人の隙や不遇を誰もが蜜の味として群がる場所だ。薫という圧倒的な存在がパタリと来なくなったことを、周囲のキャストたちが目ざとく見逃すはずもなかった。
「杏奈ちゃん、大丈夫? すごく痩せた気がして心配になっちゃって」
控え室でドレスに着替えている最中、同期のキャストが首をかしげ、痛々しい表情で鏡越しに話しかけてきた。
「薫さん、あんなに大切にしてくれてたのに……急に来なくなっちゃうなんて。理由も言えないような大変なことでも起きたのかな。あんなに素敵な人だったのに悲しすぎるよ」
心配する振りをしながら、一番触れられたくない不安を静かに突いてくる。
「別れた」とも「捨てられた」とも言わない。けれど、「理由すら告げられずに切られた」「あなたはその程度の存在だった」という陰湿な悪意が、親切な言葉のオブラートに包まれて、かえって容赦なく杏奈の胸の奥深くを抉った。薫が来ていた頃は遠巻きに指を咥えて見ていたくせに、影を潜めた途端にここぞとばかりに哀れむ振りをして攻めてくる。
(余計なお世話だよ……)
杏奈は顔には一切出さず、心の中で冷たく吐き捨てると、鏡の前で完璧な作り笑顔を整えて控え室を後にした。
だが、胸を苛む不穏は、キャストたちの嫌悪感を煽る言葉だけでは終わらなかった。
「……そういえばさ、薫さんの噂、聞いた?」
ある夜、親しい黒服が周囲を気にしながら、声を潜めて耳打ちしてきた。
風の便りのように聞こえてくる薫の噂。だが、それはどれも信じがたく、内容もバラバラでどれが真実なのか判別がつかなかった。
「会社で大きなトラブルがあったらしいよ。夜の街どころじゃないとか」
「いや、深刻な病気で急遽入院したって話も聞いたぞ」
「どこかの女と駆け落ちして、埼玉から遠くへ引っ越したなんて言ってる奴もいる」
錯綜する不穏な噂の数々。
(嘘であってほしい。誰かの下らない悪口であってほしい……)
そう願えば願うほど、胸を刺すような鋭い胸騒ぎが杏奈の全身を駆け巡る。
かつて、自分に自信が持てず、いつかこの幸せが消えてしまうのではないかと不安に押し潰されそうになるたび、杏奈は薫に何度も同じ質問を投げかけていた。
『ねえ……こんなに可愛い子も綺麗な子もたくさんいるのに、なんで私なの?』
何度も繰り返したその問いに、薫は一度だって嫌な顔をすることはなかった。グラスをそっと置くと、まるで初めて聞かれたかのようにいつだって新鮮で穏やかな眼差しを向け、優しくこう答えてくれたのだった。
『性格だよ』
出会ったあの日のままの温度で注がれるその一言が、どれほど杏奈の気持ちを救ってきたことだろう。
ただの心変わりや冷められただけなら、どれだけ傷ついても諦めがついたかもしれない。
けれど、不気味なリアリティを帯びて錯綜する噂話は、どれも杏奈の頭から離れてくれなかった。
「薫さん……無事でいて……お願いだから……」
絢爛なライトとざわめく店内の喧騒の中で、杏奈は凍えそうな手でドレスの裾を強く握りしめた。
姿の見えない薫の影と、胸を支配する圧倒的な不穏。逃げ場のない深い闇が、嫌な胸騒ぎとともに彼女を静かに呑み込もうとしていた。




