第12話:『噂の果てと、隠されたぬくもり』
薫が姿を消してから、半年という虚しい時間が過ぎようとしていた。
返信のない画面、呼び出し音だけが虚しく響く電話。自分を責め続ける杏奈のもとに、系列店のナンバーワン・礼亜がもたらしたのは、あまりにも残酷で決定的な「薫の死」という現実だった。喉を押し潰されるような絶望と必死に戦いながら、冷たい仮面を被り続ける杏奈の凄絶な涙を描いた、物語の大きな転換点となる第12話です。
薫が『ETERNAL』から姿を消して、半年が過ぎようとしていた。
返信のないLINE、呼び出し音が虚しく響くだけの電話。杏奈の心は、「嫌われたのかもしれない」「ただの気まぐれだったのかもしれない」という後悔と自責の念に苛まれ続けていた。
そんなある夜、店に見知った顔がやってきた。
系列店『MIRAGE』のナンバーワン、礼亜だった。上客のアフターに同行してやってきた彼女は、相変わらず派手で煌びやかな笑顔を振りまいていた。
杏奈がその席へつくと、お酒の回った礼亜がグラスを傾け、ふと思い出したように軽いトーンで口を開いた。
「あ、そういえばさ〜杏奈ちゃん。前に私の連れでここに来た薫さんって覚えてる? ほら、いつも静かにお酒飲んでた人」
ドクン、と心臓が跳ね上がった。杏奈は必死に表情を死守し、胸の動揺を覆い隠すように「……ええ、なんとなく」と短く頷く。
礼亜は、杏奈と薫が裏でどれほど深く心を通わせていたことなど知る由もない。ただの「過去の自分の客の噂話」として、何気ない口調で言葉を続けた。
「あの人さ、急にお店に来なくなってから病気が見つかったらしくて……先月亡くなったんだって。胃ガンだったらしいよ。すごく進行が早かったみたい」
ドクン、と胸の奥で重く冷たい音が響いた。
瞬時に周囲の華やかな喧騒が遠のき、世界からすべての音が消え去る。目の前の光景が、まるで濡れたガラス越しのようにぐにゃりと歪んだ。
「倒れて入院してからも周りには一切言わないでさ、最期まで一人で耐えてたんだって。ホント、男の人ってバカよね」
礼亜は何の気なしに笑いながら、目の前の客におねだりをしてグラスを空けている。
(……嘘……でしょ……?)
耳の奥で、甲高い異音が鳴り響いていた。
全身の血がスーッと引いていき、指先から感覚が失われていく。叫び出したい衝動、その場に崩れ落ちそうな膝を、杏奈は死に物狂いで踏みとどまらせた。
弱音を吐かず、どこまでも一人で抱え込み、自分にはただ包み込むような優しさだけを与えてくれた。あのどこまでも大きくて温かい背中。
(薫さん……っ……なんで……)
ここで崩れ落ちれば、すべてが明るみに出てしまう。
夜のプロとしての矜持、自由にはなれない己の立場、そして何より——二人だけが重ねてきた、あの愛おしく温かい時間を、有象無象の好奇の目に晒して汚されたくないという悲痛な執着が、杏奈の顔に冷たい仮面を張り付かせた。
「……そうだったんですね。お若いのに、残念ですね……」
震えそうになる声の輪郭を必死に整え、小さく一礼する。
感情の失われた、完璧で冷徹なキャストの顔。
だが、テーブルの下で強く握りしめた爪は、皮膚を破り、手のひらに血が滲むほど深く食い込んでいた。痛みの感覚すら、すでに途絶えていた。
——嘘じゃなかった。
自分を捨てたわけでも、あの夜に交わした言葉が気休めだったわけでもなかった。
「また来るよ。今度、ご飯でも行こうよ」
と言って見せたあの穏やかな笑顔。
あれは、忍び寄る病の影と死の恐怖に怯えながらも、自分と過ごす瞬間だけはただの一人の男として笑いたかった薫の、命を賭した精一杯の強がりだったのだ。崩れていく自分の姿を見せたくない、大好きな自分を悲しませたくないという、あまりにも静かで、あまりにも残酷な優しさ。
「……少し、お手洗いに行ってきます」
かすれた声でそう告げ、席を立つ。バックヤードへ向かう足元は、まるで氷の上を歩いているかのように定まらない。
女子トイレの鍵をかけた瞬間、杏奈は洗面台に両手をつき、声を殺して激しく身をよじらせた。
「……ッ、……う、あ……っ……!」
押し寄せる絶望の波に喉が引きつり、うまく息が吸えない。
「ずるいよ……っ! どうして……どうして何も言ってくれなかったの……っ!」
口を極限まで塞ぎながら、込み上げる咽び泣きを吐き出す。零れ落ちる大量の涙が、完璧に作り込んでいたメイクをドロドロに溶かし、冷たい洗面台の陶器を濡らしていく。
「嫌われた」という惨めな恐怖からは救われた。
けれどそれ以上に、
「もう二度と会うことも、名前を呼ぶことも、その大きな胸に抱きしめられることもできない」
という、永遠の喪失が杏奈の胸を無慈悲に引きちぎっていた。
一度知ってしまった彼の体温が、包み込んでくれたあの匂いが、あまりにも恋しくて、苦しくて、胸が張り裂けそうだった。
店に戻れば、また礼亜たちが何事もなかったかのようにグラスを鳴らしている。
有象無象の男たちが札束をチラつかせ、偽りの愛を買い求めに群がってくる、冷たく狂ったこの世界で。
杏奈は溢れ出る涙を何度も拭い、冷えた水で顔を洗うと、鏡の中の自分に向かって再びプロの笑顔を作り上げた。
手繰り寄せたドアノブの冷たさの中に、確かに残るあの夜のぬくもり。
そして、二度と叶うことのない約束を胸に深く突き刺したまま——彼女は再び、光と影の混ざり合うフロアへと足を踏み出した。




