第13話:『消えない問いと、暗闇の慟哭』
薫の死という残酷な真相を知りながらも、プロとして最後まで接客をやり遂げた杏奈。
第13話では、静まり返った暗闇の自室に戻り、抑え込んでいた感情が一気に決壊する姿を描きます。「あの時こうしていれば」という答えのない後悔と、二度と逢えない絶望の中でひとり打ちひしがれる、悲痛な夜を描いた一章です。
どれほど長く、冷たい時間だっただろう。
店での営業を終え、送り車のシートに深く身を沈めている間も、杏奈の意識はどこか遠くを漂っていた。流れていく街灯のオレンジ色が、濡れた窓ガラスの上で滲んでは消えていく。
自室の重いドアを開け、玄関に一歩足を踏み入れた瞬間、緊張の糸がぶつりと切れた。
バッグが床に落ちる音すら気に留めず、靴を脱ぎ捨てる余裕もなく、杏奈はその場に崩れ落ちた。
暗闇に包まれた室内。電気を点ける気力すら湧かない。静まり返った部屋の中で、ひとり膝を抱え込むと、胸の奥に押し込めていた絶望の波が一気に溢れ出した。
「う……ッ……あ……あぁ……っ……!」
喉の奥から這い出すような掠れた声が、無人の部屋に虚しく響く。
溢れ出す涙は止まることを知らず、膝に押し当てた顔を濡らし、服の生地に冷たく滲んでいった。
脳裏を渦巻くのは、答えのない後悔の嵐だった。
異変を感じ取っていたはずなのに、なぜもっと必死に手繰り寄せようとしなかったのだろう。
ただ拒絶されるのが怖くて、プライドと強がりを守るために距離を置いてしまった自分。自分から追いかけるのはみっともないと、意地を張ってじっと待っていた自分。
もしあの時、なりふり構わず一歩を踏み出していたら。
「どう思われてもいい、嫌われてもいいから声が聞きたい」と、くだらないプライドなんて全部投げ捨てて、薫さんをもっと強く求めていたら。
ほんの少しでも、最期の孤独を分かち合えたのではないか。
「大丈夫だよ」「そばにいるよ」と、あの温かい背中に寄り添ってあげられたのではないか。
(ずるいよ、薫さん……っ。どうして最後まで格好つけるの……?)
一人で病の恐怖と戦い、崩れていく身体に耐えながら、静かに旅立っていった薫。
杏奈に見せた最後の笑顔は、彼女を傷つけまいとする薫の最大の愛であり、精一杯の強がりだった。
けれど、遺された杏奈にとって、それは一生解けることのない哀しい呪縛だった。
暗闇の中、胸のポケットからスマートフォンを取り出す。
眩しい液晶の光を浴びながら、もう二度と更新されることのないLINEのトーク画面を開く。
画面を撫でる指先が激しく震える。どれだけ「大好き」と打ち込んでも、どれだけ「逢いたい」と送信しても、既読がつくことも、返事が返ってくることも永久にない。
胸を抉るように残されたのは、ただ果てしない冷たさと、「もう二度とこの世界で逢うことも、声を聴くことも、あの温もりに触れることもできない」という、呼吸すらできなくなるほどの途方もない絶望だけだった。
一度知ってしまった彼の深い包容力が、耳元で囁いてくれた優しい声が、抱きしめられた時に香ったあの温かい匂いが——愛おしくて、恋しくて、逢いたくて、胸が引きちぎられそうなほど痛かった。
「……逢いたいよ……薫さん……っ……お願いだから……お願いだから帰ってきて……っ」
誰もいない暗闇の部屋で、杏奈は溢れ出る涙で視界を泥のように濡らしながら、冷たい床に何度も何度も額を押し付けた。
どんなに泣き叫んでも、どれだけ身体を丸めて震えても、ぬくもりを与えてくれた手はもう二度と彼女の髪を撫でてはくれない。
届くはずのない哀叫を夜の静寂に吐き出しながら、杏奈は声が枯れ果てるまで、ただ一人、果てしない絶望の闇の中で蹲り泣き続けた。




