第14話:『叶わなかった既読、届いた声』
絶望の闇の中で声を押し殺して泣き続ける杏奈。
第14話では、お店宛てに生前の薫が遺していた一通の手紙が届く物語の最高潮を描きます。姿を消した本当の理由、病を隠し続けた理由、そして源氏名ではなく本名へ贈られた、あの頃の思い出と圧倒的な愛の告白。時を越えて届いた薫の真実に、杏奈の心が温かな涙で包まれる涙必至の一章です。
絶望の夜が明け、部屋の隙間から冷たい灰色の朝光が差し込んでも、杏奈は冷えた床に伏したままピクリとも動くことができなかった。
泣き濡れた頬は突っ張り、掠れた喉は息を吸い込むたびに痛む。世界から鮮やかな色彩が失われ、ただ果てしない喪失感だけが彼女の胸を静かに蝕んでいた。
出勤の時間になり、死んだような心地のまま店へ向かう。どれだけ心が砕け散っていようと、煌びやかな光と偽りの愛が交錯する夜の街へ足を運ばなければならない現実が、冷たく身体を締め付けた。
開店前の静かなバックヤードへ入ると、親しい黒服が気遣わしげな表情で寄ってきた。
「杏奈さん、これ……少し前に店宛てに届いてたんだけど、渡すタイミングを逃してて」
差し出されたのは、一通のレターパックだった。
(店宛てに……私への郵便……?)
個人の自宅住所を知らない誰かが、店へと送ってきたのだ。首をかしげながらパッケージの表面に目を落とし、差出人の欄に書かれた端正で読みやすい筆跡を見た瞬間、杏奈の息が止まった。
そこには、見紛うはずもない薫の本名、鈴木薫が記されていた。
あの日から途絶えていた彼の影が、時を越えて目の前に現れたような衝撃。震える指先で封を割り、控え室の隅で小さく折り畳まれた便箋を開く。そこには、溢れんばかりの優しさを纏った薫の温かい文字が並んでいた。
『あかりへ
この手紙が届いているということは、俺はもう君の側にはいないんだと思う。
夜の街での名前ではなく、君が大切に教えてくれた本名で呼ばせてね。
黙って姿を消してしまって、本当にごめん。驚かせてしまったよね。
理由も告げずに去ることが、どれほど君を不安にさせ、傷つけてしまうか……何度も悩みました。
お店に行かなくなった頃、俺の体に進行の早い病気が見つかりました。医者から余命を告げられた時、真っ先に浮かんだのは君の笑顔でした。
本当は、君の手を握って甘えたかった。
「怖い」と泣きつきたかった。
でも、弱っていく俺の姿を見せて、君の綺麗な瞳を涙で濡らしたくなかったんだ。夜の街で傷つきながらも、一生懸命に凛と咲こうとしている大切な君に、悲しい影を落としたくなかった。
いつも大人のフリをして、包容力があるように見せていてごめんね。
本当はね、あかりが隣に座るたび、手を繋ぐたびに、心臓が壊れそうなくらい毎回ドキドキしていたんだよ。君の前で格好いい男でいたくて、余裕のフリをするのはずっと必死だったよ。
あかりと出会えて、俺の人生は最後に最高の彩りをもらいました。
お店で隣に座ってくれたこと。大宮の街を手を繋いで歩いたこと。「薫さんの匂いだ」って笑って抱きついてきてくれたこと。「薫さんのシルエットだ」と来店にすぐ気付いてくれたこと。そして、「なんで私なの?」と不安そうに何度も聞いてくる愛おしい表情。
あの時間のすべてが、俺の人生の中で一番輝く、本物の宝物でした。
「性格だよ」と答えたけれど、本当は言葉にならないくらい、君のそのまっすぐで、繊細で、温かい心のすべてを愛していました。
あかり、自分を責めないでね。
君と過ごせたから、俺は最後まで幸せでした。
もう泣かないで。君には笑顔が一番似合うから。
姿は変わってしまうけれど、俺はこれからも、そしてこの命が尽きたあとも、ずっと空の上で君のことを信じて待っています。
だから焦らずに、君のペースでゆっくり生きてきてね。
いつかまた会えたときに、たくさんの思い出話を聞かせてほしいな。
今まで本当にありがとう。
最後に1つだけわがまま言っていい?
ずっと一緒にいたかった。
ごめん。
世界で一番素敵な君を、世界で一番愛しています。 薫』
「あ……ぁ……ッ……薫さん……っ……!」
便箋を胸に強く抱きしめると、押し殺していた涙がぽろぽろと零れ落ち、紙面を濡らしていった。
指名されるための「杏奈」ではなく、誰も知らない素顔の「あかり」という存在を、ただ一人の愛おしい女性として深く愛してくれていたこと。
いつも穏やかに微笑み、完璧に格好つけ続けた彼が、手紙の最期に絞り出すように書いて残してくれた「ずっと一緒にいたかった」という切なすぎる本音と謝罪。
そこに書かれていたのは、冷たい拒絶でも気休めの言葉でもなく、自分の存在を丸ごと肯定し、最後まで命を賭して守り抜いてくれたあまりにも深く大きな愛だった。
「嫌われた」という惨めな傷は跡形もなく消え去り、胸の奥に開いていた暗く冷たい穴が、薫が命を注ぎ込んで残してくれた温かい熱でじんわりと満たされていく。
(ずるいよ……こんなの、一生忘れられるわけないじゃん……っ)
涙で霞む視界の中、杏奈は溢れ出る涙を拭いもせず、手紙に刻まれた彼の文字を愛おしそうに何度も何度も指先で撫でた。
バックヤードの小さな窓から、街の眩いネオンの光が静かに差し込み、彼女の頬を伝う一筋の涙を美しく照らし出していく。
時を越えて届いた彼の本当の想いに抱かれながら、杏奈は二人の思い出が息づく静かな夜空を見上げ、深く、切なく、温かい涙を流し続けた。




