第15話:『色なき風の吹く頃に』(最終話)
手紙に遺された薫の言葉が、止まっていた杏奈の時間を静かに動かしていく。
第15話(最終話)では、静まり返った自室で思い出のとうもろこしご飯を炊きながら、彼が残してくれた深い愛をかみしめる姿を描きます。傷つくことを恐れていた自分を救ってくれた薫の面影を抱き締め、プロとして、一人の女性として再び歩み出す感動のフィナーレです。
静まり返った自室のキッチン。夕暮れの淡い光が差し込む中で、杏奈は一人、静かに包丁を握っていた。
旬のとうもろこしの実を丁寧に削ぎ落とし、研いだお米と一緒に炊飯器にセットする。出汁と塩をほんの少し。
『今日ね、とうもろこしご飯作ったの!』
あの頃、無邪気にLINEで写真を送った日のことが、鮮明に脳裏に蘇る。
あの素朴な一枚の写真から、止まっていた二人の時間が静かに動き出したのだ。
やがて、部屋の中に甘く香ばしい湯気が立ち込め、炊飯器が小さな電子音を鳴らした。
蓋を開けると、ふっくらとした米粒の間で、鮮やかな黄色い粒が輝いている。お茶碗に一杯だけ装い、湯気が立つそれをテーブルに置いた。
向かい側には、誰もいない。
一口、口に運ぶ。
出汁の優しさと、とうもろこしの素朴な甘みが広がると同時に、胸の奥から熱いものが一気にこみ上げてきた。
夜の街でたくさんの男たちを見てきて、他人の身勝手さや欲望の酷さに触れるたび、彼女の心はどんどん臆病になっていた。誰かを深く信じることも、心を許すことも怖かった。それなのに薫さんは、そんな頑なだった自分の心をそっと解きほぐし、素顔の「あかり」として生きる自由と強さを与えてくれた。これから先、彼と一緒ならどんな恐怖からも解放されて生きていけると思っていたのに。
ふと、あの静かなボックス席で、薫が不意に遠くを見つめながら溢した言葉が耳の奥で再生される。
『もし杏奈ちゃんが50歳くらいになった時……歳の離れた俺は、もうこの世界にはいないかもしれない。でもね、ふと若い頃の自分を振り返った時に、“そういえば、昔そんな人がいたな”って、一瞬でも思い出してくれたら……それだけで俺の人生、上出来だよ』
あの時は、「そんな不吉なこと言わないでくださいよ」と冗談めかして笑い飛ばした。
けれど薫は、自分が長く生きられない運命をどっかで感じながら、未来の杏奈の心の中に“自分という影”をそっと残すために、あの言葉を口にしていたのだ。
——上出来だなんて、ずるい。
「一瞬だけ思い出してだなんて……『ずっと一緒にいたかった』なんて最後に書いて残すくらいなら、最初からどこにも行かないでよ……っ」
ぽろぽろと零れ落ちる大粒の涙が、お茶碗のふちに当たって静かに弾けた。
50歳どころか、これから先、どれだけの歳月が流れようと。どれだけ多くの男たちが自分の前を通り過ぎていこうと。杏奈の心の中の「一番深い場所」には、ずっと薫が座り続けている。
自分を夜のキャストとしてではなく、一人の女として愛おしんでくれた、あの静かな瞳と手の温もり。そして手紙に残された「愛しています」という最後の告白。
杏奈は涙を拭うこともせず、一人でとうもろこしご飯を噛みしめた。
「……美味しくできたよ、薫さん」
窓の外では、色なき風が街の木々を静かに揺らしている。誰にも届かない言葉が、夕暮れの部屋に静かに溶けていく。
夜が来れば、杏奈は再びドレスを纏い、華やかな『ETERNAL』の街へと繰り出す。
プロの笑顔を張り付け、群がる男たちにグラスを傾ける冷めた世界。
けれど、彼女の胸の奥には、どんな金や権力でも奪うことのできない、たった一つの「美しい傷跡」と、永遠に消えない愛の熱が宿っていた。
『もう泣かないで。君には笑顔が一番似合うから』
手紙に書かれていた彼の言葉を胸に、杏奈は自室の鏡に向かって、凛としたプロの笑顔を作った。
通り抜ける秋風の中に彼のぬくもりを感じながら、二度と解けることのない愛の魔法を全身に纏いながら、杏奈はこれからも、強く、美しく、夜を生き抜いていく。
最後まで『色なき風の吹く頃に』をお読みいただき、本当にありがとうございました。
ありがとうございました。最後まで温かく見守ってくださった皆様に、心より感謝申し上げます。
かけがえのない二人の時間と、夜の街で懸命に生きる杏奈の成長を描いたこの物語も、ここでひとつの結末を迎えます。
理由もなく消えることのない薫の深い愛は、これからも彼女の胸の中で「消えない光」として輝き続けるはずです。
あたたかい応援や感想を届けてくださった読者の皆様、本当にありがとうございました。
いつの日も、一生懸命に咲こうとする彼女の姿に、私自身もたくさんの勇気をもらいました。
幸せな思い出と、胸に残る温かいぬくもりを抱きしめながら、彼女はこれからも強く歩んでいきます。
天の空の上から、大切な人の幸せを静かに祈り続ける薫の想いとともに。
ルーティンのように巡る季節の中で、この物語が少しでも皆様の心に寄り添えたなら幸いです。




