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第8話:『背中越しの暗転』

あの夜、交わしたあたたかな温度と、「ずっと一緒に居てね」という言葉の余韻。

けれど、夜の街で重ねる時間は、ときに言葉以上に鋭い影を落とします。

お互いを大切に想うからこそ生じてしまうすれ違いと、胸を締め付けるような冷たい距離感を描きました。

誰よりも深い理解者だからこそ見えてしまう弱さと、素直になれない強がり。切なく揺れる二人の感情の機微を、どうぞ最後まで見届けてください。

あの甘く熱い一夜から、わずか数週間後のことだった。


一人ひとりのお客様へ丁寧な返信を心がける几帳面な性格も災いし、連日の激しい指名争いと深夜におよぶ営業の中で、杏奈の心身は限界を迎えていた。鳴り止まない通知とプレッシャーに追われ、自分の弱さを見せまいと気を張れば張るほど心にはゆとりがなくなり、刺々しいトゲが生まれてしまう。


そんな夜、薫が再び『ETERNAL』の扉を開けた。

タイミング悪く杏奈は別のテーブルにかかりきりで、代わりに席へついたのはフリーのヘルプキャストだった。


「薫さんって、杏奈さん指名なんですか〜?」


氷をカランと鳴らしながら、そのキャストはどこか含みのある笑みを浮かべて身を乗り出してきた。夜の街に蠢く女たちの、無造作で悪意に満ちた好奇心。


「杏奈さん、最近ほんと引っ張りだこですよね。……あ、でも噂で聞いたんですけど、最近すごくお金落としてれる太客の方とか、イケメンの経営者の方と、連日豪華に同伴やアフターしてて、店外で腕絡ませてすごく仲良さそうに歩いてるの、何人も見かけた子がいて〜」

他意を装って落とされる、生々しい噂話。


薫は顔色ひとつ変えず「へえ、そうなんだ」と軽く流したが、胸の奥で冷たい棘がぐさりと深く刺さり、嫉妬と疑心が渦を巻くのを感じていた。


しばらくして、ようやく杏奈が薫の席へとやってきた。

すでに深く酔っていた彼女の白目はほんのり赤く染まり、瞳は痛々しいほど潤っている。


会話のふとした合間に、薫は先ほどの噂について何気なく、けれど短く問いを投げる。


「……最近、色々忙しそうだね」


その言葉に含まれた微かな探りの色を、過敏になっていた杏奈は見逃さなかった。

一番の理解者であり、自分のすべてを受け止めてくれたと思っていた薫からの探るような視線。それが彼女の誇りを傷つけ、張り詰めていた糸をあっけなく切ってしまう。


「……薫さんまで何? そんな疑うようなこと言いに来たの? 私のこと、一番分かってくれてると思ってたのに……」


赤く染まった瞳をさらにうるませ、彼女は悔しそうに言葉を吐き捨てた。


「仕事なんだから、誰とどう過ごそうが私の自由でしょ。そんな嫌味言われる筋合い、ないんだけど」


吐き捨てた瞬間、杏奈の胸が大きく上下した。

浅い呼吸のなかで瞳がわずかに揺れ、己の刺々しい言葉の重さにハッと息を飲む。伏せられた目線が言い過ぎたことへの後悔を滲ませていたが、強がりとプライドが邪魔をして撤回することもできない。


自分は彼女にとって、そんな浅はかな疑いをかけるだけの男にしか見えていなかったのか——。その誤解を解く術もなくただ受け止める薫の胸に、底知れない哀切と哀傷が広がっていった。


自分を守るためだけに向けられたその言葉と気まずい沈黙が、二人の間に重く冷たく落ちる。


薫は怒ることもなく、ただ静かにグラスに視線の落としどころを戻した。 

「そうだね。ごめん」


重苦しい空気のまま時間が過ぎ、黒服に退店を告げ会計を済ますと、薫は席を立った。


本来なら当然お客様を、店の入口までは笑顔で見送るのがこの業界のルールだ。だが、今の杏奈には笑顔を作る余力も、素直に謝る余裕も残っていなかった。


入口の手前で足を止め、それ以上の距離を詰めようとしない杏奈。声をかけて引き留めることもできず、ただ作業のように一礼をして背中を見送る。


その素っ気なく、なおざりな態度に、二人の間の距離が絶望的なほど広がっていることが明白だった。


——薫の背中が夜の街へと消えていった。


その夜。

静まり返った自室で、薫のスマートフォンが短く光を放った。

画面に表示されたのは、気まずさと自分の感情的な態度に対する焦りから送られてきた、杏奈からのメッセージ。

本当は「ごめんね」と甘えたいのに、素直になれず強がって作ってしまった壁。そこに並んでいたのは、あの日送られてきたぬくもりなど微塵もない、あまりにも無機質なテンプレの文章だった。


『薫さん、先ほどはありがとうございました! まだまだ暑い日が続きますが、お身体に気をつけてくださいね。またお会いできるのを楽しみにしています』


傷つくのを恐れて急に張り付けたような教科書通りの定型文。

その裏にある彼女の不器用な強がりと怯えを、薫は画面越しに敏感に悟った。


(ああ、そういうことか)


薫は一度だけ小さく息を吐き、静かにLINEの画面を閉じた。

繋がったはずの糸が、音もなく、冷ややかに千切れていった。

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