第4話:『昨日に戻りたいけど……』
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『色なき風の吹く頃に』第4話をお届けします。
たった一人で彼女の元へ向かった薫と、予想外の来店にプロの仮面を剥ぎ取られて動揺する杏奈。
二人の間に流れる「100のうち97は欠点」という言葉の意味、そして宮崎辛麺を食べた後の甘く切ない夜の余韻を描きました。
夜の街のルールと、溢れ出しそうな本音の狭間で揺れる二人の熱をぜひお楽しみください。
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その夜、薫はたった一人で『ETERNAL』の重い扉を叩いた。
礼亜も、MIRAGEのスタッフも連れていない。
ただ、杏奈という一人の女性に会うためだけに。
名前を告げ、黒服に案内されてボックス席で待っていると、やがて現れた杏奈の反応は、予想を遥かに超えていた。
「……え? え……っ? 薫さん、おひとり……? えっ、なんで……?」
いつもの余裕ある接客の面影など、微塵もなかった。
グラスを持つ指先がかすかに震え、アイスペールに触れる手元もおぼつかない。疑問と、それを遥かに上回る圧倒的な嬉しさが爆発し、いつもなら巧みなトークで場を盛り上げるはずの彼女が、声を詰まらせてあからさまに動揺し取り乱している。
「礼亜ちゃんの店じゃないのに……? 本当に、私だけに会いに来たの……?」
瞳を震わせながら必死に確認してくる姿は、プロの仮面を完全に剥ぎ取られた、一人の不器用な少女そのものだった。
『礼亜と一緒に来る客』という勝手に作った壁の向こう側で、彼女はずっと声を上げられずに好意を殺していたのだ。それが「1人で自分に会いに来た」という絶対的な事実によって、決壊するように溢れ出していた。
ふわりと漂う、薫の洗練されたウード・ウッドの香り。その心地よい匂いに包まれながら、杏奈は胸の中にあった問いを口にした。
「……薫さんって、本当に完璧ですよね。気遣いもスマートで、余裕があって。欠点なんてあるんですか?」
どこか遠い世界の人を見るような瞳で尋ねる杏奈に、薫は少し可笑しそうに目元を和らげると、静かにグラスを置いた。
「欠点? 100あるうちの、97は欠点だよ」
「え……? 97も……?」
「そう。俺なんて欠点だらけ。ただ……たった3つの長所が、その97の欠点をうまく隠してるだけなんだよ」
——100のうち97は欠点だけど、たった3つがそれを隠してるだけ。
完璧に見えた大人の男がふと見せた、照れ隠しのような謙虚さとユーモア。その言葉の深みに、杏奈の胸は強く打ち抜かれていた。
営業が終わり、店を出たあとも彼女の愛おしさは止まらなかった。
「薫さん、もしよかったら……これから一緒に宮崎辛麺、食べに行きませんか?」
かなりお酒が回って足元が怪しいくせに、嬉しそうにアフターへ誘ってくれた杏奈。
二人で宮崎辛麺を味わい、その店を出たあとも、彼女の健気なエスコートは続いた。
「タクシー乗り場まで送る!」
そう言い張り、薫の手をギュッと握りしめて夜の街を先導してくれたのだ。
見上げれば、ネオンの届かない高い空に、透き通るような綺麗な星々が静かに瞬いている。少し冷ややかな夜風が、二人の火照った頬をかすめて吹き抜けていった。
乗り場に着くと、少しでも早く車を拾おうと必死になり、フラつく足取りで車道へ出そうになる杏奈。思わずその華奢な体を強く引き寄せ、腕の中に閉じ込めた。
「あっ……」
不意に奪われた体勢に驚いたのも束の間、彼女は抵抗するどころか、すっと力を抜いて薫の胸元に体重を預けてきた。やわらかな髪から漂う甘い香りと、薄い服越しに伝わる小さな鼓動。お酒の熱と夜風の冷たさが混ざり合う中で、二人の境界線がゆるやかに溶けていくのが分かった。
澄み渡る夜空の下で重なった体温と、繋いだ手から伝わってくる確かな熱。タクシーに乗り込む瞬間まで、名残惜しそうに手を握り返して見送ってくれたあの温もりは、今も薫の掌に鮮明に残っていた。
——そして、翌晩。
静まり返った部屋の中で、スマートフォンの画面が短く光を放った。
画面に表示されたのは、昨夜の余韻と感謝が綴られた杏奈からの御礼のLINE。
そのメッセージの結び——。
『昨日に戻りたいけど……』
言葉のあとに続く『……』を飲み込んだような、たった一行。
過去になってしまったあの甘い時間に戻りたいと願う熱と、大人の防衛本能、夜のルールを超えてはいけないという遠慮。彼女の交錯する想いが、画面越しに痛いほど伝わってくる。
惹かれるままに会いに行ったあの一夜の手の温もりと、液晶の光に浮かび上がる文字。
静かな部屋の中でそれらを見つめたまま、薫は深く息を吐き、指を止めた。
夜の嘘を、いとも簡単に本物に変えてしまう甘い毒。
『昨日に戻りたいけど……』と呟く彼女の熱と、胸に刺さったまま抜けない愛おしさが、薫の平熱だった世界を、深く、深く侵食していた。




