第5話:『何でもない日のベル・エポック』
何でもない日常の会話、何気なく交わしたメッセージの一言。
自分すら忘れてしまいそうな小さな記憶を、すべて大切に抱きしめていてくれる男がいる。
言葉を尽くすこと。
そして、圧倒的な行動と美学でそれを示すこと。
夜の街のルールも、嘘も、大人としての防衛本能も。
あたたかなピンク色の泡の中に、すべてが溶け出してゆく一夜の物語です。
静まり返った夜の部屋で、薫は画面に浮かぶ杏奈からのメッセージを見つめていた。
『宇都宮は来週帰ることにしました。お店が来週お休みだから、今週はひとまずお仕事頑張るよ』
一見すれば、ただの日常のスケジュール報告。
けれど、行間に潜む彼女の本音を、薫が見逃すはずもなかった。
「今週じゃないと、薫さんに会えない」
我儘を言って困らせたくないという慎ましい遠慮と、会いたいという抑えきれない熱。その健気で不器用なサインをそっと汲み取った薫は、静かに部屋をあとにし、夜の街へと脚を向けた。
——訪れた『ETERNAL』のボックス席。
目の前に突然現れた薫の姿に、杏奈は信じられないといった様子で澄んだ瞳を大きく見開いた。
「薫さん……えっ、なんで……? 来てくれたの……?」
「なんとなく、君に呼ばれた気がしたから」
薫が唇に静かな笑みを浮かべると、黒服が恭しくテーブルへ一本のボトルを運んできた。
透明なガラス越しに揺れる、艶やかなサーモンピンクの雫。そこに描かれた華やかな白いアネモネの花々。
『ペリエ ジュエ ベル エポック ロゼ』——。
夜の街でも特別な夜にしか開かない、最高峰のシャンパンだった。
「え……!? ベル・エポック……? しかもロゼ……!?」
杏奈は息をのむように目を見張り、ボトルと薫の顔を交互に見つめた。
「薫さん、今日って誰かの誕生日でしたっけ……? それに、私……」
「前にLINEで言ってたろ」
薫は目元をやわらかく緩めると、グラスへ注がれていく繊細なピンク色の泡を見つめながら、静かに言葉を重ねた。
「ピンクの色が可愛いから、シャンパンもワインもロゼが好きだって。ワインの勉強をしてるって送ってくれた写真、ちゃんと覚えてたからさ。何でもない今日を、二人だけの記念日にしたかったんだよ」
何気なく送ったメッセージ、何気なく共有した自分の好み。
それを何ひとつこぼさずに掬い上げ、最高のかたちで目の前に用意してくれる。
以前LINEで交わした「思い出のアルバムを二人でいっぱいにしよう」という約束が、いま極上のサプライズとなって手渡されたのだ。
「……ずるいよ、薫さん……」
杏奈は震える手で薫の手をギュッと握りしめると、その指を深く絡め合わせた。
そのまま離そうとせず、熱を帯びた自分の膝の上へと薫の手を導いて置く。柔らかな太ももの感触と湿り気を帯びた手のひらの熱が、肌を通してダイレクトに伝わってきた。
「そんなの……心ごと、全部持っていかれちゃうじゃん……」
潤んだ瞳から、一筋の涙が静かに頬を伝い落ちる。
プロのキャストとしての仮面も、夜の街の虚飾も、二人の間に漂う甘い熱気の中に溶けて消えていく。
グラスを重ね合わせた瞬間、奏でられた小気味よい澄んだ音。
二人のスマートフォンの中に作られたアルバムには、いつの間にか『ロゼな仲良し記念日』という特別な名前が刻まれていた。
言葉と行動、そして肌の温もりで重ねられた二人の時間は、もはや誰にも踏み込めない、不可侵の絆へと昇華していた。




