第2話:『影の牽制と、胸元の秘密』
いつも作品を読んでくださり、本当にありがとうございます!
『色なき風の吹く頃に』第2話をお届けします。
ナンバーワンキャスト・礼亜の影の牽制と、二人の間に訪れる思わぬハプニング。
プロの仮面の下に隠された杏奈の「素顔」と、薫の飾らない優しさが交差する瞬間を描きました。
冷めきっていた杏奈の世界が、少しずつ熱を帯びて動き出す様子をぜひお楽しみください。
面白いと思っていただけたら、感想やブックマーク、評価などもいただけますと大変励みになります!
夜の街で生きる女たちの笑顔ほど、信用できないものはない。
系列店『MIRAGE』のナンバーワンである礼亜が、アフターの店として『ETERNAL』を選び、指名客である薫とMIRAGEのスタッフたちを連れて来店した夜。
杏奈はフリーとして、その賑やかな席へついた。
「杏奈ちゃん、いつもありがとうね〜。薫さん、この子すごくいい子だから仲良くしてあげて?」
礼亜は鈴を転がすような愛くるしい声でそう言いながら、絶妙な角度で薫の腕に自分の体をすり寄せる。
言葉の上では杏奈を持ち上げているように見えて、その実、醸し出している空気は明確だった。
——『この男は私の指名。手出ししたらどうなるか分かってるよね?』
グラスを置く位置、薫の視線が杏奈へ向かいそうになった瞬間に投げる絶妙な質問。
そして杏奈へ向けられる、瞳の奥が一切笑っていない一瞬の視線。
この街で生きてまだ2年だけど、杏奈にはその「見えない牽制」が痛いほど伝わっていた。
「薫さんって本当に優しくてぇ、先月も私に毎週会いに来てくれたんだよね」
「ねえ杏奈ちゃん、杏奈ちゃんのお店って最近暇なの? うちの店、最近忙しすぎて困っちゃう」
巧みにマウンティングを織り交ぜながら、薫の意識を自分だけに繋ぎ止めようとする礼亜。
杏奈はただ「羨ましいな」「礼亜さん流石です」と無難な相槌を打ち、影のように配膳役に徹するしかなかった。
けれど、深く腰掛けたソファからふわりと漂う上質な大人の香りと、誰に対しても分け隔てなく向けられる薫の静かな瞳。
杏奈の胸の奥は、どうしようもないほどその存在に引きつけられていた。
(もう少し……ほんの少しでいいから、話してみたいな……)
そんな想いを押し殺しながら、薫のグラスへ静かに氷を足そうと手を伸ばした、その時だった。
ドレスの胸元の開いたラインから、チラリと小さな影が覗く。
白く華奢な肌の上に刻まれた、繊細で可憐な猫のタトゥー。
有象無象の男たちには決して見せない、プロのドレスの下に隠された杏奈だけの小さな秘密。
その瞬間にふと重なった薫の視線。
杏奈は弾かれたように顔を上げると、耳まで真っ赤にして慌てて胸元を片手で隠し、キュッと身をよじらせた。
(……やだ、見られた……っ)
強がりで冷めた仮面が一瞬で剥がれ落ち、一人の無防備な少女に戻ってしまう。
そんな杏奈の純粋で可憐な反応に、薫の目元がふっと優しく和らいだ。
——その時だった。
テーブルの上で、礼亜のスマートフォンが短く振動した。
画面を盗み見た礼亜の表情が、一瞬でプロの笑顔から「女の計算」の顔へと変わる。
「……あ、ごめんなさい。ちょっと電話」
席を立ち、離れた場所で短く通話を終えて戻ってきた礼亜は、申し訳なさそうな、けれど隠しきれない焦りを浮かべて薫の肩に手を置いた。
「薫さん、本当にごめんなさい! 急にお客さんから連絡があって……どうしても来いって聞かなくって。今日、せっかく薫さんと一緒にいたかったのに……」
太客からの呼び出し。
売り上げと客を天秤にかけ、礼亜は一瞬でこの席を立つ判断を下したのだ。
連れてきていたスタッフたちも引き連れ、台風のように去っていく礼亜。見送りのために他の女の子たちも席を立ち、ボックス席から消えていく。
残されたテーブルには、静寂と、置き去りにされたグラス。
そして——少し離れたヘルプ椅子に座ったままの杏奈と、薫の二人だけが取り残された。
「……あ、あの、席……移動しますね」
杏奈は小さく息を呑み、ずっと離れていた椅子から、薫のすぐ隣のソファへと身を寄せた。
わずか数十センチの距離。
礼亜という壁が消えた瞬間、薫から漂う心地よい香水と、大人の体温がダイレクトに伝わってくる。
緊張で心臓が破裂しそうなほど脈打つ中、薫が隣の杏奈へ視線を向け、穏やかな声で呟いた。
「さっき見えたの……可愛い猫のタトゥーだね。大切な猫ちゃんなの?」
「……えっ」
驚いて顔を上げると、薫は優しい瞳で杏奈を見つめていた。
ただスケベ心で胸元を見ていたわけじゃない。自分が大事に抱えている想いに気づいて、優しく触れてくれたのだと分かり、胸が温かい熱でいっぱいになる。
恥ずかしさと嬉しさが一気に押し寄せ、杏奈は両手で顔を覆うと「見ないでください……っ」と身をよじらせて照れた。
「……『ゆんちゃん』っていうんです。私の、大切な家族で……」
「そっか。すごく可愛いね。杏奈ちゃんに似合ってる」
「……もう、からかわないでください……」
おだてでも下心でもない、平熱のまま届く薫の言葉。
群がる男たちの前では決して見せない杏奈の素顔と可憐さが、薫の胸を強く打ち抜いていた。
プロの接客トークなどどこかへ吹き飛び、二人の間には驚くほど自然で温かい時間が流れ始める。
「……私、他の人にも、こんな風に話したりしないんですよ」
「うん。伝わってるよ」
薫の言葉に、杏奈の瞳が潤み、震える。
黒服が退店を告げに来ると、薫はスマートに会計を済ませて席を立った。
去ってしまう。また「ただのヘルプ」に戻ってしまう——焦りと衝動が、杏奈の背中を押した。
「……あの! もしよかったら……LINE、交換してくれませんか……?」
勇気を振り絞り、震える手で差し出したスマートフォン。
薫は優しく微笑むと、「もちろん」と自分の画面を重ねた。
——画面に刻まれた「薫」の名前。
去っていく背中を見送りながら、杏奈はスマホを胸に強く抱きしめた。
もう二度と、この熱からは逃げられない。
夜の街で生きる杏奈の冷え切っていた世界が、明確な熱を帯びて走り出した瞬間だった。




