第1話:『有象無象の群がりと、あの男の香り』
いつも作品を読んでくださり、本当にありがとうございます。
今日から始まる新章『色なき風の吹く頃に』。
今作は、夜の街・大宮を舞台に、一人の女性・杏奈の視点から描かれる切なくも澄み切った純愛の物語です。
嘘と欲望が交錯する世界の中で、本物の優しさと香りに触れたとき、凍りついていた心がどのように溶けていくのか——。
二人だけの絆の始まりを、ぜひ最後まで見守っていただけたら嬉しいです。
毎日更新していきますので、感想やブックマークなどもぜひよろしくお願いいたします!
男は一瞬で恋に落ち、女は徐々に恋を憶えていく——。
夜の街、大宮南銀の中でも異質で煌びやかな内装の『club ETERNAL』に流れてくる男たちのあまりの至らなさ、愚かさを、多数の指名を抱える人気キャストの杏奈はいつも冷ややかな目で見つめていた。
その哀れな姿には、辟易を通り越してただ呆れるしかない。
「ここは保育園じゃないんだから。大人の男の顔をして、手のかかる子どもみたいな真似しないでよ」
心の中でそう吐き捨てながら、杏奈は今夜もグラスの縁を指でなぞる。
金にものを言わせれば、女の心まで札束で買えると本気で信じ込んでいる愚か者。
「今夜お持ち帰りできる安い女はいないか」と、欲望を隠しもせずに店の重い扉を開けて入ってくる下衆。
強い酒をこれでもかと飲ませ、潰せばどうにでもなると踏んでいる浅はかな男。
営業LINEの返信が早いだけで「俺に気がある」と勘違いし、鼻の下を伸ばして付き合っている気でいる痛い客。
アフターに誘うことだけが目的で、連れ出せたこと自体を自分のステータスだと思い込んでいる輩。
休日の貴重なプライベートな時間にまで執着し、彼氏面をして束縛を始める奴。
職場の人間関係や家庭の愚痴を延々と垂れ流し、女を都合のいいカウンセラーか何かと錯覚しているマザコン。
「他の客とは違う」と特別感を出しながら、結局は端金で優越感に浸りたいだけのケチな甲斐性なし。
「こんなに金を使わせたのに」と勝手に被害者ぶって店で怒鳴り散らすおじさん。
店外で出待ちをしてストーカー化し、最後は警察沙汰になって消えていった若い被疑者。
(男なんて、みんな同じ。結局は自分勝手な欲を満たしたいだけで、私という人間を見てなんかいない)
どれだけ甘い言葉を並べられても、どれだけ高額なシャンパンのボトルを抜かれても、杏奈の心は氷のように冷え切っていた。
夜の出会いなんてどうせお金。熱くなってもすぐ冷め、明日には別の女に群がるだけの生き物。
この街に「本物の愛」なんて存在するはずがなかった。
——そう、あの男がこの店の扉を叩くまでは。
その夜、系列店である『MIRAGE』のナンバーワン・礼亜と指名客である「薫」、そしてMIRAGEの店長や黒服たちを合わせた6人ほどのグループが、アフターの場としてここ『ETERNAL』へと流れてきた。
ボックス席へ、フリーとしてついたのが杏奈だった。
最初の薫の印象は「礼亜や店のスタッフたちを連れて飲みに来ている太客」という、ただの記号に過ぎなかった。
だが、その男の立ち振る舞いは、今まで私が見てきたどんな男とも違っていた。
一緒にきた黒服たちにも当たり前のように気を配り、席についた女の子が粗相をしても、嫌な顔一つせず「大丈夫?」と優しく声をかける。すぐさま女の子たちにもドリンクを促す。
黒服が飲み物を持ってくれば、当然のように「ありがとう」と微笑む。
横にいる礼亜のわがままを包み込むような大人の余裕で見守りながら、誰に対しても分け隔てなく、呼吸するように自然な優しさを振りまいていた。
(……えっ、なんで? なんであの人、あんなに誰にでも優しくできるの……?)
欲望をむき出しにして女を品定めする有象無象の男たちとは、あまりにも違いすぎる。
おだてでも、下心でもない。その人柄から滲み出る本物の「余裕」と「温かさ」に、杏奈の目は釘付けになった。
そして、薫がグラスを傾けるたび、ふわりと風に乗って漂ってくる独特の香り。
神秘的なウード(沈香)とスモーキーな木々の温もりが重なる、洗練された大人の色気——トム・フォードの『ウード・ウッド』の匂い。
(いい匂い……あの人と、もっと近くで話してみたい……)
その時、グラスを口元へ運んでいた薫が、ふっと視線をこちらへ向けた。
大勢の歓声や喧騒をすり抜けて、まっすぐに重なる視線。
ほんの一瞬、時間にすればわずか数秒のこと。
けれど薫は、少しだけ目を細めると、杏奈だけに分かるような静かな微笑みを浮かべてみせたのだ。
ドクン、と心臓が跳ね上がる。
全身の血が逆流するような感覚に、杏奈は息を呑んだ。
賑やかな席の中、礼亜の横で少し離れたヘルプ椅子から見つめる杏奈の胸の奥で、冷え切っていた氷壁が、かすかに、けれど確実に熱を帯び始めていた。
それが、杏奈の凪だった世界を狂わせ、生涯抗うことのできない「嵐」へと引きずり込まれていく最初の一歩になるとは、この時の杏奈はまだ知る由もなかった。




