↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
トロアノ記~マヤ文明の歴史  作者: 京美人
第1章:文字の誕生と契約(紀元前1500年頃)

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

9/48

第9話:白い石、血の報い

第1章:文字の誕生と契約

第二部:葛藤と狂気

密林を征する沈黙は、今や完全に「飢餓」という名の魔物の重圧へと変質していた。北の丘の裏手から汲み上げた革袋の水は、チュエンの石斧による突進と、それに続く男たちの狂乱の渦の中で無残に引き裂かれ、乾いた赤泥へと一瞬にして吸い込まれて消えた。

長老が最期に遺した生命線、生き残ったトウモロコシの根に注ぐべき聖なる雫は、一族自らの手によって、呪われた赤土をさらに赤く染めるだけの無駄な液体へと変えられたのだ。


「水を……長老の、水を……!」


クシは絶叫した。しかし、その声は呪医の耳を突き刺すような金属的な奇声にかき消された。

「見たか!神々は水を拒まれた!泥に還るべきは、その不吉な皮を抱いた男だ!」


チュエンの振り下ろした石斧の風切り音が、クシの剥き出しの首筋をかすめる。かつて同じミルパで、未熟なトウモロコシの最初の穂を共に見つけ、手を取り合って笑った友の面影は、その顔のどこにも残っていなかった。チュエンの唇は激しい渇きによってひび割れ、そこから滲み出た血が、顎の線に沿って黒くこびりついている。その眼球は、定住という不遜な試みを始めた人間が必ず直面する、自然からの容赦のない「間引き」への恐怖で完全に混濁していた。


クシは赤泥に足を滑らせながらも、黒曜石のナイフを逆手に構え、間一髪でチュエンの二撃目を斜めに受け流した。「ぎち、じ」と、火山石の鋭利な刃が、粗く削られた石斧の側面を削り、火花に似た鈍い擦過音を立てる。


「チュエン、目を覚ませ!割れたのはただの石盤だ!長老の言葉は死んでいない、このアマテの中に生きている!」


クシは、傷ついた左の掌でイチジクの樹皮を胸へと押し当てながら、必死に叫んだ。彼の掌から溢れ出た新鮮な血は、昨夜刻まれた巨大な「足音」の記号をさらに生々しく、どす黒く拡張させていく。

「黙れ、悪霊の代弁者め!」

チュエンの背後から、木突き棒を構えた男たちが一斉に突きを放ってきた。それらはトウモロコシを植えるための道具だったはずだ。大地を穿ち、命を育むための神聖な木棒が、今は身内の肉を貫き、その命を奪うための狂暴な牙と化してクシを襲う。肩をかすめた木先がクシの皮膚を裂き、熱帯の湿気を含んだ不潔な血が飛び散った。


一歩、また一歩と、クシは倒壊した藁葺き屋根の残骸へと追い詰められていく。広場の隅では、女たちが虚ろな目を輝かせ、誰の命が最初に神々の渇きを癒すのかをじっと見守っていた。理性を捨て去った人間たちの集団は、一人の男を血祭りにあげることで、自らの精神の崩壊を辛うじて繋ぎ止めようとする、巨大な一つの「狂った生き物」へと成り下がっていた。


そのときだった。

広場の中央で、自らの排泄物と赤泥を顔面に塗りたくった呪医が、二つに割れた緑の石盤の片割れを両手で天に掲げ、踊るように身をよじらせた。


「チャクよ!地底の主よ!今、この定住の地を汚した裏切り者の血を捧げる!呪われた皮を燃やし、一族の肉を以て、世界の終わりを食い止めてみせる!」


呪医が狂乱のままに、割れた石盤の鋭利な断面を自らの腕に突き立てた。ドロリとした濃い血が、真っ二つに裂けた翡翠の紋様の上を伝い、窪んだ泥の中へと滴り落ちる。その血の匂いに呼応するかのように、頭上を覆う灰緑色の天蓋から、一瞬、生き物の臓物が擦れ合うような不気味な地鳴りが響いた。


男たちの動きが、その超自然的な気配に一瞬だけ止まった。そのわずかな空白を、クシは見逃さなかった。彼は死に物狂いで泥を蹴り、チュエンの懐へと飛び込むと、黒曜石のナイフの柄でその顎を強く突き上げた。脳を揺さぶられたチュエンが、白目を剥いて赤泥の中へと仰向けに倒れ込む。


「長老の歌を、文字を、お前たちの狂気で殺させはしない!」

クシは叫びながら、男たちの包囲網のわずかな隙間を突き破り、鬱蒼とした緑の壁――まだ誰も足を踏み入れていない、北の丘へと続く原生林の暗黒へと身体を投げ入れた。

「追え!逃がすな!あの男の心臓を抉り出さねば、明日の太陽は昇らぬぞ!」


呪医の引き裂かれた悲鳴が、へし折られたカポックの巨木の空白に木霊する。

背後から、無秩序な足音と、木突き棒がシダの葉をなぎ倒す不快な音が急速に近づいてくるのが分かった。クシは息を詰め、肺を熱帯の腐敗臭で満たしながら、ただ前だけを向いて走った。彼の胸の中には、血と炭で汚れたアマテの樹皮が、まるで一族の犯したすべての罪の重みを宿すかのように、重く、冷たく、脈打ち続けていた。


追手の足音は、湿ったシダをなぎ倒す音と共に、原生林の奥深くへと響き渡る。

クシの足元は泥にまみれ、蔦がその足首を幾度も捕らえようと絡みついてきた。しかし、彼を突き動かしていたのは生への執着だけではない。胸に抱いたアマテの樹皮が放つ、奇妙なまでの存在感が、彼の凍りつきそうな思考を辛うじて駆動させていた。一族の記憶を、長老が遺した生還への地図を、ここで絶やすわけにはいかない。


「ハァ、ハァ、ハァ……!」

熱帯の夜気が、刃物のようにクシの肺を抉る。切り裂かれた肩からは、依然として生温い血が流れ落ち、イチジクの樹皮の端を濡らし続けていた。その血が炭の模様に混ざり合うたび、クシの脳裏には、先ほど見た呪医の狂った瞳と、親友であったチュエンの豹変した顔が明滅した。


自然の脅威を前にしたとき、人間はこれほどまでに容易く狂気に身を委ね、身内を貪る獣へと成り下がるのか。文字を持たぬ彼らにとって、恐怖とは名付けようのない巨大な闇であり、それを取り除くためには、誰かの命を差し出す他に術がないのだ。

「そこだ!逃がすな!悪霊の足跡を追え!」

背後から、男たちの叫び声が近づく。木突き棒が低木を叩く音が、四方からクシを包囲するように狭まっていく。北の丘へと続く斜面は険しさを増し、剥き出しになった石灰岩の岩肌が、夜の帳の中で白く鋭く光っていた。


クシは滑る岩に指先を立て、爪を剥がしながらも必死に這い上がった。掌の傷から溢れる血が、白い石の表面を汚していく。その時、彼の目の前に、かつて長老が教えてくれた「白い石の割れ目」が口を開けているのが見えた。大地の底から湧き出る冷徹な水。しかし、今やその水源も、一族の狂気によって奪われ、クシが汲んだ水はすでに泥に消えていた。


「ここまでだ、クシ!」


岩陰から飛び出してきたのは、息を荒くした別の若い農夫だった。彼の持つ木突き棒の先には、クシの肉を貫くための鋭い黒曜石が括り付けられていた。農夫の顔は恐怖で歪み、ただ目の前のクシを殺すことだけが、村に雨をもたらす唯一の儀式であると信じ込んでいるようだった。

クシは岩の隙間に背を預け、黒曜石のナイフを構え直した。


「待て!俺を殺しても雨は降らない!降るのは、俺たちの血だけだ!」

「うるさい!お前がその呪われた皮を持ち込んだからだ!長老の魂も、お前がその皮に閉じ込めて殺したんだ!」


言葉は通じなかった。農夫は悲鳴のような雄叫びを上げながら、木突き棒をクシの胸へと突き出してきた。クシは身体を捻ってそれを避けたが、尖った火山石は彼の脇腹の皮膚を浅く切り裂いた。熱い痛みが全身を駆け巡る。クシは反射的にナイフを振り抜き、農夫の突き出した腕の肉を深く切り裂いた。


「ギャアッ!」

農夫が武器を落とし、岩の上に転がった。彼の腕から噴き出した鮮血が、白い石灰岩を真っ赤に染め上げ、岩の割れ目へと流れ込んでいく。それは奇しくも、呪医が広場で求めていた「神々への血の捧げ物」そのものの光景だった。

流れ込む血を見つめながら、クシは戦慄した。この血の報いが、一族を繋ぎ止めるための契約だというのか。


背後からは、さらに多くの足音が迫っている。松明の赤黒い光が、森の樹々を不気味に揺らしながら斜面を登ってくるのが見えた。一族全員が、自分を殺すためにこの山を登ってくるのだ。

クシは倒れた農夫を一瞥し、これ以上の闘争を避けるように、さらに険しい北の丘の頂、その先の完全なる暗黒の原生林へと身体を滑り込ませた。岩の割れ目から湧き出る水は、今や身内の血によって汚され、一族の定住の地は完全に呪われた場所へと変貌していた。

アマテの樹皮は、彼の胸の中で濡れそぼり、重く冷たく、しかし確かにそこに存在していた。


クシは走りながら、心の中で誓った。この狂気を、身内が流した血のすべてを、あの樹皮の上に刻みつけてやると。彼らが名付けようのない恐怖に狂うのであれば、自分はその恐怖のすべてに形を与え、逃れられぬ歴史として残して見せる。追手たちの呪詛の声が遠ざかる密林の闇の中で、クシの孤独な逃亡と、文字を守るための最初の戦いは、深い傷跡と共に続いていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。