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トロアノ記~マヤ文明の歴史  作者: 京美人
第1章:文字の誕生と契約(紀元前1500年頃)

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第10話:蠢く緑の臓腑

第1章:文字の誕生と契約

第二部:葛藤と狂気

原生林の闇は、集落の周辺にある二次林のそれとは根底から異なっていた。

頭上数百尺の高さで絡み合う巨木の天蓋は、不気味な赤紫色の雲から放たれるわずかな光さえも完全に遮絶し、地表を文字通りの無光世界へと変えている。クシは、幾重にも絡み合う着生植物の気根と、剃刀のような葉を持つ巨大なシダの群生を掻き分けながら、ただひたすらに前へと足を動かしていた。背後から聞こえていたはずの一族の罵声や、狩人たちが放った石鏃の風切り音は、すでに遠い過去の幻聴のように湿った大気に吸い込まれて消えている。しかし、彼の肉体に刻まれた恐怖の刺戟は、未だに早鐘を打つ心臓の鼓動となって肋骨を内側から激しく叩き続けていた。


「はっ、はっ、はっ……」


喉の奥が、乾いた砂を噛んだように痛む。吸い込む空気はあまりにも湿度が高く、まるで温い泥水を肺に直接注ぎ込まれているかのようだった。


クシの左手には、あのイチジクの樹皮(アマテ)が、自身の血と木炭の混じり合った不吉な紋様を宿したまま、握りしめられていた。集落の男たちが石斧や黒曜石の槍を手に、彼を「神々の怒りを買い、熱風を呼んだ悪霊の憑代」として取り囲んだとき、クシが選んだのは、弁明ではなくこの樹皮を抱えての逃亡だった。彼らにとって理解不能な「文字」という名の記号は、一族の絆を完全に引き裂き、クシを絶対的な異端者へと変えてしまったのだ。


逃げ込んだ原生林は、人間を拒絶する「緑の臓腑」そのものだった。

一歩足を踏み出すたびに、数百年かけて堆積し、腐敗した巨木の残骸が「ぶつ、ぶつ」と不気味な音を立てて底無し沼のように彼の足を捕らえる。肉が腐り落ちた獣の骨のような、強烈な有機物の死臭が鼻腔を突き、視界の効かない暗闇の至る所で、名もない夜行性の虫たちが蠢く摩擦音が耳障りに響いていた。クシの足首や太腿には、すでに無数の吸血ダニや狂暴な兵隊蟻が這い上がり、容赦なくその皮膚を噛み裂いて肉を貪っていたが、立ち止まることは死を意味していた。この森において、動きを止めた生き物は、植物と虫たちの貪欲な食欲によって、瞬く間に緑の泥へと還元されてしまうからだ。


――ズ、ン。

地を這うような、あの低い地鳴りが再びクシの足の裏から脳髄へと突き抜けた。

集落で聞いたあの「巨大な存在の足音」は、この原生林の奥深くに近づくにつれ、より鮮明に、より重くその質量を増している。それは、特定の生物が発する足音などではなかった。何万、何億という植物の根が一斉に大地の底で蠢き、岩を砕き、水分を求めて身悶えしているかのような、森そのものの呼吸。あるいは、雨を降らせぬ天の神々に対して、大地がその怒りを爆発させようとしている地殻の軋みだった。


「神々が、ここにいる……」


クシは、巨木の根の空洞に身体を滑り込ませ、荒い息を殺した。

衣服代わりに纏っていたわずかな身に付けものは、蔓草に引き裂かれて既に形を成していない。剥き出しになった皮膚は、泥と血、そしてイチジクの樹液が混じり合って黒く汚れ、彼自身がこの密林の一部へと変質しつつあるかのようだった。懐からアマテの樹皮を取り出し、手探りでその表面を撫でる。指先が、自身の手で刻み込んだ「熱風」の歪んだ波線と、「巨大な足音」を示す牙の記号に触れた。


不思議なことに、この絶対的な暗黒と死の気配に満ちた原生林の中で、クシの心を辛うじて正気に繋ぎ止めていたのは、集落の同胞たちから呪いと恐れられた、この物言わぬ樹皮の感触だけだった。

もし、この文字がなければ、自分は今頃、この圧倒的な大自然の恐怖の前に理性を失い、ただの獣として泣き叫びながら、ジャガーの餌になっていたに違いない。だが、己の恐怖を、長老の遺言を、天の異変を「記号」として客観的に物質へと定着させた瞬間から、クシは自然の奴隷であることを止めていた。彼は、世界を「観察し、記録する者」としての冷徹な意識を手に入れていたのだ。


そのとき、彼のすぐ頭上の梢から、カサリ、と不自然な葉擦れの音が響いた。

全身の筋肉が瞬時に硬直する。クシは息を止め、腰の黒曜石ナイフを逆手に握り直した。

原生林の夜の支配者――ジャガー(バラム)か、あるいは音もなく獲物の首に巻き付く巨蛇(カン)か。

しかし、暗闇の向こうから現れたのは、二つの濁った、しかし明確に人間のものである眼光だった。


「……クシ」


湿った大気を震わせ、低く掠れた声が届く。その声の主は、かつて集落でクシの奇行を最も激しく糾弾し、彼を悪霊と呼んで追放を先導したはずの男、チュエンだった。

だが、現在のチュエンの姿には、かつての狂暴な敵意は微塵も残されていなかった。彼の浅黒い身体は、クシのそれ以上に原生林の棘に切り裂かれ、血と泥で凄惨なまでに汚れている。手にした黒曜石の槍の穂先は激しく欠け、その膝は、歩行を維持することさえ奇跡であるかのようにガクガクと震えていた。チュエンの眼に宿っていたのは、クシへの怒りではなく、この原生林の狂気に対峙し、完全に心をへし折られた人間の、底無しの絶望だった。


「チュエン……なぜ、俺を追ってきた。また、俺の首を神々に捧げるために槍を振るうのか」


クシは巨木の根の影から出ず、冷徹な声で問いかけた。

チュエンは力なく首を振ると、その場に崩れ落ちるようにして、濡れた泥の上に膝を突いた。槍が手元から滑り落ち、鈍い音を立てて腐葉土に沈む。


「集落は……もう終わりだ、クシ」

チュエンの声は、泣き叫ぶ気力すら失われた、虚しい風のようだった。

「お前が逃げ出した後、あの赤紫色の雲から、一滴の雨も降らなかった。代わりに降ってきたのは、熱い灰と、見たこともない黒い虫の群れだ。虫どもは、ミルパに残っていたわずかな雑草さえも喰い尽くし、今や人々の小屋の藁葺き屋根を侵食している。呪医も、神々の呪文を唱えながら狂い死んだ。誰も、もうどうしていいか分からないのだ……」

チュエンは頭を抱え、泥に顔を押し付けた。


「俺たちは、神々の名前を知らない。あの星がなぜ怒っているのか、なぜ小川が干上がったのか、誰もそれを言葉にできない。ただ、目に見えない怪物に順番に肉を毟られているような恐怖の中で、皆が互いを呪い合っている。お前を追えと叫んだ男たちも、森の入り口でジャガーの気配に怯え、蜘蛛の子を散らすように逃げ帰った。俺だけが……お前のあの『不吉な樹皮』が、頭から離れなかったのだ」


チュエンは泥にまみれた顔を上げ、すがるような目でクシを見つめた。


「クシ、お前がイチジクの皮に刻んだあの黒い紋様には、本当に『長老の言葉』が生きているのか?あの割れ目の水の在処が、あそこに留まっているのか?もしそうなら……俺たちに、あの水を、生き残るための道を教えてくれ。俺はもう、名前のない恐怖に狂いたくないのだ!」


文字を持たぬ一族の限界が、ここに極まっていた。どれほど肉体が強靭であろうとも、自然の脅威に対して「定量的かつ客観的な記憶」を持たない人間は、予期せぬ天災に見舞われた瞬間、ただパニックを起こして自滅するしかない。チュエンは、クシを悪霊として排斥しようとした瞬間に、むしろクシが手にした「文字」という名の羅針盤の絶対的な価値を、本能的に理解してしまったのだ。


クシは静かに巨木の根の影から這い出し、チュエンの前に立った。

彼の右手には、漆黒の黒曜石ナイフが握られている。一瞬、チュエンの身体が恐怖で強張ったが、クシはその刃先をチュエンに向けることはなかった。代わりに、彼は懐からアマテの樹皮を広げ、木々の隙間から辛うじて漏れる、病的な赤紫色の微光の下にそれを晒した。


「見ろ、チュエン。これが、お前たちが呪いと呼んだものだ」

クシの指先が、樹皮に刻まれた記号をなぞる。

「ここにある波線は、俺たちのトウモロコシを枯らしたあの熱風だ。この三角形は北の丘、そしてこの四角は、あの白い石の割れ目だ。そこには、今も乾くことのない冷たい水が湧き出ている。俺がこの手でここに書き留めたから、水は消えない。長老の知恵は、俺たちの頭が恐怖で狂おうとも、ここで正しく生き続けているのだ」


チュエンは、生乾きのアマテの表面に浮かび上がる黒と赤の記号を、まるで神の本体そのものを目撃したかのように、畏怖に満ちた目で見つめた。彼の唇が細かく震え、言葉にならない喘ぎが漏れる。文字を持たない人間にとって、絵でもなく、単なる傷でもない、明確な「意味」を持った記号の並びは、世界そのものを再構築するほどの圧倒的な精神的衝撃(オリジン・ショック)をもたらしていた。


「これが……言葉の姿……」


チュエンの指が、恐る恐る樹皮の端に触れた。その瞬間、原生林の底から、これまでで最も巨大な振動が響き渡った。


――ズ、ズ、ン。

大気が激しく震え、周囲の巨木たちが悲鳴を上げるようにきしむ。何かが、確実に彼らのすぐ近くまで到達していた。だが、今度のクシとチュエンの目には、先ほどまでの盲目的な恐怖はなかった。


「チュエン、槍を拾え」


クシは黒曜石の刃を強く握り締め、暗黒の奥深くを睨みつけた。

「神々が俺たちの命を奪いに来るなら、俺はその姿を、この樹皮にさらに深く刻み込んでやる。俺たちが生き延びて、この文字を繋ぐ限り、神々の勝利はない」

文字という名の最強の契約を手にした二人の人間は、増殖を続ける緑の地獄のただ中で、迫り来る未知の脅威に向かって、静かに牙を剥き返した。

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