第8話:割れた石盤と、血の渇き
第1章:文字の誕生と契約
第二部:葛藤と狂気
巨足の去った集落には、肉を燻したような不快な焦げ臭さと、抉り取られた赤土の生臭い匂いが立ち込めていた。
夜が明けても、救いの太陽は昇らなかった。天蓋を覆う雲はさらにその厚みを増し、もぎ取られた肉のような赤紫色から、腐敗した内臓を思わせる鈍い灰緑色へと変色している。カポックの巨木がへし折られ、無秩序な空白が開いた広場には、倒壊した藁葺き屋根の残骸が散乱し、踏みつぶされたミルパの泥が、まるで傷口から流れた血のように赤黒く濁って停滞していた。
「終わった。すべて、終わりだ……」
誰かの掠れた声が、湿った空気の中にぽつりと落ちた。 村の男たちは、巨足が残した深さ一ペルサ(約3メートル)にも及ぶ泥の窪みの周りに、幽霊のように立ち尽くしていた。その窪みの底には、一族が飢えを凌ぐために命懸けで植えたトウモロコシの種子が、泥水に塗れ、完全に圧殺された姿で浮き上がっている。定住という、気が遠くなるような試みの拠点が、一瞬にして踏みにじられたのだ。
クシは広場の端に佇み、胸に抱えたアマテ(イチジクの樹皮)を強く握り締めていた。 彼の左の掌にある傷口は、熱帯の不潔な湿気によってすでに赤く腫れ上がり、脈打つたびに鋭い痛みを放っている。しかし、その痛みこそが、昨夜の出来事が幻ではなかったという唯一の証拠だった。樹皮の表面には、彼の血と炭で刻まれた五本の縦線と、巨足の牙の記号が、乾いて赤黒く定着している。
「おい、クシ」
背後から声をかけたのは、チュエンだった。その目は寝不足と恐怖、そして何より「飢え」への予感によって、病的にギラギラと血走っていた。手にしたトカゲの尾はむしり取られ、ただの干からびた棒のようになっている。
「長老が死に、ミルパが死んだ。雨の神チャクは俺たちを捨て、地底の主が村を踏みつぶしていった。……お前が持っているその不吉な皮のせいで、世界のすべてが狂ってしまったんだ」
チュエンの言葉に、周囲の男たちが一斉に振り返った。その視線には、昨夜の恐怖がそのままクシへの「憎悪」へと変質した、狂暴な光が宿っていた。
「そうだ、あの樹皮を燃やせ!」 「神々の姿を泥で汚して写し取るなど、畏れ多いことだ。あの男を生贄として捧げねば、次の足音が来るとき、俺たちは全員泥に還されるぞ!」
男たちが一歩、また一歩と、手にした木突き棒や石斧を握り直しながらクシへと近づいてくる。定住を始めてわずか数世代。自然の圧倒的な暴力の前に羅針盤を失った人間たちが、生き延びるための蜘蛛の糸を求めて、身内の血を欲し始めているのだ。葛藤は、すでに生存への狂気へとすり替わっていた。
「待て!」
そのとき、集落の奥から、這うようにして一人の男が現れた。呪医だった。 昨夜、巨足の威圧感に当てられて白目を剥き倒れた彼は、衣服をボロボロに引き裂き、顔面に自らの排泄物と赤泥を塗りたくるという、完全な「狂気」の姿に変貌していた。その手には、一族が数世代にわたり、川の底から拾い上げて聖なるものとして崇めていた、翡翠の紋様が微かに残る「緑の石盤」が握られていた。
「神々は、血を、もっと濃い血を求めておられる……!」
呪医の声は高音に引き裂かれ、人間のものではなくなっていた。彼は広場の中央へと踊り出ると、手にした緑の石盤を、抉られた泥の窪みの中へと猛烈な力で叩きつけた。
ガシャ、と鈍い音がして、一族の唯一の宝であった石盤が、無残にも真っ二つに割れた。
「歌を失った我らに、神々の声を聞く術はない! ならば、神々の渇きを癒すのは、言葉ではなく命そのものだ! 誰の血を流す? クシか? それとも、生まれたばかりの赤子か!」
呪医の狂乱した叫びが、屋根を失った広場に響き渡る。村人たちの間に、冷たい戦慄と、それ以上にドロリとした「合意」が広がっていくのが、クシには肌で分かった。飢えと恐怖に直面した人間は、理性を捨てることでしか、その精神の崩壊を食い止めることができないのだ。男たちは互いの顔を見合わせ、誰の命を最初に切り裂くべきかを、品定めするような目で測り始めていた。
「狂っている……」
クシは一歩、後ろへと退がった。 彼らがやろうとしていることは、神々との対話ではない。ただの、無力な人間の恐怖のぶつかり合いであり、命の無駄遣いだ。長老の遺言を忘れ、目の前にある危機から目を背け、身内の肉を貪ろうとするその姿こそ、密林の精霊たちが最も嘲笑う人間の弱さだった。
「呪医も、チュエンも、お前たちは何も見えていない!」
クシは、胸からアマテの樹皮を掲げ、全霊の声で叫んだ。
「昨夜、あの巨足が去った方向を忘れたのか! あれは北の丘の裏へ向かったのだ! 長老が死に際に言った『白い石の割れ目』、そこに今も水がある! 互いに殺し合う暇があるなら、その水を汲みに行き、生き残ったトウモロコシの根に注ぐべきだ!」
クシが指し示した北の空は、なおも不気味な灰緑色の雲が渦巻いていた。 しかし、チュエンの耳には、クシの言葉はもう届かなかった。彼の脳は、迫り来る飢餓の恐怖に完全に支配されていた。
「だまされるな! あいつは悪霊の言葉をあの皮に宿らせている! 石盤は割れたのだ! 神々の契約は切れた! 今夜、金星が再び牙を剥く前に、こいつの心臓を抉り出さねば、明日の朝は来ない!」
チュエンが石斧を振り上げ、クシへと突進してきた。その顔は、かつて共にミルパを耕し、未熟なトウモロコシの収穫を喜び合った友のそれではなく、完全に飢えたジャガーの肉食の相を呈していた。
周囲の男たちも、呪医の奇声に煽られるようにして、一斉にクシへと牙を剥く。 世界が文字を持たぬ狂気へと雪崩込んでいく中、クシはただ一人、自らが作り出した「言葉の器」を死守するため、黒曜石のナイフを逆手に握り締め、赤泥を強く踏み締めた。対峙すべきは、密林の神々だけではなかった。生きるという本能の果てに、狂気へと堕ちていく一族そのものが、クシの前に立ちふさがる最大の壁となったのだ。




