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トロアノ記~マヤ文明の歴史  作者: 京美人
第1章:文字の誕生と契約(紀元前1500年頃)

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第7話:地這う巨躯の息吹き

第1章:文字の誕生と契約

第二部:葛藤と狂気

闇の奥から這い出してきたのは、神でもなければ、冥界の怪物でもなかった。

それは、熱風に焼かれ尽くした大気が一瞬にして凍りつき、反転した瞬間に密林が放った、一頭の巨大な「雨雲の獣」であった。しかし、それはただの水蒸気の塊などではない。紀元前1500年の人間たちにとって、天を覆い尽くすその黒い質量は、まさに世界を圧殺しにやってきた巨大な神の肉体そのものであった。


――ズ、ン。


三度目の足音が響いたとき、世界を包んでいた「湿った沈黙」が、一気に狂暴な咆哮へと変わった。西の空、濁った赤紫色の雲の裂け目から、まるで世界を両断するかのような、青白い雷光が音もなく走り抜けた。一瞬だけ、真っ白に照らし出された密林の輪郭。カポックの巨木も、シダの葉も、すべてが恐怖に身をすくめるように、一斉に地面へと頭(こうべ)を垂れていた。その直後、鼓膜を直接引き裂くような、大地の底からの落雷の轟音が爆ぜた。


「ひ、ぃ……!」


広場にただ一人立ち尽くしていたチュエンが、情けない悲鳴を上げて赤土の泥の上に四つん這いになった。彼の指先から、これまで心の拠り所にしていた干からびたトカゲの尾が滑り落ち、泥の中に沈んでいく。天から降り注いできたのは、雨ではなかった。それは、凄まじい質量を持った「風の壁」だった。

それは、昼間の熱風とは対極にある、骨まで凍りつかせるような冥界(シバルバー)の冷気を含んだ暴風だった。風は渦を巻きながら集落の広場を蹂躙し、燻っていた焚き火の灰を容赦なく巻き上げ、人間の視界を完全に奪い去った。藁葺き屋根の萱が激しく毟り取られ、虚空へと舞い上がっていく。


「クシ! 逃げろ! 神々の足元で踏み潰されるぞ!」


チュエンは泥を舐めるようにしながら、狂ったように叫んだ。だが、その声もまた、咆哮を上げる暴風の渦の中に一瞬で掻き消された。

クシは動かなかった。 彼の足は、赤土の泥に深く突き刺さった木突き棒のように、その場に縫い付けられていた。全身を襲う猛烈な冷気に歯の根が合わず、ガタガタと身体が震える。だが、彼の目は、西の緑の壁の向こう側をじっと見据えていた。

暴風が、密林の木々を力任せに押し広げていく。その暗黒の奥底から、信じられないほどの濃密な「白霧」が、まるで生き物の触手のように這い出してきたのだ。それは、北の丘の裏の岩肌を白く染め上げ、すべての植物の生命力を吸い尽くすかのような、毒々しい霧の波だった。霧が触れた場所からは、植物たちが放つ「ざざざざ」という悲鳴のような擦れ合いの音が響く。


「これが……予兆の正体か」


クシは、胸に抱きしめたアマテの樹皮の感触を確かめた。 彼の指先には、自身の左手から流れ出た血の温もりが、まだ生々しく残っている。樹皮に炭と血で刻みつけた「巨大な足音」の記号。それが、いま目の前で現実の脅威となって世界を呑み込もうとしている。恐怖が彼の心臓を激しく叩いていたが、それ以上に、自身の思考が世界の運行と「繋がった」という、悍ましいまでの高揚感が、彼の若い胸を支配していた。

突如、頭上から一滴の巨大な「塊」が、クシの額を強打した。

痛みを覚えるほどの衝撃。それは、雨と呼ぶにはあまりにも狂暴な、泥を孕んだ大粒の水滴だった。それを合図に、天蓋の赤紫色の雲が完全に決壊した。


――ざあぁぁぁぁぁぁっ!

世界のすべてを叩き潰すような、凄まじい豪雨が始まった。 それは、干からびた大地を潤す優しき恵みの雨などでは断じてなかった。数日間の熱風によって完全に水分を失い、コンクリートのように固まっていた赤土の地表に、容赦なく突き刺さる水の刃。地面は瞬く間に濁流の川へと姿を変え、クシの足元を浚おうと激しく蠢き始めた。


「クシ!」

小屋の闇の中から、母の悲痛な叫び声が聞こえた。しかし、クシは集落ではなく、逆にミルパ(畑)のある方向へと向かって、泥を蹴り捨てて走り出していた。

「水を……長老の水を……!」

クシは懐の革袋を片手で強く握りしめていた。北の丘の裏、白い石の割れ目から汲み上げてきた、濁りのない冷徹な湧き水。天から降り注ぐこの狂暴な雨は、大地を潤す前に、すべてを泥の海へと押し流してしまう。長老の遺言が正しければ、この天の暴雨こそが、地中に眠るトウモロコシの種子を「白いカビ」の生贄へと変える、呪いの正体なのだ。天の水を拒み、地底の聖なる水を種に吸わせねば、一族の未来は潰える。


密林の中のミルパは、すでに地獄と化していた。

雨が叩きつけるたび、せっかく掘り起こした畝の土が、ドロドロとした赤い肉のように崩れ、斜面へと流れ落ちていく。焦げ付いた巨木の切り株は、濁流に足元を掬われて不気味な音を立てて傾き、人間が穿ったわずかな空白は、水の暴力によって完全に埋め戻されようとしていた。


クシは泥の中に膝を突き、両手で土を掘り返した。 雨水が目に入り、視界が激しくかすむ。吸血虫に刺された背中の傷口に、冷たい泥水が入り込み、焼けるような激痛が走るが、彼は構わずに爪が剥がれるほどの勢いで赤土を掻き出した。


「どこだ……俺が植えた種は、どこにいる!」


激しい豪雨の音の向こう側から、再び、あの「ズ、ン」という大地の底の振動が響いた。 驚いて顔を上げると、ミルパの境界にあるイチジクの巨木が、落雷の直撃を受けて真っ二つに裂け、激しい炎を上げながら泥の海へと倒れ込んでいくところだった。水と火が混ざり合い、濃密な白い水蒸気が、クシの周囲を完全に包み込む。

視界を失った霧の向こう側。クシの耳に、人間のものではない、低く、湿った「呼吸の音」が確かに聞こえた。


――フ、ゥ、ゥ、ゥ。

それは、大地の底に眠る巨大な大蛇が、目覚めの一息を吐き出したかのような音だった。植物の蔓たちが、まるでその呼吸に呼応するように、泥の中から一斉に鎌首をもたげ、トウモロコシの畝に向かって這い進んでいくのが見える。密林そのものが、意思を持って人間の一網打尽を謀っている。

クシは歯を食いしばり、ようやく泥の底に眠る一つの種子を探し当てた。 それは、ヤシュ長老の言葉通り、すでに天からの泥水を吸って、表面にうっすらと不気味な「白いカビ」の糸を巻き付け始めていた。


「させない……!」


クシは革袋の栓を歯で引き抜き、北の丘の湧き水を、その種子に向かって一気に注ぎ込んだ。 澄んだ大地の血が、トウモロコシの周りの泥を洗い流し、白いカビの糸を無慈悲に引き剥がしていく。その瞬間、鈍い黄金色をした種子の奥底で、小さな、だが確かに熱い命の鼓動が跳ねるのを、クシは自らの指先を通じて感じ取った。


「育て!」


クシは叫んだ。彼は立ち上がり、次なる種子を探して、狂暴な雨の泥海の中へとさらに深く身を投じていった。彼の懐にあるアマテの樹皮は、激しい雨に濡れながらも、そこに刻まれた血と炭の文字を、決して手放すことはなかった。人間と、自然という名の神々との、血を吐くような最初の対峙が、この湿った暗黒の夜の真っ只中で、本格的に幕を開けようとしていた。

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