第53話:陥没穴(セノーテ)の闇、蠢く水面
第3章:密林の覇権戦争と「血の代償」
第一部:猛る戦塵と、破られた写本
背後でずるずると泥を滑り落ちていったシアン・カアンの悲鳴は、密林の底に不気味に開口する石灰岩の垂直の裂け目――陥没穴の深淵へと吸い込まれ、一瞬にして圧殺された。
カック・モウは激しい息を吐き出しながら、雨水と黒泥が滝のように流れ込む穴の縁へと這い寄った。脇腹の傷口からは、熱い血が絶え間なく溢れ出し、冷え切った雨に薄められながら太ももを濡らしている。激しい脈動が肺を圧迫し、息を吸い込むたびに腐葉土の発酵した甘腐い臭いが鼻腔をちりちりと灼いたが、彼は痛みに構う余裕すらなかった。
暗黒の底を見下ろすと、そこには緑の天蓋を完全に遮断された、異様な世界が広がっていた。何十メートルもの深さがある円筒状の穴の底では、濁流に攪拌された漆黒の水面が、まるで巨大な生き物の胃袋のように鈍く、怪しく蠢いている。稲光が奔るたびに、垂直の岩壁にへばりついた不気味なシダの触手と、水面に浮かぶシアン・カアンの黒赤の戦化粧の残骸が、白く不気味に浮かび上がった。
「シアン・カアン……!」
カック・モウの声は、岩壁に木霊して虚しく跳ね返るだけだった。水面に浮かぶかつての同胞は、微かに浮き沈みを繰り返しているものの、その手に握られていたはずの黒曜石の短剣はすでに地底の泥の底へと没し、彼自身の意識も死の領域へと足を半分踏み入れているように見えた。神殿の誇りを捨て、文字の盾を裏切ってまで手に入れようとした生存の切符は、容赦なく降り注ぐ水の暴力の前に、あまりにも無慈悲に破棄されたのだ。
(これが……一族を裏切り、言葉の重みを捨て去ろうとした者の末路なのか)
カック・モウは胸元に視線を落とした。腕の間にきつく挟み込まれたアマテの樹皮紙は、冷たく水分を吸ってぶよぶよに弛み、重苦しい死の質量となって彼の肋骨を圧迫し続けている。コパルの香煙が完全に途絶えた今、このふやけた残骸だけが、人間と文字を繋ぐ唯一の細い糸だった。
水面が「ゴボリ」と大きく蠢き、穴の奥から冷たい風が吹き上げてくる。古くからの教えにおいて、セノーテは死者の国「シバルバー」へと繋がる聖なる門であり、同時に飢えた地底の神々が口を開けて生贄を待つ場所でもある。いま蠢くあの黒い水面は、文字という秩序を失いかけた人間たちを、混沌の底へ引きずり込もうとする大地の怒りそのものに思えた。
「カック……モウ……」
泥岩の隙間に身を隠していた老神官が、肺の奥からヒューヒューと湿った音を立てながら、弱々しく彼を呼んだ。老いた指先は、岩肌にしがみついたまま限界を迎えており、その瞳には凍りつくような死の影が確実に濃くなっている。
「長老!動かないでください!」
カック・モウは脇腹の痛みに耐え、黒泥の斜面を這うようにして老神官のもとへと戻った。しかし、周囲の状況は最悪というほかなかった。彼らが立っている斜面そのものが、セノーテに向かって押し寄せる大量の雨水によって足元から削り取られ始めていたのだ。一歩を踏み出すたびに、黒い土壌が生き物のようにずるりと崩落し、暗黒の深淵へと滑り落ちていく。
密林はもはや、彼らを拒絶する緑の牢獄と化していた。ティカルの戦士たちの追撃からは逃れられたとしても、このままでは遠からず、大地そのものによって奈落の底へと引きずり込まれるのは明白だった。
「カック・モウ……私を置いて……その穴を……降下せよ……」
老神官の言葉は、滝のように穴へ流れ込む水の音に引き裂かれながらも、冷酷なまでに明晰だった。彼の濁った両眸は、自身の死を完全に受け入れ、ただ一族の精神の連続性のみを見つめている。
「何を言うのですか!ここまで一緒に逃げてきて、なぜここであなたを!」
「見ろ……大地の顎が……開いている……。ここを降りねば……追手ではなく、この斜面そのものに……押し潰される……」
老神官の指し示した先では、彼らがしがみついている石灰岩の基盤そのものが、激しい濁流によって内側から溶解し、崩落の予兆である不気味な地鳴りを響かせていた。上方に留まり続ければ、数分と経たずに土砂崩れに巻き込まれ、セノーテの底へ文字通り圧殺されて沈むことになる。生き残るための唯一の道は、シアン・カアンが滑り落ちていったあの暗黒の深淵――蠢く水面へと、自らの意志で降りていくことしかなかった。
「降下します。ですが、あなたも一緒です!」
カック・モウはふやけた写本の残骸を、引き裂かれた麻布の衣服の中にきつく縛り付けた。水分を含んだ樹皮紙は彼の脇腹の傷口を圧迫し、激しい痛みを呼び起こしたが、その痛みが彼の理性を辛うじて繋ぎ止めていた。彼は老神官の細い身体を背負うようにして抱きかかえ、垂直に切り立ったセノーテの壁面へと足をかけた。
岩壁には、何世紀もの時間をかけて育った巨大なシダの根や、吸水して太くなった蔓植物が、血管のように複雑に絡み合っていた。カック・モウは泥と血で滑る指先をその蔓に突き立て、一歩ずつ、慎重に身体を降ろしていった。
穴の内部は、地上の豪雨の音が奇妙に反響し、まるで巨大な怪物の胎内にいるかのような錯覚を抱かせる。息を吸い込むたびに、濡れた石灰岩の冷たい匂いと、水面から立ち上る淀んだ水の気配が肺を満たし、体温を容赦なく奪っていった。脇腹の傷から流れる血が、蔓を伝って下方の闇へと滴り落ちていく。
十数メートルほど降りたところで、突然、カック・モウの足元で岩壁の一部が爆発したかのように崩落した。
「くっ……!」
凄まじい衝撃とともに、彼の身体が宙に浮く。老神官の体重が引き裂くような負荷となって彼の両腕にかかり、指先の蔓がずるりと数センチ滑った。摩擦で手のひらの皮膚が剥け、生の肉が露出する熱い痛みが走る。しかし、カック・モウは絶叫を噛み殺し、指の骨が砕けんばかりの力で蔓を握り直した。
下を見上げると、漆黒の水面はすぐそこまで迫っていた。濁流に攪拌され、渦を巻くその水面は、未だに不気味な蠢きを止めていない。かつて星の運行を記録し続けた写本官としての執念が、その水面のうねりのなかに、ある一定の周期――地底の洞窟へと水が吸い込まれていく流動の法則を見出そうとしていた。
この世の境界の底に広がる水は、すべての言葉が消失した混沌そのものである。しかし、その暗闇を恐れて文字の手を離せば、人間は二度と陽の当たる場所へは戻れない。
「長老、しっかりと掴まっていてください!」
カック・モウは最後の力を振り絞り、蔓から手を離した。
ドボン、と重い水音が暗黒の穴全体に木霊した。容赦のない地底の冷水が、カック・モウの全身を乱暴に包み込み、彼の視界と息を完全に奪い去っていく。激しい水流のなかで、彼の胸にあるアマテの写本は、再び冷たく、そして不滅の火種を宿したまま、蠢く闇の底へと深く沈んでいった。
天を衝くような衝撃波が、激しい水音とともにカック・モウの全感覚を粉砕した。
水面へ衝突した反動で背中の老神官の質量が激しく跳ね上がり、彼の首をへし折らんばかりの力で締め付ける。押し寄せる漆黒の冷水は、容赦なく耳条や鼻腔の奥深くへと侵入し、濁流に混ざった細かい砂礫が粘膜を鑢のように削り取っていった。天蓋の瀑布を一手に飲み込み続けるセノーテの底は、ただのよどんだ水たまりではない。地底のさらに奥へと水を吐き出す巨大な漏斗のようになっており、狂った噴流がカック・モウの自由を奪って深淵の奥へ、奥へと引きずり込んでいく。
(息が……、上がらない……!)
肺胞が強烈な水圧で押し潰され、胸骨の内側が爆発しそうなほどの圧迫感に襲われる。引き裂かれた麻布の隙間では、泥水を吸って重苦しい死の質量と化したアマテの樹皮紙が、彼の肋骨を執拗に圧迫し続けていた。黒曜石の刃で抉られた脇腹の傷口に、地底の冷徹な水が容赦なく侵入する。肉の奥深くに直接灼熱の火箸を突き立てられたかのような、息の詰まる激痛が神経を駆け巡ったが、その痛みが辛うじて彼の意識の霧散を食い止めていた。
水流のうねりは執拗極まりなかった。泡立つ暗黒の中で上下の感覚すら失いかける中、彼の両足は不意に、水中で激しく渦巻く「流れの偏り」を捉えた。地底の空洞へと水が吸い込まれていく暗黒の喉頭――その縁に、水流によって激しく侵食された石灰岩の巨大な棚が、天然の防波堤のように突き出しているのだ。このまま水流のなすがままになれば、光の届かぬ迷宮へと吸い込まれ、二度と浮かび上がることはできない。
「ん、ぐ、……おおっ……!」
カック・モウは水中で狂ったように水を蹴り、水流の死角となっているその岩の割れ目へと、指先を強引にねじ込んだ。すでに生爪の剥がれかけた両手で、ぬめりを持つ岩の段差を必死に手繰り寄せる。激流の質量が彼の肉体を引き剥がそうと牙を剥いたが、歯が砕けんばかりに噛み締め、自らの身体を濁流の渦から力ずくで引きずり出した。
激しく咳き込みながら、彼は水面の上に顔を突き出した。
「は、あ、っ!
が、はっ……!」
肺が飢えた獣のように濡れた空気を吸い込む。セノーテの円筒状の内部は、上方の天蓋から叩きつけられる水のカーテンによって、凄まじい水音が何重にも反響し続けていた。稲光が垂直の岩壁を白く灼くたびに、すぐ足元の水面で、攪拌された漆黒の濁流が蠢くのが見える。その水面には、先ほど滑り落ちていったシアン・カアンの黒赤の戦化粧の油分が、おぞましい斑紋となって、鈍く怪しく浮かび上がっては渦の中に消えていった。神殿を裏切り、文字の盾を捨ててまで生存を求めた男の末路は、大自然の圧倒的な暴力の前に、何の手応えもなく圧殺されたのだ。
「長老……!息を……、長老!」
カック・モウは自らの背中を岩肌に押し付け、背負っていた老神官の身体を、石灰岩の侵食によって生じた僅かな「岩の棚」へと引き上げた。そこは水面から辛うじて数十センチほど高いだけの、湿った暗黒の避難所だった。
老神官の細い肉体は、完全に冷え切っていた。肺の奥からヒューヒューと湿った音を立ててはいるものの、その呼吸はいつ途絶えてもおかしくないほどに浅い。泥岩の隙間に横たえられた老人の瞳には、凍りつくような死の影が確実に濃くなっていた。もはや、彼の命の灯火は、激しい滝風の前に晒されたコパルの香煙よりも脆く、消えかけている。
カック・モウは震える手で自らの胸元を探り、麻布の衣服を強引に引き裂いた。水分を限界まで吸い、ぶよぶよに弛んだアマテの写本が、彼の血と泥に塗れて姿を現す。イチジクの樹液で固められていた貴重な紙面は、外側の折り目が完全に溶解し、先ほど虚空へと散逸していった聖なる神名の意匠――世界の秩序を象るマヤ文字の輪郭が、ただの黒い染みへと変わりつつあった。
「長老、写本は、まだ、ここにあります……。私の肉体で、守り抜きました……!」
カック・モウの声は、自身の喉の奥から搾り出された、血の混じった呻きのようだった。激しい脈動が肺を圧迫し、息を吸い込むたびに、水面から立ち上る淀んだ水の気配と腐葉土の発酵した甘腐い臭いが、鼻腔をちりちりと灼く。
老神官の乾いた、限界を迎えた指先が、虚空を彷徨うようにして写本の濡れた表面に触れた。その瞳はもう、カック・モウの姿も、周囲の暗黒も映していない。ただ、彼らの精神の奥底にある、消えゆく言葉の連続性だけを凝視しているようだった。
「文字を……溶かしては……ならぬ……」
老神官の言葉は、滝のように流れ込む水の音に引き裂かれながらも、冷酷なまでに明晰だった。
「人間が……ただの家畜として……密林の養分に還るのを防ぐ……法を、絶やすな。カック・モウよ……お前が、次の代の、盾となるのだ……」
「長老……!」
「ここを……進め……。水が吸い込まれていく……その奥に、大地が遺した……古い産道がある……」
老神官の指先から、不意にすべての力が抜けた。岩肌にしがみついていた老いた腕が、ずるりと湿った泥の上に落ち、二度と動かなくなる。その瞳は開かれたまま、現世のあらゆる光を失い、完全に静止した。一族の契約を、算術の軛を繋ぎ続けてきた一人の神官の生魄が、このセノーテの深淵で、大地の闇へと静かに溶けていった瞬間だった。
「……あああ……っ」
カック・モウは絶叫を噛み殺し、老神官の遺体の前に額を擦り付けた。悲しみに暮れる時間すら、大地の顎は与えてくれない。頭上からは、彼らが先ほどまで立っていた斜面が崩落していく不気味な地鳴りと、石灰岩が内側から溶解し、崩れ落ちる衝撃音が響いてきている。留まれば、数分と経たずに土砂崩れに巻き込まれ、この狭い棚ごと圧殺されるのは明白だった。
彼はふやけた写本の残骸を、再び己の胸と両腕の間にきつく挟み込んだ。衣服の残りでそれを何度も縛り付け、己の体温だけでその水分を乾かそうとするかのように、強く、強く抱きしめる。
長老の遺体に最後の一礼を捧げると、カック・モウは老神官が最期に指ししめした暗黒の奥――水流が不気味な音を立てて吸い込まれていく、岩壁の亀裂へと目を向けた。そこは、人間が足を踏み入れるべきではない、完全に現世から隔絶された混沌の門である。しかし、この胸にある文字の手を離さぬ限り、人間はただの泥には戻らない。
カック・モウは傷口を庇いながら、蠢く闇の奥へと、一歩を踏み出した。衣服に隠されたアマテの写本は、冷たく、しかし不滅の火種を宿したまま、彼の肉体とともに、地底のさらなる深淵へと没していった。




