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トロアノ記~マヤ文明の歴史  作者: 京美人
密林の覇権戦争と「血の代償」(紀元300年頃)

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第54話:仮初めの聖域、不滅の火種

第3章:密林の覇権戦争と「血の代償」

第一部:猛る戦塵と、破られた写本

大地の裂け目は、現世の光を完全に拒絶した暗黒の臓物そのものだった。

カック・モウが這うようにして踏み込んだ岩壁の亀裂は、人間の侵入を阻むかのように狭まり、鋭利な石灰岩の突起が牙のように突き出している。脇腹の傷口から溢れる熱い血が、岩肌に擦れるたびに、灼熱の焼きごてを当てられたかのような激痛となって脳髄を貫いた。しかし、彼は悲鳴をあげることさえ忘れていた。背後で「ゴ、ゴゴゴ」と低く響く地鳴りは、先ほどまで彼らが拠り所にしていた岩の棚が、押し寄せる土砂と濁流によって無慈悲に押し潰されつつあることを物語っていた。留まれば、老神官の遺体とともに永遠に地底の泥へと還るだけだった。


一歩、また一歩と、前方の暗闇へと身体を滑り込ませていく。頭上からは絶えず、地下水が滝となって滴り落ち、彼の剥き出しの肩や泥まみれの髪を執拗に叩いた。息を吸い込むたびに、閉ざされた空間特有の、濡れた石灰の酸っぱい臭いと、地底の奥深くで何百年も停滞していたかのような澱んだ空気の塊が肺を満たす。

現世の境界線であるセノーテの水面はすでに遠のき、周囲を支配するのは、水の爆音と、岩壁が自重に耐えかねて軋む「ギ、ジ、ジ」という不気味な骨を伝わってくる響きだけだった。マヤの精神世界において、この地底の深淵は死者たちの国「シバルバー」の入り口に他ならない。生身の人間が足を踏み入れれば、九人の地底の王たちが、その生魄(オハール)を貪り食うために影の触手を伸ばしてくるという。


(だが、俺の胸には、文字の盾がある)


カック・モウは、衣服の麻布を引き裂いて身体に固く縛り付けた「アマテの写本」の質量を、自らの肋骨の軋みを通して感じ取っていた。水分を限界まで吸い込み、死んだ生き物の肉のようにぶよぶよと弛んだ樹皮紙は、彼の肌に凍りつくような冷たさを伝えてくる。かつてコパルの香煙に守られ、神殿の最奥で世界の秩序を言葉によって繋ぎ止めていた聖なる紙面は、今や外側の折り目が溶解し、フナブ・クやイツァムナーといった神々の名が黒い染みへと還りかけていた。それでも、内側に秘められた文字の火種は、まだ死んではいない。自らの肉体を計量化し、血を流してまで繋いできた一族の知恵の結晶が、カック・モウの胸元でかろうじて脈打っている。


亀裂の奥は急激な斜面となって下へと伸びていた。足元の石灰岩は、数百年、数千年にわたる地下水流の浸食によって鏡のように滑らかに研ぎ澄まされており、一度足を取られれば、どこまでも続く暗黒の底へと滑落していく危険を孕んでいる。カック・モウは五本の指を血に染めながら岩のわずかな凹凸にしがみつき、寸刻の猶予もない暗闇の中を進んだ。

どのくらいの時間が経ったのだろうか。大地の脈動が伝える時間の感覚は、密林の天蓋の下にあったそれとは完全に異なり、一瞬が永遠のようにも思え、同時に数時間が一息のうちに過ぎ去っていくようでもあった。肋骨の内側で激しく打ち鳴らされる心臓のドクドクという血流の音だけが、彼が生者の領域に踏みとどまっている唯一の証明だった。


やがて、耳を聾せんばかりに響いていた濁流の轟音が、にわかに遠のいていくのをカック・モウの耳条が捉えた。代わりに聞こえてきたのは、広大な空間を穏やかに満たす、規則正しい「滴、滴」という落水の反響音だった。

狭窄した亀裂の出口を抜け出た瞬間、彼の身体は解放された。床面はなだらかな漆喰状の泥岩へと変わり、這い出したカック・モウはその場に崩れ落ちるように両膝を突いた。


闇は相変わらず深かったが、そこには異様な静寂が満ちていた。外の暴風雨がもたらす水の暴力は、この地下深くの巨大な中空においては、天上の出来事であるかのように遮断されている。立ち上る霧の向こうから、冷気とともに、どこか厳かなコパルの樹脂の、乾いた残り香のような気配が微かに鼻腔を掠めた。

カック・モウは震える手で自らの懐を探り、懐に収められていた小さな火打ち石と、防水の獣皮に包まれていたわずかな乾燥した松の木片(タチェ)を取り出した。脇腹の傷口を圧迫しながら、激しい息を整え、足元に落ちていた鋭利な石灰岩の剥片で火打ち石を鋭く打つ。


チ、チ、と、暗黒の中で小さな火花が爆ぜた。数度の試みの後、細い煙が立ち上り、木片の先端に小さな赤黄色の炎が宿った。

灯された微小な光が、巨大な影を周囲の岩壁へと投げかける。カック・モウが松明を掲げて見渡したその場所は、自然が造り出した単なる洞窟ではなかった。


「ここは……」


彼の喉から、掠れた声が漏れ出た。

周囲の垂直な岩壁には、人間の手が加わった明らかな痕跡が残されていた。数世代、あるいは数百年前の先祖たちが、この地底の隠れ家に集った際、黒曜石の刃で深く刻み込んだであろう、古い形式のマヤ文字の意匠が、松明の揺らめく光の中に浮かび上がったのだ。時の経過によって石灰の薄膜が文字を覆い、まるで大地の皮膚そのものが言葉を語りかけているかのような、奇妙な一体感を醸し出している。

頭上を見上げると、何十メートルもの高さがある天井から、巨大な石柱(鍾乳石)が、神殿の柱のように整然と建ち並んでいた。それは、自然の猛威という神々の意志が、数万年の歳月をかけて造り上げた、地底の神殿だった。暴風雨の濁流が届かぬこの場所は、過酷な流浪の旅の果てに、一族が文字を繋ぐために用意された「仮初めの聖域」に他ならなかった。


カック・モウは平らな岩の台座を見つけると、そこにゆっくりと腰を下ろした。極限まで緊張していた肉体が弛緩した瞬間、全身を猛烈な悪寒が襲う。濡れそぼった麻布の衣服は、体温を容赦なく奪い去り、脇腹の傷からは再びじわりと鮮血が滲み出して泥岩を赤く染めていった。

しかし、彼は己の肉体の崩壊を顧みるよりも先に、胸元を縛っていた紐を解いた。


細心の注意を払いながら、衣服の奥からアマテの写本を取り出す。

イチジクの樹皮を叩き伸ばし、コパルの樹脂で固められた折り畳み式の写本は、水分を吸って元の三倍ほどの厚みに膨れ上がっていた。最も外側の折り目は先ほどの逃避行で引き裂かれ、虚空へと散逸してしまったが、中層から最奥にかけての紙面は、カック・モウが自らの肉体で覆い隠したことによって、奇跡的に最悪の溶解を免れていた。

松明の炎の熱を微かに近づけながら、彼は写本の表面を注意深く観察した。

そこには、歴代の写本官たちが心血を注いで描いた「星の運行」と「生命の数」の目盛が、滲みながらもその輪郭を保って静かに存在していた。神々が人間に与えた試練の周期、トウモロコシが芽吹くべき聖なる日、精度高く一族が生き延びるための法。点と棒で表されたその算術の記号は、暗黒の聖域の中で、まるで冷めない炭火のように微かな光を放っているように見えた。


「長老……守り、抜きました……」


カック・モウの脳裏に、先ほどセノーテの棚で息を引き取った老神官の、冷え切った最後の表情が鮮明に蘇った。

『お前が、次の代の、盾となるのだ……』

老人が遺したあの言葉の重みが、いま、カック・モウの細くも引き締まった両腕に、圧倒的な重圧となってのしかかってくる。神殿を失い、偉大な指導者を失い、かつての同胞たちは裏切りと生存の闘争の中で泥の底へと沈んでいった。いま、三百年にわたる一族の歴史と、神々との契約を記憶している生者は、この暗黒の底に佇む彼一人しかいない。


彼が文字を失えば、世界は真の意味で死を迎える。人間は自然の混沌にただ怯え、涙を流すだけの無力な家畜へと退行し、密林の肥やしへと変え果てるだろう。そうさせないための壁、それこそが、この手にあるふやけた樹皮紙なのだ。


今の彼の手には、敵を拒むための武器など何一つ残されていなかった。シアン・カアンの戦士が握っていたあの漆黒の黒曜石の短剣は、濁流の底、二度と届かぬ泥の深淵へと没して久しい。引き裂かれた衣服の端切れと、己の血に塗れた両手、そしてこの崩れかけた文字の残骸だけが彼のすべてだった。カック・モウは足元から鋭利に尖った石灰岩の剥片を拾い上げると、自らの左の掌を見つめ、迷うことなくその刃を押し当てた。

「じ、じ……」と、肉の裂ける鈍い音が地底の静寂に響く。鮮烈な、熱い生の血が掌の傷口から溢れ出し、冷え切った彼の皮膚を伝って滴り落ちた。

カック・モウはその血まみれの手を、アマテの写本の、文字が消失しかけた空白の端へと力強く押し当てた。彼の生の血は、水分を含んだ樹皮の繊維へと急速に染み込んでいき、失われかけた聖なる意匠の周囲に、新たな命の境界線を引いていく。


それは、遠い祖先がカポックの巨木に血の契約を刻んだあの夜から、何世代にもわたって繰り返されてきた、精神の楔であった。文字を守るということは、自らの血を世界の秩序へと差し出し続けるということだ。その冷酷で、しかし絶対的な現実を、カック・モウは自らの肉体をもって完全に受け入れた。

「乾季が訪れ……大地の皮膚が再び乾くまで、俺はここでこの火種を守り続ける」

カック・モウの声は、岩壁の古い文字たちに木霊し、重厚な響きとなって地底の闇へと溶けていった。

外の世界では、なおも天蓋を揺らす瀑布のような豪雨が大地を穿ち、密林を泥の海へと変え続けているのだろう。だが、この仮初めの聖域にある不滅の火種は、決して絶えることはない。カック・モウは写本を愛おしそうに抱きしめ、松明の微かな温もりの中で、地上の嵐が去るその時をじっと待ち受けるのだった。

(第3章・第一部:『猛る戦塵と、破られた写本』完)

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