第52話:冷えゆく香炉、裏切りの黒曜石
第3章:密林の覇権戦争と「血の代償」
第一部:猛る戦塵と、破られた写本
大粒の豪雨は、密林のすべてを冷徹に叩き、散逸した聖なる神名の痕跡さえも無慈悲に泥の底へと沈めていく。
先ほど濁流の渦巻く窪みから引き上げた老神官の身体は、カック・モウの腕の中で驚くほどに軽かった。尖った石灰岩に抉られた腕からの流血は、激しい雨水によって瞬時に薄められ、黒泥の上を赤く滲ませながら流れ去っていく。老神官はかろうじて息を繋いでいたが、その瞳は焦点が定まらず、胸元に抱え込んだ「アマテの写本」の残骸をただ狂おしいほどの執念で凝視していた。
水分を含んでぶよぶよと弛んだ樹皮紙からは、かつて神殿の奥深くで焚かれていたコパルの香煙の気配が、いまや完全に消え去ろうとしている。
(香炉が、冷えていく……。世界の調和が、この雨によって洗い流されていく)
かつて祭壇に捧げられていた神聖な残り香が消失していくことは、神々との契約の終わり、すなわち一族の霊的な盾が完全に機能を失ったことを意味していた。息を吸い込むたびに、濡れた土の匂いと腐葉土の発酵した甘腐い臭いが肺の奥を限界まで満たし、カック・モウの肋骨を締め付ける。背後で千切れ、虚空へと散逸していった「フナブ・ク」や「イツァムナー」の文字の喪失感が、冷たい物質的な重みとなって彼の肉体を押し潰そうとしていた。
もはや、逃避行のはじめに彼らを守ってくれたカポックの巨木のような、一時的な平穏の足場はどこにもない。大地そのものが完全に形を失い、流動化する黒泥の海と化したこの傾斜地で、二人は剥き出しの自然という圧倒的な神性の暴力に晒されていた。
その時、前方の昏いシダの巨葉が重なり合う闇から、激しい雨音を切り裂いて一本の影が滑り出してきた。
カック・モウは反射的に身を強張らせ、ふやけた写本を片腕で抱え直しながら、もう片方の手を泥に塗れた腰の黒曜石のナイフへと伸ばした。
だが、現れたのは敵の戦士ではなかった。彼らの集落でともに文字を学び、神殿の維持を任されていたはずの一族の若い写本官――シアン・カアンであった。
しかし、その姿を目撃した瞬間、カック・モウの脳髄を凄まじい悪寒が駆け抜けた。シアン・カアンの顔には、神に仕える者が施すべき聖なる白い漆喰の化粧ではなく、敵対するティカルの象徴である「黒赤の戦化粧」が、雨水に滲みながらも生々しく施されていたのである。その右手には、儀礼用のものではなく、肉を切り裂くために研ぎ澄まされた、漆黒の光を放つ大きな黒曜石の短剣が握られていた。
「シアン・カアン……お前、その顔は……どういうことだ」
カック・モウの声は、激しい滝のような雨音に遮られながらも、絞り出すような怒りを孕んで震えた。
シアン・カアンは応えない。彼の瞳からは、かつて神聖な数を計算し、天体の運行を写本に書き写していた時の、あの澄んだ理性はひとかけらも失われていた。そこにあるのは、崩壊する世界の混沌に呑まれ、自らの生を繋ぎ止めるためだけに一族を売った、裏切りの光だった。
「カック・モウ、写本を……その残骸をこちらへ渡せ」
シアン・カアンの唇から漏れたのは、冷徹な要求だった。彼の足元から立ち上る、泥混じりの油臭い戦化粧の匂いが、雨の鋭い冷気によってカック・モウの五感を直に刺激する。
「これを……この文字の盾を渡せだと?お前は神々との契約を、一族の血を裏切るというのか!」
「神々は死んだ!神殿が炎に包まれた時、コパルの香煙が途絶えた時、俺たちの法は消滅したのだ!」
シアン・カアンは吠えた。彼の持つ黒曜石の刃が、天蓋の隙間から漏れるわずかな稲光を反射し、禍々しく明滅する。
「戯れ言を!」
カック・モウの怒声は、叩きつける雨音の中に鋭く突き刺さった。彼の胸元に抱えられたアマテの樹皮紙は、冷たい水分を吸って今や死臭に似た泥の臭いを放っている。しかし、そこには未だ失われてはならない一族の法が息づいているはずだった。
「文字が消えれば、人間はただの獣に還るのだぞ、シアン・カアン!それを敵に差し出して、お前一人が生き残ることに何の価値がある!」
「価値などどうでもいい、生き残ることがすべてだ!」
シアン・カアンの咆哮とともに、黒赤の戦化粧を施した顔が歪んだ。彼の一歩を踏み出す足元で、流動化した黒泥がブツブツと不気味な泡を立てて撥ね上がる。彼が構える黒曜石の短剣は、敵対するティカルの戦士たちから与えられたものか、あるいは神殿の宝物庫から奪い去ったものか。その冷酷な漆黒の刃は、かつて彼らがインクに浸していた筆の先よりも遥かに鋭く、そして狂暴に二人の命を狙っていた。
シアン・カアンの視線は、カック・モウの胸元から、その背後で泥岩に身を預けている老神官へと移動した。老神官の細い腕から流れる鮮血はすでに勢いを失い、その瞳は薄い膜を張ったように濁り始めている。老神官の唇は微かに蠢いていたが、もはや神名を紡ぐ力はなく、ただ肺の奥からヒューヒューと漏れる呼吸の音だけが、彼の生命の終わりが近いことを冷徹に告げていた。
「長老はもう終わりだ。お前がその重荷を抱えたまま、この泥濘の地獄を逃げ切れると思うな。写本をこちらへ渡せば、お前の命だけはティカルの将軍に乞うてやる」
シアン・カアンがさらに一歩、距離を詰めてくる。雨水が彼の黒赤の顔料を溶かし、まるで泥の中に血が混ざり合うかのような禍々しい模様となって彼の鎖骨へと流れ落ちていた。
カック・モウの脳裏に、かつて神殿の奥でともに星の運行を数え、樹皮紙に墨を落としていたシアン・カアンの姿が掠めた。あの頃、彼の指先は白く清潔で、神々への畏怖に満ちていたはずだった。それが今や、ただの肉の塊としての生存を求めるあまり、一族の精神の盾を切り裂く刃を握っている。世界の調和が崩壊するとは、大地のひび割れや豪雨だけでなく、こうして人間の理性が内側から腐食していくことそのものなのだと、カック・モウは身を灼くような絶望とともに理解した。
「断る」
カック・モウは泥塗れの脚を踏みしめ、腰のナイフを引き抜いた。彼のナイフはシアン・カアンの持つ短剣よりも短く、激しい雨のせいで柄がずるりと滑りそうになる。それを指の骨が浮き出るほどの力で握り直した。
「ならば、ここでその文字ごと泥の養分になるがいい!」
シアン・カアンが泥を蹴って飛び込んできた。黒曜石の刃が雨のカーテンを切り裂き、カック・モウの喉元へと迫る。
カック・モウはふやけた写本を左腕で死守しながら、右腕のナイフでその一撃を受け止めた。ガキッ、と硬質な石と石がぶつかり合う鈍い音が響き、激しい衝撃がカック・モウの肘を痺れさせる。二人の肉体が黒泥の斜面で激しく衝突し、足元の土壌が完全に崩壊した。
滑り落ちる感覚のなかで、シアン・カアンの戦化粧の油臭い匂いと、飛び散る雨水がカック・モウの視界を完全に奪う。狂乱する黒曜石の刃が、カック・モウの麻布の衣服を切り裂き、彼の脇腹の皮膚を浅く抉った。熱い痛みが走ると同時に、自分の血が雨水に混ざって流れ落ちるのを感じる。
(死なせるものか……この盾を、このような裏切りの刃で終わらせてなるものか!)
カック・モウは泥の中に膝を突きながらも、全体重をかけてシアン・カアンの身体を前方の斜面へと突き飛ばした。バランスを崩したシアン・カアンの足元が、激流と化した黒泥のうねりに足を取られる。
「うわあああっ!」
シアン・カアンの短い絶叫が響いた。彼の身体は斜面を転がり落ち、その先にある、密林の底が不気味に口を開けている暗黒の深淵――陥没穴の縁へと向かって、ずるずると滑り落ちていく。
カック・モウは息を切らしながら、脇腹を押さえて立ち上がった。シアン・カアンの手から離れた黒曜石の短剣が、冷え切った泥の中に突き刺さり、ただの黒い石として雨に打たれていた。写本からは神殿の残り香たるコパルの香煙は完全に消失し、ただ生々しい血の匂いだけが、冷徹な密林の空気の中に漂っていた。




