第35話 狂気の伝播、崩落する境界
第2章:巨大ピラミッドと算術の呪い
第二部:割れる石階と、呪医の血煙
バラムが突き出した「狂乱の松明」の赤黒い炎が、漆喰の白壁を斑に焼き焦がし、その黒煙は神殿の神聖な空間をあっという間に地獄の底のような悪臭で満たした。クニッチ・パカルの左腕に抱えられたアマテの写本は、熱気を含んだ夜風に煽られてパラパラと乾いた音を立てていたが、その表面に並ぶ細かな点と棒の文字群は、いまや激しく揺らめく炎の影に脅かされ、今にも消え入りそうに見えた。
「その書物を渡すのだ、パカル」
バラムの背後にひしめく男たちの手が、いくつも闇のなかから伸びてくる。それはかつて、パカルの指示に従って正確に石を切り出し、水平を測っていたはずの職人たちの手だった。しかし今、その節くれ立った指先は、神官が守るべき文字への敬意を完全に失い、ただ目の前の恐怖を焼き払うための暴力的な衝動に突き動かされている。
男たちの眼窩は松明の逆光で深く窪み、その奥でぎらつく瞳には、理性の光に代わって「これ以上、石の山に肉体を喰い殺されてたまるか」という、生身の獣が放つ強烈な生存本能が宿っていた。一人、また一人と、バラムの言葉に煽られた農夫たちが神殿の高床へと泥に汚れた足をかけ、漆喰の床を汚していく。
「退け、迷妄に囚われし者どもよ」
神殿の奥、微動だにせず座していた老神官マホクヌームの、低く涸れた声が響き渡った。彼の声には、民衆の狂乱を遥か高みから見下ろすような、氷の如き冷徹さが満ちていた。
「その書物は、お前たちの祖先が密林の緑の地獄を生き延び、この地に豊かなトウモロコシの実りをもたらすために築いた不滅の盾である。大地の怒りを恐れるあまり盾を焼けば、お前たちを待つのは、あの底なしの沼の底へ、再び獣として還る破滅の道だけだ。何世代にわたる一族の歩みを、呪医の甘き毒水の一滴で泥に還すつもりか」
老神官の威厳に満ちた一喝に、登りかけていた男たちの足が一瞬、ぴたりと止まった。何世代にもわたり植え付けられてきた「神官への畏怖」が、彼らの肉体の奥で一時的に鎌をもたげたのだ。彼らは互いに顔を見合わせ、手にした槌やノミを握る力をわずかに緩めた。
だが、その一瞬の静寂を、バラムの耳障りな高笑いが切り裂いた。
「不滅の盾だと?笑わせるな、マホクヌーム!」
バラムは一歩前へ踏み出し、松明の炎をマホクヌームの顔のすぐ近くまで突きつけた。老神官の、干からびたイチジクのような皮膚が、炎の熱線に炙られて不気味に光る。
「その盾とやらが、レクの足を腐らせ、若い石工の骨を砕いたのだ!お前たちが白い石の山を高く積めば積むほど、大地の神々は息を詰まらせ、その重みに耐えかねて悲鳴を上げている。いま、第一の山の隙間から流れているあの赤黒い粘液は、お前たちの傲慢によって流された大地の血だ!神々は、お前たちの冷たい点と棒の記録など求めてはおらぬ。生きた血を、肉の痛みを求めているのだ!」
バラムの叫びは、せき止められていた民衆の恐怖の濁流を再び決壊させた。
「そうだ!山が俺たちを喰らう前に、その書物を焼け!」
「記録を殺せ!石の怪物を眠らせろ!」
地響きのような咆哮が神殿の天蓋を揺らし、男たちが一斉に突き出した松明の炎が、パカルのすぐ目の前まで迫る。
パカルは、背後に控えるマホクヌームの冷徹な眼差しと、眼前に迫る民衆の狂気の炎の狭間で、胸が引き裂かれるような葛藤に苛まれていた。彼は、傷ついたレクの絶叫を聞いた。その腐臭を嗅ぎ、人間がただの記録の損失として処理されていく現場の痛みを、誰よりも生々しく五感で受け止めてきた。しかし、だからといって、この文字の盾を捨てるわけにはいかない。職人頭が言った「俺たちは数字じゃねえ」という叫びの真実と、マホクヌームの言う「記録を止めれば都市が崩壊する」という冷酷な現実の、どちらもがパカルの肉体を左右から引っ張るようにして、激しく痛めつけていた。
「パカル様、逃げてくだされ!」
その時、民衆の群れのなかから、職人頭が身を挺してバラムの腕を掴み、その突き出された松明を強引に引き剥がそうとした。職人頭の逞しい両腕の筋肉が、怒りと恐怖のなかで限界まで張り詰め、浮き出た血管が松明の炎に赤く浮かび上がる。
「お前たち、目を覚ませ!パカル様は俺たちのために、この記録を守ろうとしてくれているんだぞ!バラムの言う通りに書物を焼けば、俺たちがこれまで汗と血を流して積んできた石の山はどうなる!ただの巨大な墓場になっちまうんだぞ!」
「黙れ、神官の犬め!」
バラムが叫び、空いた左手で泥の底から拾い上げたと思われる、鋭利な石灰岩の破片を職人頭の胸元へと突き立てた。
生々しい、肉が裂ける「ぶつり」という音が、狂乱の騒音のなかでパカルの耳に確かに届いた。職人頭の胸から、赤黒い、そして熱い鮮血が噴き出し、神殿の漆喰の床へと激しく飛び散った。職人頭は大きな身体を揺らし、信じられないという目で見つめたまま、泥の塗れた床へと崩れ落ちていく。
「職人頭!」
パカルは叫び、我を忘れて前へ踏み出そうとした。だが、彼の背後から、マホクヌームの冷酷極まりない、しかし震えのない手がパカルの肩を強く掴んで引き止めた。
「動くな、パカル。いま前へ出れば、その書物ごと狂気に飲み込まれる。職人頭の流した血が、この地の新たな生贄の目盛りとなったのだ。その対価が大地に吸われるのを見届け、お前はただ結果を樹皮に刻め」
職人頭の流した鮮血が、床を伝い、神殿の階段の縁から、夜の闇が包む第一の山の裾野へと滴り落ちていく。その血の匂いを嗅ぎつけたかのように、密林の奥から、昼間よりもさらに濃密な、地を這う巨獣の息吹きのような冷たい風が、一気に神殿の広場へと吹き抜けた。
松明の炎が風にあおられて激しく狂い、民衆は血の匂いに我を忘れて神殿を埋め尽くそうとする。秩序を保っていた最後の防壁が、いまや完全に陥落しようとしていた。パカルは左腕に抱えた写本の重みを、まるで自分自身の命の重さそのものであるかのように感じながら、迫り来る黒い影の波を見つめ続けていた。




