第34話 狂乱の松明、呪医の回帰
第2章:巨大ピラミッドと算術の呪い
第二部:割れる石階と、呪医の血煙
天蓋を覆い尽くした湿った暗雲は、容赦なく陽光を吸い取り、密林の都市を予定された時間よりもはるか早くに深い夕闇へと突き落とした。じっとりと肌に張り付くような熱帯の湿気は、雨を孕んで重く澱み、呼吸をするたびに肺の奥へ泥を含んだ空気が流れ込んでくるかのようだった。ピラミッド「第一の山」の第五層から救出された若い石工は、男たちの手によって集落へと運び去られたが、彼の足首から滴り落ちた赤黒い粘液の軌跡は、白い石灰岩の上に消えない呪いの染みとして焼き付いていた。
神殿の高床に佇むクニッチ・パカルの耳には、遠く離れた集落のあちこちから沸き起こる、低く不穏な地鳴りのようなざわめきが届いていた。それはもはや、個々の人間が発する声ではない。恐怖という名の疫病に感染し、一つの巨大な蠢く獣と化した民衆の、理性を失った呼吸の音だった。
パカルの前に広げられたアマテの写本には、夜の帳が下りるにつれて、周囲の暗闇を反射するかのように昏い影が落ちていた。ウサギの骨の筆を握る彼の指先は、昼間に黒曜石の小刀で「影の肉」を切り裂いたときの、あの凍りつくような冷たさと、ねっとりとした油分に似た感触をいまだに記憶しており、微かに震えを帯びていた。一人の農夫が足を失うたびに、その痛みを文字として記録せねばならない写本官の職責が、いまやパカルの心に重くのしかかっている。
「奴らは、あの石の山を崩せと叫んでいる」
神殿の奥、コパルの香煙が最も濃く渦巻く暗がりのなかから、老神官マホクヌームの掠れた声が響いた。彼の身体は、何世代にもわたる神官の衣服――幾重にも重ねられた硬い木綿の布と、色褪せたケツァールの羽の装飾――の重みに耐えるようにして、床に深く腰を下ろしていた。衣服の隙間から覗く老人の皮膚は、深い皺が刻まれ、まるで干からびたイチジクの皮のように生気を失っている。だが、その声は冷徹そのものだった。
「彼らは、石の山が肉を喰らうのを見たのだ。初代クシが定めた点と棒の法は、未熟な民の目には、自然の神々を怒らせる傲慢な檻としか映らぬ。パカルよ、お前が昼間にどれほど痛ましく思いながら『損失』を記録しようとも、民にとっては、あの白い石階が自らの命を一人ずつ削り取っていく破滅の歩みにしか見えんのだ。だが、記録を止めることは許されん」
「マホクヌーム、私は記録を捨てるつもりはありません。ここで石を積む手を止めれば、積石の水平は完全に失われ、次の豪雨の季節にこの山は内側から泥水を含んで爆発します。それこそが、この都市の終わりです」
「ならば筆を動かせ。理屈で民の恐怖は拭えん。数の冷徹さを貫け」
マホクヌームは濁った両目をゆっくりと開き、神殿の外の闇を見据えた。
「狂気という名の雨が、すでに麓から登ってきている」
老神官の言葉が終わるか終わらないかのうちに、集落の端から一本の、そしてまた一本の炎の針が闇を突き破って立ち上がった。
それは通常の煮炊きの火でも、神殿を照らす清浄な松明でもなかった。樹脂を大量に塗りつけられた太い粗木に、泥の呪医たちが調合した薬草の葉を巻き付けた「狂乱の松明」だった。その炎は、不気味なほど赤黒く、周囲の空間に大量の黒煙を吐き出しながら、生き物のようになびいていた。黒煙が風に乗って神殿まで流れてくると、パカルの鼻腔を激しく刺激したのは、衣服や皮膚を侵食するような、酸っぱく苦い悪臭だった。
炎の列は、瞬く間に数十、数百へと膨れ上がり、ピラミッドの裾野へと向かってうねりながら進軍してきた。松明を掲げる民衆の顔は、赤黒い逆光のなかで歪み、まるで泥から作られた粗悪な仮面のように見えた。彼らは一歩足を踏み出すごとに、大地の古い神々の名を不規則に叫び、太ももや腕を鋭利な石の破片で自ら傷つけ、流れる血を大地上へと撒き散らしていた。彼らを先導しているのは、顔面に黒い紋様を描いた呪医バラムだった。彼の掲げる松明は最も巨大で、その先端からは沸き立つ黒汁のような火の粉が周囲へと飛び散っていた。
「パカル様!」
神殿の階段の最下層から、息を切らせて駆け上がってきたのは職人頭だった。彼の逞しい肉体は汗で濡れ光っていたが、その顔は恐怖と絶望で完全に血の気を失っていた。彼の両腕には、民衆が押し寄せるのを防ごうとした際についたと思われる、手荒い擦り傷がいくつも刻まれており、そこから少量の血が滲んでいた。
「防ぎきれません!男たちが……かつて俺と一緒に石を運んでいた奴らが、ノミや槌を武器に変えて、この神殿を取り囲もうとしています!バラムの奴が、この忌々しい巨大な石の山を破壊しろと、さもなければ神官の血で石の隙間を埋め尽くすと吠えているんです!」
「職人頭、落ち着くのだ。お前まであの泥の言葉に惑わされるな」
パカルは職人頭の震える肩に手を置いた。だが、階下からの怒号は、すでに神殿のすぐ足元にまで達していた。
無数の松明が放つ熱気が、夜の冷気と激しく衝突し、神殿の周囲にはもやのような水蒸気が立ち込め始めていた。バラムが一段、また一段と石灰岩の階段を登ってくるたびに、彼の足跡として残る黒い炭の粉が、白い石の美しさを無残に汚していく。
パカルは腰の帯から再び黒曜石の小刀を抜き、自らの写本を左腕で強く抱え込んだ。このアマテの樹皮に刻まれた文字と数こそが、何世代にもわたり密林の混沌から人間を繋ぎ止めてきた唯一の命綱である。どれほど民衆に憎まれようとも、これを狂乱の炎に焼かせるわけにはいかなかった。
バラムが神殿の最上層の広場へと踏み込んできた。彼の身体からは、強烈な発酵した酒の匂いと、傷口に塗るあの黒汁の腐臭が混ざり合った、圧倒的な悪臭が放たれていた。彼の瞳は松明の炎を反射して異常なほどにギラつており、そこには理性の介在する余地など一切なかった。
「写本官パカルよ、そして死に損ないの老神官よ」
バラムの声は、夜の湿った空気を引き裂くように鋭く響いた。
「お前たちの呪いの記録は、今夜ここで終わりを迎える。大地は、その白い文字による支配を拒絶されたのだ。お前たちが石を切り出すたびに、大地の皮膚は引き裂かれ、神々は血の対価を要求されている。その不吉な書物を差し出せ!
それを火に潜らせ、灰をこの山の隙間に埋めることこそが、今夜神々へ捧げるべき真の血の代償だ!」
バラムの後ろに控える民衆が、いっせいに松明を突き出し、歓声を上げた。その炎の波が、神殿の漆喰の壁に揺らめく巨大な影を作り出し、それはまるで密林そのものが神殿を飲み込もうと襲いかかってきているかのような錯覚をパカルに与えた。
パカルの皮膚は、迫り来る炎の熱線と、密林の奥から吹き付ける凍てつくような夜風の二つの極端な触感のなかで、限界まで張り詰めていた。背後には冷徹な目を崩さぬマホクヌームがおり、眼前には狂乱に踊る民衆がいる。秩序と狂気の境界線が、いま、この赤黒く燃える松明の海のなかで、激しく火花を散らしていた。




